120話:ノクセン公の願い(2)
「詫び……?」
メリヤナは訝しむ。
ノクセン公からはいつもの好々とした空気はなかった。
「さきほど、姫君はノクセンは鳥瞰だとお褒めいただきましたが、本来過分な言葉でございます。このノクセンは……昔は特に若かったものですから、その口で人を扇動せしめました」
「でも、公が口を開くのであれば、そこには皇国のため、というご意志があったのでは……?」
「見方を変えれば、そうかもしれませぬ。ですが、従姉妹のフィーユや殿下にとってはまちがいなく扇動でございましょう。フィーユに、側妃であっても皇王に妻として大事にしてもらえる可能性はある、と嘯いたのはこの我輩なのでございますから」
メリヤナは軽く目を瞠った。そのような言い方をしたら、自分と同じような年頃の女であれば、たしかに愛してもらえるかもしれない、と思いちがいをしてしまう可能性はある。
『ばかな母親だったよ』
冷然と言ったフィルクの言葉を思い出した。
「それゆえ、フィーユは聞いている話とちがう……と怒りが湧いたのでございましょう。たしかに我輩は陛下があそこまで側妃に対して無情であるとは思っておらぬものでしたが、フィーユの怒りを……マルムスの加護を呼び起こしたのは、まちがいなくこの我輩なのでございまする」
「マルムスの加護?」
耳慣れぬ言葉を聞いて、メリヤナは語尾を上げた。
眉を寄せると、ノクセン公が、おや、という顔をする。
「マルムスの加護については、殿下より聞かれておりませぬか?」
「……いいえ。今、はじめてお聞きしました。加護とは、なんですか?」
フィルクが意図的にその話を自分にしなかったのだということがわかった。
ノクセン公の表情から、なにか寒心に堪えないものを感じる。
「マルムスの加護とは……建国の折に、女神ヴァンニテが冥界に下る前にマルムス家に施した加護にございます」
「権能とはまたちがうものなのですか……?」
「いえ、ほぼ同じに近いものでございまする。姫君もおそらくご存知でいらっしゃるかと思いますが、姫君や皇族の皆さまに流れるのはエスト神そのものの権能です。ですが、加護は神が与えた力です。権能よりはやや力は劣りますが、加護もまた類するものですな」
では、マルムス家の血族——フィルクには、エスト神の権能と、ヴァンニテ神の加護どちらも宿るということだ。
だが、とメリヤナは思う。
冥界の女神であるヴァンニテ神。闇と炎の女神であるヴァンニテ。その加護は——。
「女神がマルムスに施した加護は〈冥い炎〉と呼ばれるものです。地母神の闇から這い上がる、懲罰的な怒りです」
ノクセン公の説明に、メリヤナは顔色を失った。
懲罰的な怒り。罰を下そうとする怒り。
昔、マイラーラの家で、老婦人アリエス・ハルヴィスと会話した内容だ。
神代の折、戦いに明け暮れる人間と姉女神エスト神を懲らしめるため、ヴァンニテ神は火山を噴火させ怒りの炎を撒いた。その炎は、あらゆるものを燃え尽くし、大地を爛らせた。——フリーダ神が、〈浄火〉するまでは。
姉女神を懲らしめるため、というのが記憶につきっと引っかかりを覚えた。
「なぜ、そのような加護を女神はマルムス家にお与えに……」
引っかかりを覚えながらも、メリヤナは疑問を口にする。
「仔細はわかりませぬ。何せ建国の頃でございまする。ですが、当時マルムス家は、我が国で司法を担当する長官を排出していたと聞いております。それゆえかと」
「その加護を、フィーユさまも……フィルクも持っていると?」
「少なくとも、フィーユは加護を目覚めさせていました。もう随分と古くに受けた加護ですから、その血が流れていても目覚めない場合もあるようです」
「……そうですか」
メリヤナは、少しほっとする。肩から力が抜けた。
それならば、フィルクが加護に振り回されずにすむ可能性もあるのだと思えた。記憶を刺激した引っかかりも一緒に取れる。
「フィルクス……殿下はわかりませぬ。あの方は、我輩の責任もあって、まともに親から感情を教わってはおりませぬので」
メリヤナはそれには同意する。だから、寄り添いたかった。感じきれていないものを、一緒に感じたかった。
「ですが、」
とノクセン公は、メリヤナを見定めた。おだやかであたたかい、まるで父ファッセルのような目をノクセン公はメリヤナに向ける。
「殿下は、姫君の話をされている時や、姫君といらっしゃる時は、まるでちがっていらっしゃるように見えます」
「え?」
「数ヶ月前、こちらにお帰りになった時に、我輩が『フリーダはどうでしたか』とお聞きしたのでございまする。そうすると、殿下はいつも変えない表情を和らげておっしゃったのでございます。雨滴が心地よかった、と」
「雨滴……?」
フリーダの冬の雨のことだろうか。海側に多くを接するフリーダは夏は渇き、冬に恵みの雨が降る。そうやって長い時間をかけてできたのが、〈緑の湖畔〉だ。
そういえば、出国の折、雨が好きだと言っていたことを思い出した。
メリヤナは胸元の雫に意識をやる。
「我輩も、疑問に思って聞いたのでございますよ。そうしたら、初春に咲く、扁桃の花のような子でもあった、と」
メリヤナの胸が、鳴った。鼓動が、早くなる。
「子と言いますから、人の比喩でございましょう。どなたか気心が知れた方ができたのですか、とお聞きすれば、今度は曖昧に誤魔化されます。それでせめて愛称でもないのですか、略称でも構いません教えてください、と聞きましたのでございまする。そうするとやっと、『僕は、リヤと呼んでいる』と」
メリヤナは胸元の飾りにふれる。
ちりん、という音とともに、リヤ、と言う彼の表情と声が思い出されて、何かが浮かぶようだった。
「それでまあ、どなたかと我輩も調べましたら姫君に至ったわけですが、実際に姫君が来られましたら、殿下は他のご令嬢とはあきらかにちがう態度を取られます。とてもやすらかに、楽しそうに姫君とは過ごされます」
ノクセン公はおだやかに語る。父ファッセルのようだと思ったノクセン公の慈愛に満ちた目は、それが己の血筋であるフィルクに対してなのだということがわかった。フィルクのことをきっと、息子のように思っているのだろう、と。
「——これは余計なことかと思いまする。ただ、若人に節介を焼いているのだと。それから、かつて扇動した内容の罪滅ぼしだと思ってお聞きくださいませ」
「……はい」
メリヤナは込み上げてくるものを懸命に抑えながら、首を縦に振った。
「おそらく殿下は、姫君に特別な想いをお持ちでいらっしゃいます。聞いてはおりませぬ。おやじの勘というやつでございまする」
「……っ」
ひとつ、目尻に浮かんだ。そうすると、また片方からもひとつ浮かんで、どちらもゆっくりと流れ落ちていく。
「ドールの姫君、フリーダの〈運命の乙女〉と称されし方、姫君のお気持ちは聞きませぬ。ですが、もし——」
ノクセン公は言葉を区切る。区切って、それから慈愛をこめて言の葉を連ねた。
「もし、姫君も殿下に特別な想いがおありなら、どうかそれを殿下にお伝えくださいませ。それだけで、殿下はきっと救われます。きっと……マルムスの加護を発動せずにお過ごしになることができます」
メリヤナは流れるものを隠すようにし、俯いた。
それから小さく肯く。
「……わかりました」
別れ際、ノクセン公は頭を下げて言った。
「本来、姫君の立場を思えば、このような願いをしてはなりませぬ。——戯言にお付き合いいただき、御礼を申し上げます」
メリヤナは帰途につきながら、ノクセン公から聞いた言葉を頭のなかで繰り返した。
『殿下はいつも変えない表情を和らげておっしゃったのでございます。雨滴が心地よかった、と』
『おそらく殿下は、姫君に特別な想いをお持ちでいらっしゃいます』
繰り返し、胸が高鳴る。
『僕は……、雨が好きだから』
フリーダでの別れ際の言葉が彷彿とする。
『もしかしたら、それがヤナかもしれないだろ』
ユステルの言葉が頭をよぎる。
『——これは、練習じゃなくて、ただの……、僕の、欺瞞だ』
そう言って重ねられた唇が、よみがえる。
(フィル……あなたは、まさか……)
期待を持ってはいけないとわかっている。今の自分の立場がそれどころではないことも。
それでも、もしかしたらそうかもしれない、という可能性に、震えるものがあった。全身が、求めているものがあった。
(聞きたい)
聞いて、たしかめなければならない。あの視えた未来につながらないためにも。
たしかめて、それでどうするのか、どうにもならないということもわかっている。メリヤナがルデルアンの婚約者である、という事実はどうにもならない。
だが、聞かなければ前に進めそうになかった。
(フィル、あなたの〈唯一〉はだれ……?)
こちらに来て何度思ったかわからない、それを問う。
足が、速くなった。皇宮へと戻る足が、高鳴りと共に急く。
そうして、戻って来て、がやがやと勤め人たちが気にする方向があった。侍女や騎士たちが何やら立ち話をしながら遠目のほうを見ている。
「なにか、あったのですか?」
〈玻璃の宮〉近くの階段から覗くようにする侍女たちに声をかけると、彼女たちは驚いて恐縮した。
「公女さま」
「皆さん、なにかを気にされているようですが……?」
メリヤナが疑問を口にすると、ひとりから答えがあった。
「修練場のほうでございます。皇太子殿下と、昨日からお越しになっている王太子殿下が修練をされていたのですが、そこにちょうどフィルクス皇子殿下が来られて」
「え?」
「そうなのです。王太子殿下と皇子殿下がどうやら模擬試合をなさるようなのです」
それで皆きゃあきゃあと気になってしまって、という侍女の説明を最後まで聞かずに、メリヤナは裾を持って、駆けた。皇宮の北に位置する修練場へと急ぐ。馬場の近くにある修練場に。
ぎんっ、と金属が交叉する音が響いた。