第6章「今わたしにできること」②
『月の国』に戻った後も、四日ほど、眠れない夜が続いた。
五日目の夕方、いつ寝たかも分からないうちに、魘されて目を覚ました。たぶん体力のほうが限界だったんだろう。
わたしが人を殺めてしまってから五日。
わたしはあれから誰とも話ができていなかった。
リアちゃんとミリア、エミリアさんとも。ランスとも。みんな心配して話しかけてくれる。
心配をかけてしまっているから、なんとか元気そうに振舞わないとと思うのだが、どうしてもそれが出来なかった。
触れることが出来ず、目を合わせるのも怖くて、近づいてきたら思わず逃げてしまう。
出掛かった声が喉から上に出てきてくれなくて、首を振っての返事だけが精一杯だった。
そんな状態のわたしを見離さないで声をかけてくれる。
それでも、他人を怖がってしまうわたしに気を遣ってか、話しかけてくれる回数も、顔を見せてくれる回数も、日に日に少なくなっているように感じた。
一週間が経った。
ベッドの位置をずらして、壁とベッドの間の隙間で隠れるようにして眠るようになっていた。
日中もそこで、何をするでなく隠れていたりする。
手の震えが止まらないまま、奥歯がかみ合わず息の調子も始終乱れたまま、けれどそこが一番、恐怖が紛れた。
食事は殆ど食べれていない。
毎日リアちゃんが届けてくれるのだが、ほんの少しの野菜を喉の奥に押し込むのが精一杯だった。
肉は食べれなかった。
見ただけで嫌悪感がして、それでも食べなくてはとフォークで触れた瞬間、肉の感触が手に伝わり、嘔吐した。
僅かな吐瀉物を吐き出し、それでも気分が悪いのが収まらなくて、随分と長い間、胃液を吐き出し続けた。
そんなことがあってから、リアちゃんの持ってくる皿の上にのものは野菜だけになった。
本当に、申し訳ないぐらい気を遣わせてしまっていると思う。
二週間が経った。
僅か二時間程度で目を覚ましてしまうが、ようやく毎晩眠れるようになってきた。
マドカさんが「少しでも体を動かしたほうがいい」と、仕事をひとつ提案してくれた。
朝四時から使用人が起き出す五時半頃まで、誰もいない時間帯に薔薇園の手入れをするのが日課になった。
それでも一度、顔見知りの使用人と出くわしたときがあった。
そのときは目が合った瞬間に悪寒と恐怖が背筋を駆け上がり、動けなくなった。
少しは良くなっているのではと思っていた頃だったが、ちっとも進歩していなかった。
挨拶してくれたのに返事が出来ず、歩み寄ってきたので思わず逃げ出そうとして足を躓かせ、ただ地面に転がって怯えていることしかできなかった。
それから一度も、朝の時間に誰とも会っていないので、もしかしたらわたしのことが使用人の間で伝わっているのかもしれない。
二ヶ月が過ぎた。
もうすぐ九月も終わりだ。ときおり冷たい風が吹き、日が徐々に短くなっていた。
依然として週に二回ほど眠れない日はあるが、睡眠時間が少しだけ長くなってきている気がする。
それでも今日は寝付けない日だった。
わたしはいつもどおりベッドと壁の隙間に体を落とし、毛布を肩と膝にかける。
じき眠れるだろうかと目を瞑るが、自分の弱さとみっともなさと、謝ることの出来なかったいろいろなことを思い出すばかりだった。
ふと、扉の開く音。
聞こえてくる足音は、リアちゃんのそれでも、ミリアでもエミリアさんのものでもなかった。
絹擦れの音。
わたしのベッドのすぐ横に、その人影は腰を下ろす。
こっそり毛布の隙間から覗くと、そこにいたのはランスだった。
ランスは何をするでなく、ただそこにいた。
わたしは息を潜めた。
きっとランスはわたしが眠っていると思っているはずだから。
ランスと目が合わないように、毛布の隙間を閉じる。
今この時間だけは、嫌なことを思い出さなかった。
どれぐらい経ったかはわからない。
再び絹すれの音がして、足音が部屋の外へと出て行く。
たぶんわたしが普段、目を覚ます頃合なのだろう。
もしかしてランスは今までもずっと、わたしが眠っている間、隣に居てくれたのかもしれない。
その翌日から、誰もいない朝の薔薇園で声を出す練習を始めた。
声を出すのは久しぶりだ。大きな声を出したわけでもないのに酷く疲れた。
始めてから三日目でそれはリアちゃんに見つかり、エミリアさんやミリアの耳にも入ることとなる。
まだ誰かと話そうとすると声が出てこなくなってしまうが、それでも本当に僅かなわたしの回復を、三人とも喜んでくれた。
リアちゃんたちだけではない。苦労と心配ばかりかけているだけの弱いわたしに、いろいろな人が親切にしてくれる。大切にしてくれる。
けれどそれでも、時折思う。
わたしに優しくしてもらう資格なんて無いのだと。
本当にわたしはここにいていいのかと。
そして、受けた優しさに対してそう思ってしまう自分が醜くて、たまらなく嫌だった。
それから更に二日後。
九月の最後の日。
日の出前の早朝、誰もいないはずの薔薇園に一人の人影があった。
薔薇園の中央に設置されたテーブルに椅子が備え付けられていて、人影に足を組んで座っていた。
反射的に逃げようとするが、「待て」と声をかけられて、わたしの足は止まる。
夜明け前で顔は見えなかったが、その声はグレン様のものだった。
「話があってきた。俺に背を向けたままで構わん、聞いてくれ。ランスについてだ」
震えていた足が止まった。あがっていた息を落ち着かせ、グレン様の言葉に耳を傾ける。
「このままだとランスが死刑になる。十一月一日、今日から三十二日後だ」
わたしは思わず振り向く。
グレン様が「大丈夫なのか?」と問うが、それどころではなかった。
再び震えだした足で踏ん張り、噛み合わない奥歯を噛み締め、手のひらが抉れるほどに拳を握った。
グレン様は未来予知の能力者だ。
断片的にではあるが、このまま進んだら辿りつくはずの未来を予見する。
ましてやあのグレン様だ、伊達や酔狂でこんなことは言わない。本来ならば信じたくないはずのそれを、わたしは信じるしかなかった。
「十一月一日からの三日間、近隣諸国の代表が集まっての合同会議がある。場所は『月の国』の王宮。その初日の会議に飛び入りで入ってくる者達があり、ランスを糾弾する。
顔も背格好も良く視えなかったが人数は二人だ。ランスがいままでしてきたことが告発されて翌日の議題に上がり、そこでランスの死罪が確定する。まぁ義弟はそれだけのことをしてきたからな」
糾弾――それも合同会議で。
ランスが犯した罪なんて、ひとつしか思い当たらなかった。
『剣の国』を含む、七国の壊滅およびその国の人々の虐殺。
『月の国』を守ろうと、ランスが重ねた罪の数々。
それでも、わたしのところにその話を持っていたということは、ランスを救いたいということなのだろう。
グレン様の表情は真剣だった。
本気でランスのためを思って、グレン様はわたしのところに来たのだ。
そしてその気持ちは、わたしも一緒だ。
ランスがいなければこの国は滅んでいた。
ランスは偶然魔法の知識を持っていて、それを使わざるを得ない状況に追い込まれた。
ランスのしたことは許されないことかもしれないけれど、『月の国』を守りたいと願うランスには、他に選択肢が無かったんだ。
「可能性のありそうな人間には片っ端からこの話をしていくつもりだ。とにかく時間に余裕は無いからな」
「――――――っ、」
また、誰かを巻き込むつもりなの?
グレン様の言葉に、わたしは憤りを感じた。
話は終わりだとばかりに、グレン様が立ち上がる。
「待って……ください!」
喉が痛む。
無理矢理に肺を搾って押し出した声が、首の奥底を掻き毟った。
それでもグレン様のところまで声は届かない。
人と触れるのが怖い。誰かと話すのが怖い。人と目を合わせるのが怖い。自分がここにいていいのか不安で、自分がここにいると感じるのがたまらなく怖い。
けれど、大切な人を失うのはもっと怖かった。
ここでグレン様を行かせてはいけないと思った。
きっとわたしは、グレン様の思惑通り、全力でランスを助けようとするだろう。
それはいい。
利用されても、痛くても苦しくても、ランスのためならばわたしは別に構わない。
けれどそれがわたしの周りの人間も巻き込む可能性があるとしたら、それをわたしは許すつもりはなかった。
「――ふざけないでっ!」
気がつけば、わたしはあらん限りの声で叫んでいた。
「何のことだ?」
「とぼけないでください。今度もまた誰かを犠牲にして、誰かを身代わりにするのかって言うことです!」
思い出すのは、二ヶ月前の『焔の国』との戦争だった。
あのときわたしたちは、到底考えられないほどの偶然に助けられて、停戦にこぎつけた。
けれど本来、そんな偶然は起こりえるはずがないのだ。
「あのとき先陣を切って、敵右翼にマドカさんと共に切り込んだのはなぜですか? そもそもどうしてマドカさんを戦場に連れてきたのですか?
マドカさんが死なないことも、二ヶ月前の戦争に負けないことも、グレン様は最初から分かっていたんじゃないですか?」
「そうだ。最善の選択肢を取らせてもらった」
「ですよね、あのときグレン様はかなり細かいところまで、未来が視えていたみたいですから。
でもグレン様、実はランスたちが『月の国』を出るもっと前から、『焔の国』が待ち伏せをしていることを知っていましたよね。
弓の斉射でランスたちが偶然誰も死なないことも、リアちゃんの能力が偶然あのタイミングで覚醒することも、ノレイン王子との一騎打ちのときに、ランスが殺されないことも。
アナさんの露店の位置を変えたら、わたしがあのタイミングで戦場に到着することも!
わたしが人を殺めてしまうことになると知りながら、わたしに剣を『まだ構えていろ』と言った。そうですよね?」
「おおむね正解だ。君に説得されてマドカを助けた直後から未来が変わった。それから三日も時間があったからな、色々と調整させてもらった。
けれど俺が作った状況だとしてもなお、人を殺めてしまったことも、周囲に心配をかけてしまっていることも、ナナミ、それは君の弱さだ」
「ええ、わかっています」
「では何が不満だ?」
「納得はいかなくても、不満はありません。ただ、お願いがあるだけです」
冷たい風がながれる。
薔薇の香りが頬を撫で、葉の表面についた水滴が光る。
東の空が白みかけていた。もうすぐ夜明けだ。
わたしは息を深く深く吸うと、言う。
「もしわたしの大切な誰かが苦しんだり、悲しんだりせざるを得ないようなことになるぐらいなら、わたしを選んでください。もし命を失うことになっても、わたしは構いません」
変な話だ。
ほんの数分前まで人と目を合わせるのも怖くてたまらなかったのに、今は命を落とすことさえ怖くないように思える。
宵闇の中で僅かに見えたグレン様の表情は、笑っているように見えた。しかし、
「それは約束できない」
それがグレン様の答えだった。
「すまないが、俺の最優先はマドカで、次が身内のランスや義父、義母、そしてこの国だ。君にまで気を回している余裕は無い。
それにまだ、君に話したことで未来が変わるのかは視えない。君のほかにも可能性のありそうな人間には、片っ端からこの話をしていくつもりだ。
もう能力も自在に使えるのだろう? 国でも何でも滅ぼせるほどの力があるのだから、大切なものは自分で守ることだ」
「そうですね……」
夜が明ける。
朝日が差し、世界が次第に色を取り戻していく。
グレン様の言うとおりだ。
能力が暴走したあのときから、わたしは能力をいつでも自在につかえるようになった。
そして同時に、残っていたもうひとつの瞳も『出軌の瞳』に変わっていた。
わたしはグレン様が夢に見た、『国を滅ぼす黒い髪に赤い瞳の女』の外見の条件を満たしてしまったのだ。
「国でも何でも滅ぼせるほどの力があるんですから、どんな手を使っても守らないといけませんね」
グレン様がわたしの赤い両目に気付いて、息を呑むのが分かった。
沈黙が流れる。
もしかしたら殺されるかもしれない。
震える指でわたしは、ポケットの手鏡を握り締めた。
少なくとも、生きる理由はできた。
わたしはランスを助けるまで、死ぬわけにはいかないんだ。
しかしその直後、グレン様の口から思いがけない言葉が出る。
「傾国の芋女……」
「うにゃぁ!」
これはグレン様なりの冗談だったのだろうと、そう思うことにする。
とりあえず、わたしが『月の国』を滅ぼすことは無いと判断されたのだろうか。
それなりには信頼されているのかなーと、そう思うとちょっとだけ嬉しくなった。
部屋に戻る。
扉を開けたときに「ただいま」と言うと、みんなは目を丸くしたあと、とても喜んでくれた。
まだ人と話すのは怖い。
手が触れそうになったら反射的に飛び退いてしまう。
人混みなんかに行ったら倒れてしまうかもしれない。
それでも、自分なんかよりももっと大切な人たちがいる。
たったそれだけのことを思い出すのに二ヶ月もかかるなんて、わたしは大馬鹿者だ。
だけどそれを思い出したから、わたしは今こうして痩せ我慢をして笑うことができているんだ。




