103話:皇妃の幸せ
メリヤナは、エストヴァンに滞在中、国交正常化の大使としての役目をいくつか果たさなければいけなかった。
その一。社交を行い、エストヴァンの貴族に顔を売る。
その二。皇族と今よりさらに関係性を深める。
その三。可能なところは視察に向かい、技術力や仕組みなどの知識を交換する。
基本的には、初日にフィルクが申し出てくれたことで、メリヤナの接待兼案内役はフィルクが担っていたから、顔を売る場所や視察に行く場所は、選ばれたところや、メリヤナが見に行きたい、関わりたいと思った場所に足を運んだ。
とはいえ、フィルクも第三皇子としてこなさなければいけない務めが多くある。特に午前は朝議が行われていたから、メリヤナひとりで動くことが多かった。
今日の午前は、その二——皇族と関係性を深める時間だった。
皇王や皇太子ユステル、第三皇子であるフィルクは朝議に出ていたが、皇妃と、第二皇子アステルは、西の塔にいたまま朝議には顔を出さない。第二皇子アステルが余命幾ばくもない、と宣告されているからだ。
メリヤナは、関係性を深めるというよりは、見舞うために、エスト神を司る西の塔を訪れたのであった。
「皇妃殿下にメリヤナ・グレスヴィーが午前のご挨拶を申し上げます」
第二皇子居室の応接間にて、メリヤナは裙の裾を広げて、淑女の礼を行った。
腰かける皇妃——テルーシアは、しっとりとした仕草で受け取る。彫りの美しい彫刻のような面立ちだったが、控えめで儚げな印象を受けた。
「アステルのお見舞いと聞きました。残念ながら息子は今、寝ついているけれど、ありがとう」
テルーシアの雰囲気から、皇王と同じような話し方をするのではないか、と心構えをしていたが、そんなことはないらしい。常なる人と同じ速度で話した。
「いいえ、むしろ、こうして参上が遅れたこと、お詫び申し上げます」
「良いのです。気にしていません。公女も大使としてお忙しいと思います。そのなかで、アステルのための時間を……ありがとうございます」
テルーシアはてらった様子もなく、頭を下げる。
メリヤナは内心で驚く。王族や皇族は安々と頭を下げるものではないと聞いてきたからだ。
テルーシアは、そんなメリヤナの内心に気づいたのか、あっ、と小さく声を出した。
「ごめんなさい、つい。昔のくせで、どうしても頭を下げてしまうことがあるのです」
「昔のくせ、でございますか?」
その話題に、テルーシアはなんだかふれてほしいかのように言う。
メリヤナは意図をすくったかのように尋ねた。
「ええ、わたくしは……ただの領民でしたから」
テルーシアは消えそうな笑みを浮かべた。
「聞き及んでいます。皇王陛下、当時は皇太子でいらっしゃったとか。お忍びでいらっしゃった陛下に、見初められとお聞きしております」
テルーシアから仕草で座るように促されて、メリヤナは腰かけながら応じる。
「ええ……」
テルーシアは当時を思い出すかのように窓の外を見た。歌ツグミがきれいな春の歌を奏でながら、飛んでいた。
「懐かしいです。わたくしが……ただの宿屋の娘であった頃の話です。視察に訪れた陛下がうちに泊まってくださったの」
「それは、なんだか運命的な感じがいたしますね」
「そうね……、そうだったのかもしれないわ」
テルーシアは一度目を閉じる。それから、自身で淹れた香茶を啜った。エストヴァンではやはり、茶会を開く時は主人自らが茶を淹れるのであった。
ゆったりとした仕草に、間があった。何か考えているような、思い出しているような、間だった。
茶器を小さく置く音がすると、皇妃は再度口を開いた。
「わたくしね。実は当時、お付き合いをしている方がいたの」
「えっ……」
メリヤナは、今度は驚きを口に出す。出してから、扉や脇に控えている侍女や近衛たちに、目を走らせてテルーシアを見る。
人払いをしなくても問題ないのだろうか。聞かれても大丈夫な話だろうか。
皇妃はおっとりと微笑む。
「大丈夫よ。みんな、知っていることだから」
「……はい」
初対面の相手にも話して良い内容なのだろうか。
メリヤナは幾分恐縮しながら、されどテルーシアが話を続けたそうにしている様子を見て、黙る。
テルーシアはそんなメリヤナにもう一度微笑むと、口を開いた。
「よそから来た人だったのだけど、話がしやすくて、気をつかわなくて、それでいてかっこいいところもあって、ほんとうに好きだったわ」
「…………」
「陛下と話す時は、最初はお忍びとは知らなかったけれど、なんだか気をつかってしまって、話しづらかった」
メリヤナはなんと言えばよいのかわからなかった。テルーシアに視線だけ向けながら、無言を貫く。
「その陛下に、妃に、と乞われたの。自分の〈唯一〉だからって。なんの話かしらって思ったけれど、皇族が神の血を引いていて、ひとりの人間に一途だというのは聞いていた話だったから、それが自分なのだとわかって……、驚いて、どうすればいいのかわからなくなってしまった。でも、わたしは……わたしの心はあの人にあったから、最初はお断りするつもりだったの」
「……けれど、殿下は今こうして皇妃になっていらっしゃいます」
当時の皇妃の気持ちがずきずきと伝わるようだった。なぜ、皇妃になることにしたのだろう。それはメリヤナの自然な疑問だった。
「あの人が……、妃になったほうがわたくしの幸せになると言ったから」
「え……」
「わたくしの将来的な幸せになるからって身を引かれたの。突然、いなくなってしまった。心から悲鳴が出るようだった」
「…………」
メリヤナは、話を受け止めながら、その気持ちがわかるようで、ぎゅっと胸元の首飾りの先端を握り込んだ。
心から慕っている人から、別の人間と連れ合ったほうがいい、と言われるのはあまりにも酷な話だった。加えて、いなくなってしまうというのは想像するだけで苦しかった。
「そのまま、わたくしは陛下の妃になりました。心で悲鳴をあげながら、けれど、幸せになれるとあの人が言ってくれたのを信じて。……もう20年以上前のできごとです」
「……それで、その……」
幸せになれたのですか。
メリヤナは口に出さぬまま尋ねる。首飾りをさらに握り込む。
人の機微を悟るのがうまい皇妃は、小さく笑って、また香茶を呑んだ。それから、続ける。
「どう、なのでしょう。わたくしは今、それがわからなくなっているのです」
「……今?」
「妃になり、夫となった陛下からは熱心な愛をもらい、子ふたりに恵まれました。宿娘の頃では味わえないような贅沢も得られました。心のなかの悲鳴は続いていたけれど、とても穏やかな日々でした」
皇妃テルーシアは遠くを見る。視線で飛んでいった歌ツグミを追う。
「特に我が子たちはかわいかったのです。ユステルは元気があり余るほどで、その行動はわたくしを笑わせました。ただ、ふとした瞬間に、笑いが収まった時に、心を思い出してしまう。
——けれど、アステルは……生まれた頃から病弱でしたから、看病をすることで、アステルのことを考えるだけで、それに集中すると、心を……あの人を忘れられるのです。わたくしは、そうやってこの二十年を過ごしてきました」
テルーシアがメリヤナを見る。儚げに眉を寄せ、薄く弧を描いた口元で言う。
「そのアステルが……まもなく、命の火を消そうとしているのです。わたくしにはまたきっと、考える時間ができてしまう……そうしたらきっと、また考えてしまう……」
自分は今、幸せなのだろうか、と。
皇妃はおそらくそう自分に問うのだろう。
「ですから、公女、あなたに訊きたかったのです」
テルーシアはメリヤナに問う。
「はじめてわたくしと会ったあなたに、わたくしは……どう映りますか?」
「皇妃殿下……」
「わたくしは、今……、あの人が言ったように、幸せに見えますか……?」
メリヤナは言えない。言葉を呑み込む。
そう問う、儚い様子の皇妃に、何も言えない。
間があった。今度の間は、メリヤナが作り出した間だった。
緊張感のある間だった。
その時、部屋の外が騒がしくなる。扉を叩く音、それから開ける音。
「——シア……、どうだ、アステルの具合は……?」
メリヤナが振り向くと、そこに皇王その人がいた。
皇王は真っしぐらに皇妃のもとに行くと、その消えそうな手を取る。大事そうにいたわるように。
皇妃テルーシアのほうは、さきほどまでの雰囲気とは変わらず、されど今の話題はなかったかのように、皇王に手を取られるがままになった。
「大丈夫です、ユストス。今は眠っております」
「そうか……良かった」
皇王の名をメリヤナは今知った。
エストヴァンでは、皇太子は皇王になると、名を失う。今上皇王は現人神とされ、名を持つことは許されないからだ。
ユストス、というのはおそらく皇王になるまでの頃の名であろうと思えた。
「——わたくしは、そろそろ御暇させていただきます」
皇王が現れたということは、朝議は終わったのだろう。フィルクがおそらく迎えに来る頃であることが予想された。
この部屋から逃げたかった、というのもある。
「……おお」
皇王はメリヤナに今気づいたと言った様子で、こちらを見た。
近くでその尊顔を見るのは、はじめてだった。
青紫の瞳。——フィルクと同じ双眸。けれど、その瞳は濁っているように見えた。
「公女が……来て……おったのか」
「アステルのお見舞いに来てくださったのです」
皇妃が理由を説明する。さきほどまでのしっとりとした話題は一切感じさせなかった。
「……そうか、そうか……ありがたい。公女、感謝する」
「もったいないお言葉でございます」
メリヤナは恐縮して一度しゃがむ。
それから、今度は扉のほうに向かい、淑女として一揖した。
「陛下と殿下方のお時間を取っては申しわけが立ちません。わたくしは、これにて失礼させていただきます」
皇王と皇妃が肯いて、応じた。
近衛に扉を開けてもらうと、メリヤナは緊張した場から脱出することが叶う。
ふうっと、小さく息を吐き出した。
「——お嬢さま」
控えていたカナンに声をかけられる。
「行きましょう」
メリヤナはカナンと護衛を担うエッセンを連れ立って、踵を返す。
昇降機に乗り込んだ。
何回も乗り換えるのかと考えていた昇降機は、なんと下から上までの直通で動いていた。動力は人力ではなく、別にある。聖神術だという。皇宮には優れた聖神術師がいて、昇降機の整備を行っているのだという。聞いた時はたまげたものだ。
その昇降機から外が見える。五芒の都を。ゆっくりと景色が下がっていく。
「ねえ、カナン」
メリヤナは眺めながら、カナンを呼んだ。
カナンは、メリヤナを見る。
「幸せってなんだと思う?」
「幸せ、ですか?」
「……うん」
皇妃の言葉を噛みしめていた。
幸せと感じることはある。たとえば、砂糖漬けがたっぷり載って牛酪の香ばしい麦粉焼をかじった時。幸せだな、と感じる。
(それから……)
鼻腔の奥で香る、柑橘と清涼感のあるにおいが思い出された。
メリヤナが思い起こしているうちに、真面目で実直なカナンは悩む様子を見せた。一生懸命考えてくれている。
「今ある状態に満足している、もしくは、今この瞬間、時の神ボルフェスに時間を止めて欲しいと思うほど感じ入るもの、ではないでしょうか」
ボルフェス神は、海と時を司る。海は悠久から存在し、悠久は時を孕むからだ。
「満足……時間を止めて欲しい……」
メリヤナは、カナンの言葉を繰り返す。咀嚼し嚥下する。
「少なくとも、わたしは今、こうしている時は幸せに感じておりますよ」
カナンが大人の笑みを浮かべる。
「わたしはこうしてお嬢さまに付き従えているこの状況がこの上なく幸せだと思っておりますから」
「もう、カナンったら!」
とんでもなくうれしいことを言われる。メリヤナはそうすると、薄く曇っていたものが消えるような気がした。
「わたしも幸せなんだからね。——もうほんと、大好き」
そばによって、ぎゅうっとメリヤナはカナンを抱きしめる。カナンもまたうれしそうに、友人にそうするように、あるいは妹にそうするようにメリヤナの背中に手をやった。
「……なにやってんの」
昇降機が開いた瞬間、フィルクのこの上なく怪訝な声がそう言った。メリヤナを迎えに来たのだ。
「主従愛、ううん、友情を深めてるの。悪い?」
「はあ」
フィルクは理解できんと言わんばかりの適当な返事だった。




