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100話:身重のイーリス妃(1)

「——メリヤナーっ!」


 現状を嘆くような叫び声で、イーリスが今にも飛び上がって抱きついてきそうな勢いなものだったから、メリヤナは慌ててその肩を支えることになった。

 イーリスの第一印象からは想像もつかない姿だった。


「もう、わたしはだめだ! こんな生活、堪えられないぞ……っ!」


「お久しぶりです、イーリスさま、とりあえずお腹の子に良くないので、座りましょう」


「イーリスと呼べと言っただろうが〜」


「わかりました、イーリス。とにかく、椅子に——」


「敬語もなしだ〜っ!」


「わ、わかったから! わかったわよ、イーリス。とにかく座って。お願いだから」


 うわんうわんっ、と泣きはじめるイーリスに対して、


「すまんが面倒くさくなってる、頼んだ」


と言ってきたユステルの気持ちが大いにわかった。


 昨日、エストヴァンへと到着したメリヤナだったが、今回の訪問のきっかけである皇太子妃イーリスは体調不良で、祝宴の夜会には参加がかなわなかった。そのため、メリヤナのほうからこうして午前の時間を使って、皇太子妃の居室を訪問したわけである。


「うっ……」

「イーリス?!」


 急にわめいたり、立ち上がったりしたからだろう。イーリスは突然吐き気を催したように口を押さえた。


 メリヤナは急いで近くにいる侍女に命じて、(たらい)や清潔な布などを持ってきてもらう。

 寝椅子にその体を横たえれば、少しましになったようで、盥などは使わずに済んだ。とはいえ、また急に催すかも知れないことを考え、メリヤナの近くに置いてもらう。


「すまない、メリヤナ。せっかく来てくれたというのに……」


「随分とその……悪阻が強いのですね。もうイーリスは安定期に入っている時期と聞いていますのに」


「敬語」


 メリヤナの丁寧な言葉に、ぎろっとイーリスが睨む。


「うっ、ごめんなさい、つい癖で……」

「まあいい。ただ、わたしはメリヤナのことを、異国の地で貴重な体験を共にした仲間であり、友人であると思ってる。それに何よりメリヤナのことが好きだからな。対等な立場で話したい」


 義侠的(ぎきょうてき)な皇太子妃は、横になりながらでもその性は変わらない。

 メリヤナにとっても、イーリスのあり方は好ましく、そう言ってもらえることがありがたかった。


「ありがとう。わたしも同じよ」

「あんな体験めったに共有できるものじゃないからな!」


「そうね。そういうのをね、遠い西方にある国では『同じ釜の飯を食った仲』と言うらしいわよ」


「さすがメリヤナ、博識だな! 釜の飯か……言い得て妙だな。実際に、ソルアと一緒に食べ歩きをした記憶しか残ってないぞ、わたしは」


「あら、馬上槍試合は記憶に残ってないの?」

「ああ、あれは——」


 それから、イーリスとサルフェルロの思い出で花が咲いた。


 実はああだったのこうだったの、ソルアは異国情緒たっぷりの美人だっただの、建築がすごかったのなんだの、話す内容はきりがなかった。

 イーリスは途中から気分が良くなったようで、寝椅子から体を起こし、侍女が時折差し入れる柑橘の入った炭酸水を口にしながら、話を続けた。炭酸水のしゅわしゅわした感じと、柑橘のさっぱりとした感じが、気持ち悪さに良いらしい。


 気づけば昼時で、昼餉(ひるげ)に運ばれた軽食をふたりで食べた。そのなかに野菜と燻製肉の挟食があって、食べ終えて食器類を片付けられたあとは、ふたりして、ふうっと息を吐いて後ろに寄りかかりながら、必然とサルフェルロで食べた挟食(サンドウィッチ)の話になった。


「あれは、ほんとうにうまかったな……」


「そうね、忘れられない。味が変わるだけであんなに他の野菜とかお肉とかの印象も変わるんだって驚いたものだわ」


 はあ、また食べたい、と嘆息のようなものをふたりして吐き出す。

 そんなところに、朝議を終えたと思しきユステルとフィルクが、略礼装で顔を出したのである。


「——なんの話だ?」


 ふたりが、はあ、とうっとりとおいしかった思い出に浸かっていたので、ユステルが怪訝に眉をひそめる。ユステルはそのままイーリスの隣に当たり前のように腰かけた。


 フィルクは、メリヤナの隣が空いているにも関わらず、ひとつ残っていた一人がけの肘掛け椅子に腰を下ろした。

 その様に、メリヤナは、ずきっ、と胸が痛む。昨日のことが思い出される。


 きっと少し前のフィルクだったら遠慮なくメリヤナの隣に座ったであろうに、あえて距離を空けられている気がして、今さきほどまでの楽しい気分が一瞬で霧散したようだった。

 視線もまたメリヤナのほうに向かない。避けられているようだと思うと、胸骨が強く圧迫されたように痛かった。


(どうして)


 そんなメリヤナの様子には誰も気付かずに、話は続けられる。


「サルフェルロの市場で食べた挟食のことだ。あれは、あそこに滞在して食べたなかで一番の味だった」


「ああ、そう言えば、そんなこと言ってたな」


「味噌があればあれは再現できるのか……食べたい。すごく」


「ああいうのは、その場で買って食べるからこそうまいってもんだ。今ここで味噌をそろえて作ったところで——」


「食べたい、食べたい、食べたい」

「おい、聞いてるか」

「考えれば考えるほど、食べたくてたまらない」

「いや、だから——」

「ああーっ!」


 落ち着いていた気持ちが昂ってしまったようだった。突然イーリスは叫び出す。

 ユステルがげんなりした顔で言う。


「とにかく今は無理だろう」


「ユステルは、あれを食べていないからそういうまともなことを言えるんだ。それにな、妊娠中というのは、なぜだか無性に食べたくなるものがあるんだ。それを食べるまで落ち着かない。お腹の子が欲しているというやつだ」


「どう考えてもイーリスが欲してるな」

「わたしの頼みだ。味噌を調達してくれ、頼む」

「少なくとも今は無理だ」

「なっ——」


「味噌を調達しても、同じ味を再現するのは難しいと思いますよ、義姉上」


 夫婦が会話を繰り広げていると、ずっと耳を傾けていたフィルクが割って入った。


「味噌というのは繊細な調味料で、原料となる豆の種類や、味を決める塩の種類、発酵を促す(こうじ)の種類の組み合わせが多様で、組み合わせによって味が異なります。それに加えて、気候や風土も影響します。まずもってサルフェルロの味を再現するのは難しいと思います」


 ぺらぺらとそんなことを言う。

 義弟となったフィルクからまともな指摘を受けたイーリスは、ぐっ、と言葉を呑み込んだ。おそらく、義弟に対する遠慮というものもあったのだろう。

 イーリスは少し耐え忍んだあと、爆発するように言った。


「じゃあ、ユステル、サルフェルロまで買って来い!」


「おい、無茶言うな。ここから何日かかると思ってるんだ」


「わたしのために無茶してくれ。早馬で行けば一週間あれば行ける」


「何言ってんだ。第一、持って帰るあいだに、まちがいなく腐る」


「どうにかしろ。〈唯一〉のわたしが言ってるのだ。どうにかして見せるのが権能の力と言えるだろう」


「おい」


 そんな会話が繰り広げられているあいだも、メリヤナは膝に置いた自分の手を見つめて、思い悩んでいた。思考が、フィルクから避けられているかもしれない、という可能性でいっぱいになってしまって、他に何も考えられなかった。



「——リヤ、大丈夫? どうかした?」



 心配の声音がかかった。

 メリヤナは、どきっ、として緩慢に顔を上げる。


 フィルクが自分を気にかけてくれているのだとわかった。そうすると、つい今しがたまで考えていたことが否定されて、胸に安心とうれしさが広がる。避けられていない、とわかると、厳禁なことに体全体の神経が戻るような、そんな安心と喜び、気にかけてもらえているという得も言えぬ感情が沸き立った。

 自分の感情を客観視するのを忘れてしまうほど、メリヤナは顔が(ほころ)ぶのがわかった。


「ううん、大丈夫。ちょっと考えごとをしてただけ」

「そう? それならいいけど……」


 メリヤナの表情の変容に、フィルクは幾分戸惑った様子を見せた。

 そのふたりの様子を横で何気なく確認していたのはユステルで、イーリスをなだめながら、やたらと間延びして言いはじめた。


「いやあー、それにしても、神の権能とは厄介だなあ。こうやはり、〈唯一〉であるイーリスに言われると、ただの生身の人間であっても少しは無茶して見せよう、とでも思ってしまうなあ」


「ユス兄上」


「なんだ? わたしのためにサルフェルロまで行ってくれるのか?」


 一方は怪訝と警戒、一方は期待に満ち溢れた反応だった。

 ユステルはフィルクにねめつけられるが、知らん顔で続ける。


「ヤナも、そう思わない?」

「……わたし?」


 にやりとするユステルに、メリヤナは急に話を振られて、浸っていた感情から浮かび上がる。

 なんとなく話題はわかったが、なぜ自分にふられるのかがわからなかった。


「——兄上」


 いよいよ剣呑さを募らせるフィルクだったが、ユステルはにやにやと笑みを浮かべながら、メリヤナに的を絞る。


「そうそう。だってほら、ヤナお嬢さまにもおれたちと同じ血が流れてるでしょ」


「そうなのか?」


 疑問を呈したのはイーリスである。知らなかったという顔でユステルとメリヤナを見る。


「トリヤナ皇女……だっけ?」


「……はい。——高祖母……祖母の祖母が、エストヴァンの皇族出身なの。側妃の娘だったらしいから、ユステル殿下やフィルの高祖父である数代前の皇王陛下とは、半分しか血がつながってないけど」


 メリヤナはユステルに肯いてから、イーリスに補足説明する。


「なんだ! ということは、三人は親戚……なのか? じゃあ、わたしだけ仲間外れということだな!」


 選択した単語の割には、からっとイーリスは言う。


「親戚も何もないですよ。今メリヤナがトリヤナ皇女と当時の皇王とは半分しかつながっていないって言っていたじゃないですか。さらに互いに数代重ねてる。続柄(つづきがら)から考えても、他人ですよ」


 フィルクがやたらと早口でまくしたてる。

 それに関してはメリヤナも同意だった。同意というよりは、そうでなければならなかった。


「お、おお……まあでも、つながりがあるのはいいことだな」


 フィルクの早口に気圧されて、イーリスはなんとも言えない返答をした。

 終始にやにやとしていたのはユステルだったが、ここで話を戻した。


「そうだな。エスト神の厄介な権能を血に持つ、という意味ではつながりがある」


 なあ、とユステルの視線がメリヤナに定められる。

 何かを引き出そう、とするかのように。


 ところが、また茶々を入れるのがイーリスである。


「ああ、ほんとうに厄介だよな。はじめ知った時は、気狂いかと思ったぞ、わたしは」


「気狂い?」


 メリヤナが幾許(いくばく)か不安を込めて尋ねる。


「そうだとも。ユステルがわたしに求婚してきた時、こんなおかしな皇太子に付きまとわれて、わたしは実家に引きこもるしかなかった」


「えっ」


「何ですか、その話。気になりますね、義姉上」


 フィルクがこれ幸いとばかりに話をそらす方向に走る。

 あー、と気まずそうに視線をそらすユステルをそっちのけで、イーリスは話した。

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