102話:君の〈唯一〉は、なぜ
『父上や、それまでの先代のように義務的にもできないし、父上のように無関心にもできない』
兄の言葉が、遠くに聞こえる。
兄は、昔から悪い人間ではなかった。今考えてみれば、フィルクに対価を求めずに関わってきたのは兄がはじめてだったと思う。
だが、関わってきた当初はおそらく、己が嫡子で、フィルクが庶子であるという、その優越性を満たし、陶酔に浸るためだったと幼いフィルクは思っていた。
「お前、おれの弟だと聞いた。こんなところにいて、つまらなくないのか? おれが連れ出してやろうか?」
はじめての邂逅は、東の塔にある図書の間だった。
フィルクはこの頃からもう感情や感覚が希薄だった。ぼうっとした頭で、誰だっけ、と一瞥してから読んでいた本に戻る。
「別にいい」
「あ? おれを誰だと思ってる? 次代の皇王だぞ」
後ろでわーわー言っていたが、フィルクはどうでも良かった。どうでも良かったが、聞いてはいた。そうか。このうるさい子の代用品が僕か。
——煩わしかった。
また出会ったのは、図書の間だった。
「おい、お前、フィルクスっていう名前なんだろう。兄であるこのおれが、これからお前のことを愛称で呼んでやろう。ルクスってどうだ?」
「好きにすれば」
いつだったかは、大広間につながる葡萄棚の下であった。あまり人が来ないから好きな場所だったが、この兄は生け垣から、ぬっと現れた。
「ルクス、おれのことは兄上と呼べ。ユステル兄上だと呼びづらいだろう。特別にユス兄上と呼ばせてやる。兄弟だから、敬語も使うなよ!」
「わかった、ユス兄上」
ある時は、〈玻璃の宮〉の玉座の間の通廊で遭遇した。
今考えてみれば、そんなところを歩いていたのがまちがいだった。
どこを歩いても咎められない。どこにいても咎められない。何をしていても注意されることはない。だから、油断していたのだ。
ちょうど自分の血の根源である父——皇王が、玉座の間から出てくるところに、フィルクは鉢合わせた。だが、見えない存在として扱われるのは慣れていた。父はいつもそうだったから、父とはそういうものだと思っていた。
けれど、そこに、兄が現れた。兄が無邪気に駆け寄ったのだ。
「——父上、今日もご苦労さまです!」
自分よりも年上のくせに声量を調整できない、聞き苦しい大きな声だった。子どもの声というのは、きーん、と響く。
うるさいなあ、とフィルクは思っていた。どうせ父からは反応などないというのに。
ところが、フィルクの予想と裏切って、皇王は口を開いたのである。
「……おお、ユステル。今日も、また……、テルーシアに似た顔で、元気だな。お前に、労われて……予も、うれしい」
そう言って、父が兄の頭を撫でたのである。兄が笑顔でそれを受ける。
その様子を、フィルクは、玻璃から透けるように見た。透けたものが自分の奥底に指して、できはじめた空隙に、穴を広げたようだった。
兄が、いいだろうと言わんばかりに、頑是ない嫌な顔をして自分の顔を見たのが焼き付くようだった。
フィルクは、そのあと無言で踵を返す。持っているものを無意識にぎゅっと抱え込む。
——遠く聞こえる兄の言葉に、そんな昔日の記憶が頭の後ろで呼び起こされていた。
「——ですが、ユステル殿下」
記憶のなかに、凛と声が響く。
「わたしは、そうやって生まれてきてくれたフィルにとても感謝をしています。フィルがいてくれなければ、今のわたしはいなかったから」
はっと、空漠になっていた意識が戻るようであった。
微笑むメリヤナを、横から見る。
「同じような境遇の子がこれ以上生まれることは望みません。そう言った意味で、わたしも殿下の意志を尊重いたします。そうならぬことを心から願っています」
(やっぱり、かなわない)
ずっと、彼女にはかなわない。
——そのあと、皇王と兄のあいだに交わされたことを思い出す。後背で聞こえたやり取りを。
「お前は……、アステルとちがって、元気だから、心配……ない。良きに、過ごしなさい。お前の……望みは、予がすべて叶えよう」
兄もまた、父には深くかまってもらえず、寂しい人だったのだろう。妃殿下も、体の弱いもう一人の兄アステルにかかりきりだったという。
両親にあまりかまってもらえない兄は、どこかに居場所を求めて、フィルクに辿り着いた。
そういうことに気がついたのは、メリヤナから色々な感情を教えてもらったあとだった。
それからしばらくして、図書の間にいた時に、また兄は姿を表した。
「ルクス、父上はおれの望みならなんでも叶えてくれるらしいぞ」
「…………」
読書の邪魔をされるのは不快だった。
読書は、現実を忘れられる一番快適な時間なのだ。
「だから、ルクス! お前の望みはおれがなんでも叶えてやろう」
「…………」
「お前が望んだことをおれが父上に望む。父上はおれの望みだと思って叶える。おれの望みが叶えば、お前が望んだことも叶う。名案だろ!」
「……ほんとに?」
そこではじめて、フィルクは兄をまともに見た。振り向いた。
兄が驚いて青紫の瞳を丸くする。自分と同じ瞳を。
それから、とてもうれしそうに、にかっと笑った。
「もちろんだ!」
そして、フィルクはフリーダに行きたいことを願った。
——気になって見に行きたいと言っていた場所に。
十年ぶりに帰国して再会した兄は、性格はおおよそそのまま。だが、実直さが備わっていた。
直にして温。そのあたたかい心が養われたのは、皇太子妃イーリスの存在が大きいのはわかった。
「——すまない、ルクス。配慮に欠けた」
おそらく昔のままの兄であれば、このような謝罪はするまい。
フィルクは、気にしていない、と首を振った。
昔から兄のことは悪く思っていない。うるさい兄だとは思っていたが、そこに悪意がなかったからだ。だが、今はひとつだけ、思うことがある。
兄が、羨ましい。
自分の〈唯一〉に寄り添ってもらえることが、心底羨ましかった。
ぎゅっ、と座った膝のうえ、皇子だけしか身にまとうことのない、細袴のうえで、拳を握り込む。
どんなに近くにいても、身分があったとしても、隔たりは、あまりにも遠い。
兄から先に出るように促されて、フィルクとメリヤナは皇太子妃の居室をあとにする。
扉の外でふたりになった。ふたりになると、昨夜のことが浮かんできた。
自制しなければ、諦めなければ、と思った昨夜のことを。
彼女は、自分のものではない。
王太子のものだ。それはずっと以前から変わらない。出会った時から変わらない。王太子と彼女の唇が重なった瞬間。それを思い出すと、深淵からまた炎が噴き出そうになるが、その内なる感覚は、記憶を放ることで押し込める。
思い出すな。
決意を、思い出せ。
唇を噛んで堪えていると、呑気な声が聞こえてきた。
「ねえ、皇王陛下ってどんな方?」
「……は?」
くるりとメリヤナが振り返る。金色の春光のような髪がふわりと揺れる。
「どうって、あの通りだけど……」
「あなたのお父さまなのよね?」
「血縁上はね」
父王には今更思うことはない。名前のない登場人物。その程度の存在だ。昔は何かを感じていただろうが、今は何かに浸るほどのものを持ち合わせてない。強いて言えば、第三皇子としての立場や行動を許可してもらえたこと、それには感謝をしている。
「ふーん……」
メリヤナは、何事かを考えている。また突飛なことでも言ってくるのだろうか。
きょろきょろと辺りを見渡しながら、フィルクに少し近づく。その距離にどきりとするものを覚えていると、メリヤナのほうは口元に手をやって声を抑えるように言う。
「どうして、こんなできのいい息子に無関心でいられるのかしらね。側妃さまが〈唯一〉じゃないというのは、そりゃあわかるけれど、息子は関係ないじゃない。話し方がそうなだけだと思ったけれど、頭ものんびりなのかしら」
ひどいことを言う。
だが、そんな言葉に、ふと、かつて父王から声をかけられなかった自分が、侘しく虚しく思っていた自分が、目を見開くのがわかった。
「きっと、目も曇っているのだわ」
メリヤナがそう悪戯げに笑う。あんなの気にしなくていいわよ、あいつのほうがひどいのよ、とフィルクが子ども心に感じたものを、一緒に正当化して頭を撫でてもらえるような、そんな笑みだった。
子どもの頃の自分がすり抜けて、メリヤナに抱きつくのがわかった。脇に抱えた本を落として縋り付く。
〝悲しいよ、父上〟
〝兄上だけ、ずるいよ〟
〝どうして、僕のことは見てくれないの〟
「あなたは、ちゃんとここにいるのにね」
そうして、花のようにメリヤナは笑う。大輪の花の下は、甘くて陽だまりの匂いがする。
子どもの自分が涙を流して声をあげて、メリヤナに縋った。
いやだったわよね、悲しかったわよね、つらかったわよね、と共感してくれる。
でも、お父さまだから悪くは言えないのよね。複雑なのよね。
子どもの頃の自分の気持ちを言葉にしてくれる。そんな、あたたかくて優しい笑みだった。
「……リヤ」
今のフィルクは、何を言えばいいのか、わからなかった。
その笑みに、どう応えたらいいのかわからなかった。
ただ、慕わしさだけが積もる。どうしようもない慕わしさが。何度も諦めろと思っているはずなのに。何度も自制しているはずなのに、降り積もり、溜まっていく。空隙を満たして、あまつさえ、その言葉は、広がった穴を埋めてくれているようだった。
フィルクは言葉を続けられない。いつもならするっと出てくるものたちが出てこない。
「なに?」
メリヤナはいつもと同じように、そこにいるのが当たり前のように、蒼穹の双眸でフィルクを見る。小首をかしげる。桜唇が、目に入る。
ふれたい衝動、抱き寄せたい衝動、その唇に自分のものを重ねたい衝動。
それが動きそうになるのを、フィルクは足に力を入れて、堪えた。思い出す。釘となる決意を。メリヤナの気持ちを思い出す。衝動を懸命に抑える。
だめだ、彼女はちがうのだ、と血を噴き出しながら、堪える。
だが、ぽろりとこぼれるものがあった。こぼれたものは台詞となった。
「あのさ……、」
「うん」
肯く唇や、首筋を見ないようにする。
「今度、僕と一緒に行って欲しいところが……ある」
言うと、メリヤナは一瞬きょとんとしてから、
「もちろんよ」
満面の笑みで言った。花びらが、ひらひらと煌めきながら舞うようだった。
(ああ……)
ほんとうに。なぜ。
——僕は、彼女の〈唯一〉じゃないんだろう。
侘しく、切なかった。
哀感が、フィルクの深淵に眠る闇を濃くするようだった。