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105話:思い出の運河

 牽引道(けんいんどう)を、メリヤナとフィルクは歩く。景観の美しい、並木道だった。


 ベステの街の視察を終え、公務は一旦休みである。メリヤナに随行してきた面々も各自で自由時間となった。同行するといったエッセンをフィルクが振り払って、ふたりだけになったが、問題はないという。


「一応あなた皇子さまなのに」


「僕だって、自分の身と、君の身くらいは守れるくらいの武術の心得はあるよ」


「ええーっ」


 メリヤナは心底驚いて、足を止める。


 運河沿いの牽引道には、篠懸(プラタナス)の木や糸杉が一定間隔で植えられて、見ているだけで気持ちが良かった。木漏れ陽からの韶光(しょうこう)が心地よく(みどり)が辺りを明るく照らす。若葉の匂いをはらんで、春の息吹を感じるようだった。


「フィルって、戦えるの……?」


 メリヤナは胡乱(うろん)げに尋ねる。

 フィルクがむっとしたのがわかった。


「今そう言っただろ」


「そうだけど……、そのなんというか、印象がなくて……あなたってほら、元引きこもりじゃない?」


 本ばかり読んで、明らかに文官肌だったではないか。


「あちらにいる頃から、最低限の護身術は教育として受けていたし、それなりに鍛えていたよ。君が知らないだけで」


「そ、そうなんだ」


 たしかに、以前思ったより胸板がしっかりしていると思った覚えがある。

 その時のことを思い出して、メリヤナは、かああっと顔が紅潮しないように、ぱたぱたと羽織っている薄布(うすぬの)で自分の顔を扇ぐ。


 セキレイの鳴き声がする。水面が、ぴちゃんっ、と跳ねた。冬の眠りから目覚めた虫たちを食べているのかもしれない。

 牽引道は、どこまでも穏やかだ。


 少し前を進むフィルクの手を見る。あまり気にしたことがなかったが、たしかに厚い手をしていた。メリヤナの知らないところで、剣でも振るっていたのだろうか。知らないということが寂しい。


 ——そして、その手が空いているのも。


 自分の手を見つめる。以前だとすぐにつながれていた手。エストリラに来て、初日以降フィルクからつながれることはない。それはなんだかとても嫌な感じだった。そうされるのが当たり前だったからこそ、違和感として自分の手を見る。


 メリヤナは少しだけ早足になって、フィルクの隣に並んだ。隣に並んで、手がぶつかったら、つないでくれるかもしれないという期待からだった。

 だが、歩いていてもふれそうになっても、つながれない。まるで避けられているようだ、と怖い気持ちが去来して、それはない、と内心で首を振る。避けられているわけではない、というのは、このあいだ思ったばかりだった。


 ただ、何かがあるのだ、とメリヤナは暗澹(あんたん)としたものを覚えていた。



「——リヤは、ここ好き?」



 考え込んでいると、胸奥に透明な低音が入ってきた。メリヤナは見上げる。

 青紫の瞳と、視線があった。


「……うん」


 何か考えていたことを覗き込まれたような気がして、メリヤナは恥ずかしくなる。おかしく見えないよう、視線をそっと横にずらした。


「そっか、良かった」


 フィルクの声が言う。

 せせらぎが聞こえる。


「僕も……ここが好きなんだ。歩いていると、おだやかな気持ちになれる。このあいだ、一緒に行って欲しいって言ったの、ここなんだ」


 とくん、と胸を打つものがあった。

 僕も好きなんだ、と言った言葉が耳から離れない。なんだか告白されたような気分になる。そんなことはないのに。そんなこと、ありえないのに。勝手に耳が勘ちがいする。


(もう最近のわたしは変よ)


 胸のなかで、両頬を叩く。ぺちん、と音がする。


(しっかりしろ)


 何度も自分に言い聞かせる。


「……ありがとう、素敵なところね。わたしも気に入ったわ」


 平然としているように答えてみせた。


「素敵なところだからこそ、逆にもったいないって思っちゃう。ウィラとベステ、ふたつの街のあいだしか運河が通ってないなんて」


 雑談のようにそう言った。

 隣で、フィルクが足を止めた。

 不思議に思ってメリヤナが振り返ると、フィルクが遠い目をしていた。


 またあの目だ、とメリヤナは思う。そして、焦る。何か今自分はうっかり失言をしてしまったのだろうか。フィルクを傷つける発言をしてしまったであろうか、と。


「少し、座って話さない?」


 メリヤナが焦るのとは裏腹に、フィルクの目はすぐに現実に戻ってきた。

 道端に倒れていた篠懸(プラタナス)の倒木を指し示す。


 メリヤナは肯くと、すぐに腰かけようとした。腰かけようとして、フィルクに止められると、手巾をさっと置かれてそこに座るように言われる。自分は気にせず座りながら。


(別に気にしないのに)


 されど、その少しの心遣いが、メリヤナのことを考えてくれているようで、どうしようもなく、うれしかった。


 流れる河、馬や人が()く舟を目にしながら、フィルクは語る。


「この運河、実はマルムスが投資して失敗した事業の名残りなんだ」


「えっ……」


 マルムスとは、フィルクの母の生家だ。皇族ではなく、フィルクのもうひとつの血の由来。それがマルムスだと初日に聞いた。


「失敗したってどういうこと……? ここにちゃんと使われているじゃない」


「君がさっき言ったことが的を射ているよ。ほんとうは、もっと長い運河のはずだった。事業が頓挫したんだ。技術的にも、金銭的にも」


 フィルクはさらに語った。

 本来は、〈双極の塔〉エストリラから、旧都エストリラ——今は聖都と呼ばれる——までをつなげる大運河事業だったらしい。長さにして、700ダリル(キロメートル)。フリーダから皇都までの距離を少し短くしただけの距離に運河を引く、という夢のような事業だった。


「150年くらい前の話らしい。マルムス家はまだその頃裕福で、自領からとんと離れているこの地域のこの途方もない事業に投資をしたとか。多額な金額を、それこそ当時の屋敷を担保にかけてまで、金を注ぎ込んだんだって。滑稽な話だよね」


「…………」


「それで失敗。そもそも当時の技術では無理があった。遠い昔、聖神術を使える人間がまだ多くいた頃なら、足りない技術を補うことができただろうけど、大事業を支えるだけの聖神術を扱える人間は当時からもうほとんどいなかった。怒り狂ってマルムスの当主は、事業主の当主を殺害。それで徹底的に落ちぶれた。ばかの極みだよ」


 フィルクの語る内容に、メリヤナは継ぐ言葉を見つけられなかった。ただ、息を呑む。


「……ばかの結果、これだけきれいな光景は作れたけどね。多額な金を注ぎ込んだにしては、短い光景だよ」


「フィル……」


 先祖を笑っているのだろうか。それとも、フィルクは自分の存在理由や血を笑っているのだろうか。


 そんなことはない、とメリヤナは言いたかった。

 ふるふる、と首を振る。


「それでも、たしかに美しい光景だわ。きっと一生、ずっと忘れられない光景になると思う。さっき、もったいないって言ったのは、それだけ美しいってことよ。人殺しはいけないことだけれど、あなたの先祖はこれだけの景色を作ることができた。それは素晴らしいことだわ」


 メリヤナが言うと、青紫の瞳が真意を覗き込んでくる。

 今は覗き込まれて後ろめたいことは何もなかった。しっかりと見つめ、それから少し笑う。


「けど、少し足早だったのね。当時、あなたがいたら、絶対に成功させてたと思うわ。もう150年くらい待ってたら、絶対に成功させて、お金をどぶに捨てずに済んだのに、当時の当主は時期尚早だった」


「……リヤはたまに、思わぬところで僕を褒めてくるよね。別に何も出ないよ?」


 照れたようにフィルクが言った。少し顔が赤くなっている。どうやら恥ずかしいらしい。


「褒めるのって、別に何か欲しくてやってるわけじゃないわよ。そう思ったから、ただ言っただけ」


 それは少し嘘かもしれない、とメリヤナは思った。

 もう随分と前に、メリヤナはフィルクから色んなものをもらっている。支えてもらっている。心を救ってもらっている。ただいてくれるだけで、ほっとする存在。

 だから、ちょっと褒めたくらいでは足りないくらいなのだ。全然足りなかった。


「……はあ」


 フィルクの大きな溜息が聞こえる。なんだか最近、こういった溜息をよく聞く気がする。

 皇子になってから考えごとが多くなって疲れているのだろうか。そんなことを考えていると、右肩に重くよりかかるものがあった。


「ごめん、ちょっとだけ貸して」


 ミラルのあたたかな香りと共に、白金の頭が乗る。メリヤナの鼻腔をくすぐる。

 心の臓が、大きく一度鳴る。それから激しく鼓動を刻みはじめた。


「ふぃ、フィル……っ」


「……すぐ退くから、お願い。ちょっとだけ」


 そう言われると何もできずに固まる。

 最近おかしくなっている体のなかの音を聞かれているのではないかと、手の平に嫌な汗が溜まる。どうか気付かれませんように。聞こえませんように、と願う。


「……あのさ、」


 頭が載せられたまま、話が続けられるので、メリヤナは自分の音が聞こえてしまったのではないかと、ますます焦った。末端が冷えていく感覚がする。


「この運河、一度母上と来たことがあるんだ。シンシアがいたから、四歳くらいだったと思う」


 続けられた話は、また別の話題だった。

 切り替わった話題に、メリヤナの頭が冷静になる。フィルクからの母の話。それは聞き逃してはいけない、大事な話だった。


 うん、とメリヤナはひとつ相槌を打った。


「母は変わらず僕のことはどうでもいい感じだったけど、この河を見ている時の母はおだやかだった。流れる水を見ながら、この運河が成功していたら、わたしはあの方に振り向いてもらえていたのかしらって」


「…………」


 それはあまりにも仮定がすぎる話だ。

 もし成功していたとしても、150年前の話となれば、あらゆる因果が絡んでくる。それはもしかしたら、フィーユその人が生まれないという可能性もあった。フィルクが生まれないという可能性も。


 そう考えれば、メリヤナとしては運河事業が失敗して良かったと思う。

 フィルクと会えない可能性があった。それは今のメリヤナからすると、とても恐ろしい考えたくないことだった。


「当時の僕は意味がわからなかったけど、母が穏やかなところを見たのはそれが最初で最後だったな……」


 淡々としながらも、もの哀しいものが通っていた。


 そこにあるものを感じ取って、メリヤナは下唇を噛んだ。込みあげてくるものがあった。衝動的にフィルクの頭をくぐり抜けた。その胸板に耳を寄せる。鼓動が聞こえてきた。

 急に動いたメリヤナに、焦る声が降ってくる。


「……っ、リヤ、近いって……っ」


「——あなたの心を聴いているの」


 メリヤナは聴く。とくとく、と早い心の臓の音がする。血潮が流れる音とともに聞こえる音があった。

 メリヤナが目を閉じて聞いていると、上から声は続かなかった。一瞬緊張した体が弛緩し、それからあたたかい腕が回された。メリヤナの癖のある髪を撫でるようにしながら、抱き寄せられる。


「……僕の心は、なんて、言ってるの」


 観念したようにフィルクが言う。


「そうね……」


 メリヤナは瞑目しながら、聴く。音のなかのたしかな声を、聴く。


「もう一回お母さまと来たかった、って。来て、今度は……自分を見て欲しかったって……そう言ってる」


 小さな沈黙があった。

 瀬音(せおと)が、あいだを流れるように聞こえる。


「……そう……なのかな」


 ぽつりと、フィルクが言う。


「うん……きっと、そう」


 メリヤナは頬を寄せながら、胸底のいとけない子を抱きしめるようにいらえた。


 春光が、あたたかくふたりを照らしていた。


 

運河について補足です。

作中の運河はフランスの世界遺産であるミディ運河をモデルとしています。

当時は電気などの動力がないので、人力ないし馬力での曳き舟での運行が一般的でした。その馬や人が舟を曳くために引っ張る道を牽引道と言います。

現在では動力があるので牽引として使うのではなく、遊歩道となっているとかなんとか。

一度訪れてみたいなーと思っている場所のひとつです!

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