第9章「大切な人」⑤
「わたしはここにいるわよ。ミリア」
「お久しぶりです、ナナミちゃん」
ミリアの顔が、元の黄色がかった肌、茶色い髪に戻っていく。
無理矢理に微笑むミリアの右手が、強く握られているのを見た。
ミリアの中では、わたしがランスに戦争を無理強いしていた張本人だ。
そう思わせるよう芝居をすると決めたときから、こうなることは覚悟していたはずだった。
それでも、ミリアが笑みを向けてくれないことが、ここまで寂しいことだとは思わなかった。
息を吸う。弱気になりそうな自分を押し込める。
精一杯の虚勢を張って、わたしもミリアを睨み返した。
「今さら何の用なの、ミリア?」
挑発的に言う。
もうわたしはミリアの敵だ。
わたしはポケットの手鏡を握りながら、ミリアの動きを観察する。
いつ仕掛けてきてもいいように心構えをし、
「ナナミちゃん、帰ってきてはくれませんか?」
しかし、ミリアの口から出たのは全く逆の言葉だった。
「わたしはナナミちゃんを許せません。けれどそれでも、ランス様にとってナナミちゃんは特別な存在だったんです。ランス様にはナナミちゃんが必要なんです」
「ミリア、わたしが何をしてきたか、本当に分かって言っているの?」
「ええ、わかっています」
「で、今も怒りを抑えられないでいるあなたが、わたしにどこに戻れって言うのよ?」
「『月の国』です。何度でも言いますよ。ランス様にはナナミちゃんが必要なんです。ランス様のためなら、この身から生まれる感情ぐらい抑え込んでみせます」
そう言い切ったミリアは勇ましく、けれどそれ故に腹立たしかった。
怒った振りでもなく、強がっているわけでもなく、腹の底からどす黒いものが込みあがってくる。
こんなことを言えた義理ではなく、立場ではなく、身の程でもないと頭では理解しながら、それでもわたしは口にせずにはいられなかった。
「ランスなんて、どこにいるのよ?」
思っていたよりも低く暗い、威圧的な声が出た。
ミリアの頬から作り笑いが消える。
「ランス様がいないって、どういうこと?」
「ランスという人間はもういない。ミリア、あなたたちが『ランス様』と呼んでいるのは、人を殺しても誰かが悲しんでも何も感じない――」
ミリアの眉が釣り上がる。怒りの形相で自分を必死に抑えている。
けれどそんなのは無駄だ。だってランスのことについては、わたしたちは今はまだ分かりあえるはずが無いのだから。
だからミリアが一歩を踏み出しやすいように、あえてわたしは言葉を選ばずに言う。
「――心を失くした、ただのバケモノよ」
「許さないっ!」
一瞬。ミリアの姿を見失う。
次の瞬間には目前に、右腕を振りかぶったミリアの姿があった。
異常に強化された足の筋肉が瞬時にミリアの体を運んだのだろう。振り上げられた拳には歪なほどの筋肉が纏われていて、それがわたしの顔へと振り下ろされる。
足で地面を蹴っていては間に合わない。わたしは能力で自分の体を後ろに飛ばして回避、同時にミリアの右手と左手を能力で捕まえる。
両腕をそのまま半回転――ミリアの体が反動で宙に浮き、そのままミリアの体を背中から地面に叩きつけた。
回避の反動で倒れたわたしが起き上がるのと、ミリアが立ち上がるのがほぼ同時。
わたしはミリアの周囲の空気を操り、ミリアの体が動かないよう力を込める。
完全に捕捉したという手応えと、逃がさない自信があった。
たとえミリアがどれだけ筋力を強化させたとしてもだ。
「ミリア、無駄よ。わたしの『空間掌握能力』は最強クラスの能力らしいの。本当はこんな能力に頼りたくなんてないんだけど……とにかく、もう逃げられないわ」
「いいえ。わたしの能力だって、ナナミちゃんのと同列に並べられるほどのそれですから」
直後、砕ける音。
ミリアの右腕を包んでいる空気が押される。ミリアの腕が膨らもうとしては押さえつけられてを繰り返してりうようだった。
数度、それぞれは瞬間、ミリアの腕が曲がってはいけない箇所で曲がっては、膨らんだ肉が窪みを埋めなおしているようにみえた。
ミリアの腕の中で骨が作られては砕かれてを繰り返している。
それは想像を絶する激痛のはずだ。
「ミリア、あんた何考えているのよ! そんなの……」
「人の心配なんてしている余裕、ありませんよ?」
次の瞬間、視界にどす黒いものが飛び込んでくる。ミリアの腕の血管が裂け、鉄砲水のように血液が飛んできたのだ。
回避した次には爪のような質感の棘が何本も飛んでくる。狙いはすべてわたしの顔。
回避に一瞬、意識が持っていかれる。わたしの集中が途切れさせられたのがわかった。
それでも右腕を押さえ込むことにだけは何とか意識を繋ぎとめ続けたが、
ふと、腕を皮膚の内側から押し上げていた力が消えたのが分かった。
攻撃をようやく回避し終えて見た視界には、滅茶苦茶に捩れて鬱血した右腕だけが残っていて、わたしは急いで周囲を探す。
「いない……」
見回し、能力でも探したが、どこにも見当たらない。
集中して四方に意識を向けてみたが、それでも見つからなかった。
それでも気づくことができたのは、静まり返った夜のこの場所で、ひとつ羽音が聞こえてきたからだ。
空を見上げる。
影しか見えないそれは、両手に骨のような質感の剣を構えた少女。
背中には一対の翼があり、まさに今、こちらに急降下しているところだった。
そのスピードを咄嗟に能力で捕らえるのは難しく、だからわたしはポケットから手鏡を取り出す。
魔法式が発動し、延びるのはそこにあるはずのない刃。
ミリアの右手の剣をかわすと、左手の剣を手鏡の刃で受け流す。
ミリアが着地。
わたしが能力で捕まえる暇もなく、ミリアはすぐに切りかかってくる。
軌道を読みながら右手と左手の剣を何とか受け流し、ときには受け止める。
「ナナミちゃん、剣なんて使えたんですね?」
「わたしなんてまだまだ。ミリアの攻撃が読みやすいだけよ!」
強がってそんなことを言ったものの、わたしにはミリアの剣を受け流すのがやっとだった。
ミリアはおそらく剣の練習をしたことはないのだろう。二本ある剣の動きは、それでも読みやすかった。
けれども、その細い手足からは考えられないほどの移動や跳躍、剣の速さや重さ、常識との齟齬のせいで反応が鈍る。
お父さんに教わっていた分、剣の腕はわたしの方が上だ。
それでも、ほんの僅かでも気を抜く余裕は無かった。
動き続けるミリアは能力で捕まえることは難しく、能力に集中するために動きが鈍れば、危ないのはわたしの方だった。
剣撃が続く。
相手は双剣――片方を受け止めるのは死路だ。
剣を弾き、受け流し、かわし、牽制し続け、
しかしミリアの動きに慣れてきたところで、ふと気づく。
ミリアの額には尋常ではないほどの汗と、一挙手一動作にあわせて苦しそうに歪む表情。
ミリアが右手を突き出し、剣先がわたしこめかみを掠った。
そのときに耳元で聞こえたのは、ブチブチと、筋肉が千切れるような音だった。
ミリアが振りかぶっていた左手を振り下ろす。
握られているその剣を、あえてわたしは受け止めた。
重い。
その一撃は確かに重く、しかし骨が折れる音とともにそれも消えた。
それでもミリアは止まらない。
きっと今折れた左腕も、右手の剣がわたしに斬りかかっている間に治ってしまうのだろう。
怪我は残らない。痛みも一瞬だけだ。
けれどもその痛みはかなりの激痛のはずだ。
わたしは次の剣を何とかかわすと、またミリアの剣を受け流し続ける。
余裕は無い、手元が一瞬でも狂えば命を落とすのはこっちだ。
それでもひとつだけ、ミリアにどうしても問わなくては気がすまなくなった。
「ミリア。どうして、そうまでして戦うの?」
「ランス様のためです。何で今さら、そんなことを訊くんです?」
「だって、ミリアが分からないはずがない!」
ミリアの剣を受け流しながら、それでもわたしはミリアを睨み続けた。
「あの『ランス様』は、もうランスじゃない。人の死にも苦しみにも悲しむことが無い。喜びも楽しさも全部忘れてしまった、心の無いバケモノよ。
もう人間じゃないの。心があったときの自分を思い出して、上辺だけ取り繕っているだけ。空っぽの笑顔と、殺意の無い殺戮と、悲しみを理解できずに手を汚している自覚すらない……そんなバケモノのためにどうして……」
「知ったような口を利かないで下さいっ!」
ミリアが叫ぶ。
直後、手元が狂い、わたしの左肩を剣が抉った。
息が苦しくなるような、意識が遠くなりそうな激痛。
続いて振り下ろされる左手の剣を辛うじて受け止める。
いや、受け止めてしまった。
動きが止まったわたしに、ミリアのもう一本の剣が突き出される。
咄嗟に横に跳び、それでも脇腹を剣が掠る。
ふらつく足を踏ん張って、手鏡を構えなおし、霞む視界の中でまたミリアの剣を受け流す。
「わたしがランス様に拾われて『月の国』に来て二年目……わたしとランス様が十二歳のときです」
黙っていたミリアが、痛みを堪えるために噛み締めていたその口を小さく開く。
「忘れもしない、わたしの十二歳の誕生日。ランス様はわたしより七日だけ誕生日が早くて、わたしがランス様の誕生日に青いペンを贈ったその一週間後の朝。ランス様はわたしの誕生日に初めて魔法を見せてくれました。
そしてそのとき言ったんです。『もしかしたら来年は、ミリアが喜ぶものを贈ってあげられないかもしれない』って。
きっとランス様には、自分がこうなることが分かってたんです。まだ十二になったばかりの男の子が、そう言ったんですよ」
ミリアの頬に涙が流れる。
ミリアが語りだしたのは、わたしの知らないランスとの記憶だった。
「ランス様が人を初めて殺めたのが、その一ヵ月後でした。その日の夜から、ランス様は自分の部屋から出てこなくなりました。
放って置いたら餓死しそうなランス様に無理矢理食べ物を食べさせて、水を飲ませました。
三週間ぐらい経ったある日突然、ランス様が部屋から出てきました。わたしたちは浅はかにも喜びました。
けれど二日後の朝にランス様が姿を消し、その日の夜に国がひとつ滅びました。
わたしとエミリア姉さんで問い詰めました。一番苦しんでいるはずのランス様を問い詰めて、ようやく聞き出せた答えは、『こうでもしないと「月の国」は守れない』というものでした」
苦しい。
聞くだけで胸が苦しくなる。
それでも同情の余地は無かった。
「ランス様は苦しんでいました。それでもランス様の意思は変わらず、だからせめて全力で支え続けようと決めました。
ランス様は次第に笑わなくなり、そして笑うことしかしなくなりました。誰を殺めても、何人殺しても、国を滅ぼしても、悲しみも嘆きもしなくなりました。
けれどそれでも、これはランス様が選んだ道なんです」
「馬鹿げてる……」
苛立ちに任せてわたしはは叫んだ。
「もうそこに、ランスの意思なんてないじゃない!」
「いいえ、願いです。願いがあります! ランス様が願ったんです、『月の国』が平和でありつづけてほしいと。だから守り続けるんです、ランス様が守りたいと願ったものを!
今のランス様に、確かに心と呼べるものはありません。けれどそれでも、ランス様は『月の国』を守り続けています。心を失って、悲しむことも、本当の意味で笑うこともできなった彼に、それでも貫く願いがまだ生きています。
だからランス様をバケモノなんて呼ばせない! それだけは絶対に許せないんです!」
ランスとの思い出のはずだった。
ミリアは苦しそうに、ランスの話を嘆いた。
ミリアはそれでよかったの?
そんな言葉が浮かんで、けれどそれを言葉にするのを躊躇った。
だってわたしは、ランスの本当の願いを知ってるから。
きっとわたしと初めて会ったときから、『月の国』の第二王子はバケモノだった。
たぶん、きっと、わたしに向けられたあの言葉はおそらく、本当はかつて、ランスが別の誰かに向けて言ったのと同じ言葉だったんだと思う。
今が夜でよかった。
目の端にふとこぼれた水滴を振り払って、唇を噛みながら刃を振った。
そしてもう何度目の攻撃か。
ミリアの右手の剣が振り下ろされると同時、左の剣が構えるのを目の端で捕らえる。
一本目の剣を刃で受け止めると、そのまま手鏡の剣を回して二本目の剣も受け止め、二本同時に受け流す。
次の瞬間、ミリアの顔が苦しげに歪むと同時、ミリアの肩から三本目の腕が生えた。
その手にはすでに骨で出来た剣を構えていて、けれど体勢を崩した状態でのその攻撃はとても軽かった。
攻撃を受け止めると、剣ごとミリアの体を押し退ける。
ミリアはすでに限界だ。
体力的にじゃない。戦うたび、能力を使うたびに全身を襲う激痛が、精神的にミリアの動きを鈍らせているんだろう。
着地の瞬間にミリアの体が一瞬止まる。
わたしはミリアの左手首を能力で捕まえた。
すぐさま、ミリアが自分の左腕を切り落とす。
痛々しくて見ていられなかった。
ミリアは今にも倒れそうなほどに苦しげな顔を無理矢理に持ち上げ、わたしの能力に捕まらないようにとまた駆ける。
しかし走り出してすぐ、体力的にまだ余裕のあるはずのミリアは、足を縺れさせてそのまま地面に倒れた。
わたしだって限界だ。左肩の血が止まらない。
全身を寒気が襲って、視界も霞んできている。
それでも、意地でも倒れるわけにはいかなかった。
ミリアに近づく。
ミリアが顔を上げ、しかし立ち上がるのに数秒。
必死に睨むミリアの正面に立ち、わたしは自分の方から刃を下げた。
「ミリア……聞いてもいい?」
もう随分昔のような気がする。
『ナナミちゃん、ランス様をお願いしますね』
『どうせわたしには……っていうのもありますけど、でも、ナナミちゃんなら良いって、ナナミちゃんでよかったっていうのも本心です』
「ミリアがランスから身を引いたとき、わたしならいいって言ってくれたよね? どうしてミリアはそう思ったの?」
「傍から見ていれば誰でもわかりますよ。ナナミちゃんが、ランス様にとって特別だったからです……」
ミリアが気を失う。
ここに放っておくわけにもいかないので、わたしがミリアを背負おうとしたときに、「わたしが運ぶわ」と声をかけてくれたのはイリスだった。
「全部見てたの?」という問いに、イリスは頷く。
「姉妹じゃなかったんだ」
「姉妹だったらいいなって、そう思う人」
「いままで戦ってたのに、大切な人なのね」
イリスの言葉にわたしは頷いた。
「ねぇ、答えたくなかったら別にいいんだけど。最後のミリアさんの言葉のあとに、ナナミが腑に落ちそうな顔をしているように見えたのよ。なんで?」
わたしはイリスの肩の上にある、ミリアの顔を振り返る。
ミリアが目を覚ましていないことを確認して、わたしは最後に言いそびれたことを、何もかも融けて消えそうな黒い空に呟く。
「わたしが特別なんじゃない。ランスにとってわたしだけが普通だった……それだけよ」




