110話:カナンの優しさ
だんっ、と大きな音を立てて、メリヤナは滞在している部屋に戻った。
混乱している頭に、力加減を調整する力は残っていなかった。
「……お嬢さま?!」
今日の夜会はフィルクが付き添っていたから、侍女であるカナンは主人であるメリヤナに付き従っていなかった。
帰ってきてすぐ休められるよう部屋を整えている最中だった。
だから、その主人が音を立てて、涙を流しながら帰ってきたことに、今まで仕えているなかで一番の驚きを見せた。
「どうなさったのですか?」
カナンの声が慌てている。思案を浮かべている。急いで布や、茶などを準備するように、他に命じている。
「……カナン」
メリヤナは、もうわけがわからなかった。
自分というものが今どういう状態なのか、わからなかった。
すがるように、カナンに尋ねる。
「わたし……わからないの。自分が、わからないの。教えて……カナン。あなたに、ずっとわたしを見ているあなたに、今のわたしがどう見えるのか……」
「とりあえず、お座りくださいませ。お話するのはそれからです。あたたかい飲み物がすぐに参りますから」
カナンはメリヤナをなだめるように腕をさすりながら、長椅子に座らせる。
まもなく湯気を立てた香茶が運ばれてきた。飲むように言われて飲むと、すっとミラルの澄んだ香りが入っているのがわかった。
それだけで、メリヤナはまた涙が浮かんでくる。あたたかさと一緒に思い出されるものがあって、だめだった。どばどばと途方もない涙が落ちてくる。
「お嬢さま……」
「カナン……っ、わたし、わからない……っ、だって、ありえなくて……っ、っく、そんなこと、ありえるはず……ないのに……っ」
「なにをですか。お聞きしますから、ゆっくりお話くださいませ」
「わた……っ、わた、し、とフィル……っ、カナンに……、どう、見え、る……っ?」
手巾が差し出される。それで涙やあふれ出てきたものたちを拭う。それでも、出てくるものが止まらない。
カナンは、メリヤナの言葉を聞き終えて、しばし沈思黙考していた。
この侍女は丁寧で実直だ。メリヤナの言葉を正しく解釈して、答えを用意しようと考えてくれている間なのだとわかった。今のメリヤナには、その丁寧さとまっすぐなものが、何よりも必要だった。
「——わたくしは、」
そうしてカナンは言葉がまとまったように口火を切った。
「お嬢さまは、フィルクさまをお慕いしているのだと、そう見えておりました」
カナンは続ける。
「お嬢さまが、フィルクさまと交流されるようになった頃、ちょうどわたくしにも仲良くなりたいと声をかけてくださりましたよね」
「……う、ん」
「あの頃から、拝見させていただいております。ですから、お嬢さまが段々と、フィルクさまに惹かれていっているのを誰よりも近くで見させていただいていたと……思っています。ですが、お嬢さまには王太子殿下という婚約者さまがいらっしゃいましたから、お嬢さまご自身は気付かないようにしているのだと……そう思っていました」
カナンはやわらかく、まるでメリヤナのほんとうの姉のように笑う。濡れて崩れた髪を直すようにしながら、髪を撫でられた。
「お嬢さまはご自身で気付いていらっしゃらなかったと思いますが、フィルクさま……いえ、皇子殿下とお過ごしの時は、とても伸びやかで、うれしそうな顔をしていらっしゃいました。サルフェルロで、タルノーさま経由でお手紙をもらった時を覚えておいでですか? ほんとうに心から想っていらっしゃるように見えました。
——それに気付かれたのですね……?」
カナンの声が、メリヤナのすべてを肯定する。感じていること、思っていること、想っていること。カナンは、気付きながらも見守ってくれていたのだとわかった。
その優しさに、また込み上げてくるものがある。ずっと押さえ込んでいた、気付かないようにしていたものが、出てくる。
「でも……っ、わたし……」
わたしには、ルデルがいる。
そんな、メリヤナの言葉も察して、カナンはメリヤナの髪を撫でながら言う。
「おつらい……ですよね。ほんとうにとても、おつらいと思います。自分が同じ立場だったらと考えると……もし、サンデルではなく、親が用意していた相手と結婚していたら、自分はどうなっていたのであろうと思います。それは考えることができません」
カナンが手を止めて想像を働かしたかのように言った。
メリヤナは、それがほんとうにかつての未来だったことを知っている。カナンとは当時縁がなかったから、どうなったかはわからない。だが、その未来がありえたことを知っていた。かつてのカナンは、どうだったのだろうか。サンデルとそもそも知り合っていたのか、それさえもわからなかった。
カナンのことだから、夫となる人間には誠実に過ごしていただろうと思うが、すでにわかりえぬことだった。
「王族貴族とは政略結婚をするものだと聞いています。お嬢さまもそうなのでございましょう。それでも、フィルクさまに惹かれていらっしゃるのですね」
惹かれている、慕っている。
そう表現される言葉たちを、メリヤナは頭のなかで何度も繰り返した。
驚くほどそれは、しっくりと来る言葉だった。
友人や友だちなどという言葉ではなく、惹かれている相手、慕っている相手、と聞くと、フィルクに抱いているものとして、宝箱に鍵が入ったように挿しはまる言葉たちだった。
「……っ」
メリヤナは大粒の涙を目尻からこぼす。あふれるものが止まらない。止まらないのに、それでもメリヤナの思考が否定する。
「……でも、ありえないっ、の」
メリヤナの〈唯一〉はまちがいなく、ルデルアンだった。
それだけは人生をやり直したからこそ、断言ができる。
だから、おかしいのだ。この感情が出てくることはありえないはずなのだから。
「何がでございますか……?」
カナンが問う。
カナンには、自分の〈唯一〉のこと。かつての生のことを話していない。その問いは自然なものだった。
話してしまおうか、と思った。
おそらくカナンであれば、信じてくれる、という確信めいたものがあった。その確信は数年前にフィルクが信じてくれたからこそ抱けるものだった。話してしまえば、自分の思考の疑義を話してしまえる。そう思った。
だが、かつての生の話は、メリヤナとフィルクのあいだにだけ共有されている、特別な絆の証だった。その思考に入ると、言えない、話せない、となる。
この絆を、失いたくない、と。
メリヤナの無言を、カナンがどう受け取ったのかはわからない。
されど、カナンはカナンだ。話したがろうとしないことを、穿鑿することは絶対にしない。カナンとは、そういう性質の人間だった。
「……お嬢さまが何をもってそのお気持ちを否定されているのかはわかりません。なにかわたくしが示せれば良いのですが……証拠となるようなものがあれば良いのですが……」
メリヤナは驚いて、カナンを見る。
ひらめきにあふれたカナンに希望を見る。
「せめて、なにか証明できれば、お嬢さまはそこまでの葛藤するお気持ちを抱かないはずです。わたくしが何かできればいいのですが……」
カナンは少し悄然としたようだったが、メリヤナはそうでなかった。
涙が一瞬で止まる。忘れていたものを思い出す。
「……あ」
メリヤナは、自らの左肩にふれる。
エストヴァンを訪れてからこの方、忘れていた使命。忘れていた刻印。
——神との契約の証。二枚の橄欖の葉と、実。
『実は一度のみ、おれに会うための符として使えるぞ』
そう言っていた記憶が、よみがえる。
この時宜に、使うものかはわからない。私的な使い方のような気もしてしまう。
けれど、メリヤナの運命に、王国の運命がかかっているのであれば、この事態の理由を知っているのは神に他ならない。
(実を、使う)
メリヤナは決心する。これまで何度か迷ったことが嘘だったように、今この時が使うべき時なのだということが、メリヤナにはわかった。