99話:すれちがい
窓から先に出ると、露台があってそこから数段下に、西庭が広がっていた。中庭の周囲は生け垣になっていて、生け垣の下には、柊樫や糸杉が植えられている。当然ながら、フリーダではなかったから、檸檬や甘橙の香りや、湖の匂いはしなかったが、常緑樹の若葉の匂いが立ちこめて、清々しかった。
「こっち来て」
フィルクから誘われて、西庭を進む。王宮庭園ほどの敷地はなく、小ぢんまりとした庭だった。
「ここからだとよく見えるよ」
西庭は葡萄棚の下を通ってぐるりと廻ると、反対の東庭に出るのだという。フィルクはその途中の、月桂樹の垣根の隙間を指さした。
昼間は広大に見えた五芒の皇都が、夜は、巨大な宝石のように輝いている。石に差す陽の光を覗き込んでいるようで、メリヤナは思わず声をあげた。
「すごく、きれい……! 夜は、宝箱みたい」
「リヤの客室のほうがもっと良く見れるよ。あっちのほうが高いから」
「すごいわね。ここに滞在しているあいだ、毎日昼と夜の景色を見れるなんて、最高じゃない」
「もしかして、褒めていただけてる?」
「あら、そうですとも。さすが、わたくしの友人ですわ。好みがよくわかっていること」
「お褒めにあずかり光栄です」
景色を見ながら、そんなふざけたやり取りをする。どちらともなく、くすっと笑う。
立場が、場所が変わったとしても、フィルクはフィルクだ、とメリヤナは安心する。
誰よりも大事で大切な、友人。
(友人……)
突然、その単語が、ずりっ、と違和感となって、ずれた。
何か自分の感覚と合わないもの。フィルクに対して自分が感じているものと合わない単語。
(なんだろう……)
適切な言葉を探す。なまじ、母国語だけでなく、三ヶ国語を習得しているわけではない。もっと適切な表現があるだろうと、頭のなかの回路を動かす。
「——そういえば、言い損ねてたけど、付けて来てくれてたんだね」
忙しなく頭を動かしていると、声がかかった。
フィルクの言葉に、回路を動かしていた頭が、一瞬何を言われているのか判断できなかった。数秒して合点がいって、胸元の首飾りをさわる。
「あ、これ? だって、約束したじゃない」
「毎日ほんとに付けてた?」
「約束したもの。ちゃんと付けてました」
「ほんとに?」
「ほんとうよ。カナンに……って言っても、カナンは修行してたからわからないかな。えっと、フリーダに戻ればちゃんと証人になってくれる女中……オリガがいるわよ。毎日つけてたし、毎日拭いて手入れもしてたわ。えらいと思わない?」
「うん、ありがとう。うれしいよ」
えらいえらい、とぞんざいに返事をされると思って、メリヤナは茶目っ気をこめて聞いたが、帰ってきたのは存外に素直な言葉だった。
なんだか空振りをしたような気持ちになって、フィルクに顔を向ける。そこに、静かにうれしさを噛み締めている姿を認めた。
メリヤナは見てはいけないものを見てしまったようで、忘れていた鼓動を思い出す。早くなった鼓動。言われた言葉。思い出の数々が、一瞬で脳裏をよぎって、耳が熱くなるのがわかった。
(わたし、どうしちゃったんだろう)
さっきから、ではない。いつからか、ずっとこんな感じだ。ふたりでいると、こんなふうになる。
フィルクといつものやり取りができない。また、顔を直視できない。大広間に入ってから気持ちが変わったから大丈夫だと思ったのに、全然大丈夫になっていなかった。
むしろ、今は近くにカナンたちもいない。客も、ほとんど庭には出てきてない。
フィルクとふたりっきりだ。ふたりっきりという状況を思い出すと、どうしてもサルフェルロから帰ってきた時の宴の時を思い出す。それから、連鎖的に湖で恐慌を起こした時のことを思い出す。ふれてきた唇を思い出す。すぐそこにいる、フィルクの唇を。
両頬を押さえると、頬も熱かった。
「——これも、毎日、付けていい?」
ふと、フィルクが左耳をさわって言う。取り外すと、自分の掌に乗せてそれを見せるようにする。メリヤナが遅ればせながらあげた誕生日の耳環だった。
「もちろん、いいに決まっているじゃない」
メリヤナは顔を見ないようにしながら、なるべくいつもの調子で言う。
「……これ、リヤの色、だよね?」
フィルクが耳環を親指の腹で撫でながら聴く。
まるで、自分が撫でられているような錯覚を覚えて、さらに羞恥で顔が赤くなる。赤くなっているのがばれないように、前髪を直しながら答える。
「そ、そうよ。あなたが自分の色をくれたから、お礼に……って思って」
金色の飾りに水色の石、という少しだけ唐草が描かれた単純な意匠だった。色については、なんの変哲もないエスカテの民族あるあるの色だったから、あまり面白みはないかもしれない。
「そっか」
そうして、フィルクがゆっくりと手元の耳環に口付けた。恭しく、大事そうに、大切なものであるように、ゆっくりとした動きだった。
メリヤナは、固まる。固まりながら、心の臓が早くなりすぎて、音がうるさくなりすぎて、どうにかなってしまいそうだった。
自分に口付けられているような、そんな錯覚を覚える動きだった。
「ごめん、付け方わからなくなっちゃったから、また付けてくれる?」
上目に乞われると、メリヤナは壊れた人形のように肯くしかなかった。
フィルクの唇がふれた耳環を、フィルクの掌からとって、フィルクの耳元につける。その動きひとつひとつに手間取った。すべてを意識してしまって、頭から湯気が出るようだった。
もう一度付け終えて、背伸びをした踵を下ろそうとしたところで、両手をつかまれる。
えっ、という間もなく、引き寄せられる。その腕のなかに寄せられる。よく知ったミラルの香り、あたたかさ、それからフィルクの鼓動。とくっとくっと早く律動を刻んでいるよう、だった。
「——君は、あまりにも無防備すぎる」
ぎゅっ、と抱擁に力を入れられる。苦しくて、あたたかかった。
「こんなふうに、だからすぐ掴まる」
「……そ、それはフィル、だから」
あたたかい温度と香りが心地よい。ずっと変わらない。フィルクのにおい。
心地よさに、陶然としたものを抱いていると、力がさらに強くなった。
「——王太子にも、だろう?」
ひゅっ、と喉が凍った。顔が冷める。なぜだか、嫌な予感がした。
「どういうこと……?」
メリヤナがおそれを抱きながら、見上げる。
そこに冷たい瞳がある気がした。稀に見るぞっとした顔。それをおそれるようにして首をあげる。フィルクの海の色を覗き込む。
そこに、あったのは、もの寂しい哀感だった。
「——練習は、役立った……?」
心の臓が、どくんっ、とひとつ大きくなって、止まってしまったようだった。
意味を解して、メリヤナは唇を震わす。震えながら、確かめらずにはいられず、確かめる。サール公位家での夜会。一瞬で退場してしまったサレーネが去ったあとのできごと。
「み、見たの……?」
あの夜にルデルと自分にあったできごとを。
「……うん」
肯定される。あたたかいはずなのに、ふたりの隙間に、初春の冷たい夜風が通り抜けるようだった。
メリヤナは否定したくて、ふるふると首を振る。
そんな顔をさせたかったわけではない。むしろ、怖い顔をしてくれたほうがよっぽど良かった。そんなまるで、もう捨てられることがわかりきっているような顔をさせたいわけじゃなかった。
ただ、メリヤナは、否定したくてたまらなかった。
「ちがうの。あれは……、ちがうの。あれは、あれは——」
「大丈夫。わかっているから」
諦念を孕んでいるようだった。腕から力が抜ける。抱擁が解放される。その感情を表すように。
メリヤナは今一度、ちがうの、と繰り返した。だが離れたフィルクは振り向かない。肘だけを差し出してくる。
「戻ろうか」
声音は、いつものように透き通って反響するようで、それでいてやわらかかった。なのに、その声に寂寥が滲んでいるようだった。
「フィル……」
いやだ。ちがうの。聞いて。
わたしは、あなたを絶対に捨てたりしないから。
——お願いだから、こっちを見て。
隣にいるはずなのに、遠い。諦めている背中がどんどん遠くなってしまう。言葉が届かない。
だが、それ以上届くための言葉を持っていなかった。
ちがうと否定をするための言葉。何がちがうのか説明するための言葉を、まだこの時点で、メリヤナは持ち合わせていなかった。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
15章終わりとなります。




