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第5章「届かぬ声」⑧

「それで、私に話というのは何なんだ。大切な内容なのだろう?」

「戦争を、終わらせに来ました」


 ノレイン王子の言葉に、わたしはそう答える。

「そんな馬鹿な……いや、君の場合は本気なのだろう。どういうことだ?」

「その前に一人、紹介したい人がいるんです」

 わたしはアナさんを呼ぶ。

 アナさんはノレイン王子の前に立つと、まず深々と頭を下げて謝った。

「ノレイン王子。ノレイン・ウー・ヒースクリフ殿。まず謝辞を。わたくしはアナスタシア、出身は『穂の国』です。千二百の命を奪ってしまったのは、わたくしが原因でもあります。謝って許されることとは思いませんが、申し訳ありませんでした」

「お顔を上げてください。私にはあなたを責める理由はありませんので」

 どういうことなのかとわたしが悩んでいると、「もし放った矢が『穂の国』の人間を殺めてしまっていたら、『焔の国』は三大強国を敵に回して滅んでいたことだろう」と、ノレイン王子が教えてくれた。

 つまり結果として、ランスは千二百人の兵士を殺めはしたが、『焔の国』を守ったともとることが出来るわけだ。ランスの本意はわからないけれども。

 アナさんに促されて、わたしは話を続ける。


「結論から言うと、『焔の国』の水不足を解消する方法を提案しに来ました。アナさんと『穂の国』に協力をお願いして……」


 しかし、わたしの言葉はここで止まる。

 感じたのは違和感。

 わたしの死角となる真後ろ、百メートルといったところだろうか。


 咄嗟に振り向くと、頬に二本傷の兵士が剣を構えて駆けてくる姿が見えた。


 形相は怒り。

 狙いはランスだと気付く。

 わたしが重い足を持ち上げて僅かな数歩を駆けるのと、二本傷の兵士がランスまでの距離をあと数メートルまで詰めるのが同時。

 二本傷の兵士とランスの間に割り込むことに、何とか間に合う。

 振り下ろされる剣を、わたしは受け止めようと手鏡を持った手を伸ばす。


「――――――っ、」


 しかし直後、わたしは言葉を失った。


 二本傷の兵士の持つ剣が、わたしの剣に当たる前に、中空で動きを止めていた。


 わたしの伸ばした手は、手鏡の先に伸びる刃は止まらない。

 咄嗟に引き戻そうとするが間に合わない。


 わたしの目の前で、刃は兵士の左胸へと吸い込まれていった。


 ずっしりと感じる、人間一人分の重み。

 右腕にかかる重さが次第に増していき、指先にまるで触っているかのように伝わってくるのは、柔らかいものを掻き分けている感触。

 寒気がした。

 一瞬だけ軽くなり、それからわたしの肩口に兵士が倒れ掛かってくる。

 咄嗟にわたしはその体を両手で支え、力が入らずに膝を着く。

 温かい、水よりも重くて濃くて黒いそれが、わたしの手を濡らした。

 あふれ出てくるそれは、わたしの体を、頬を、胸を、腹を、足を染めていく。

 言葉はなかった。

 指を染めるそれも、あふれ出てくれるそれも、ときどき僅かに脈打ちながら、重くのしかかるその体も、次第にゆっくりと冷たくなっていく。


 命というものを、はじめて身近に感じた。


 かつては温かかったであろう頬が、ひんやりとわたしの首筋に当たる。

 声はない。

 表情は見えなかったが、動いている様子はなかった。

 ほんの少し前までは、生きていたはずのそれ。

 交わした言葉も、声の調子も、感じ取った優しく誠実な人柄も覚えている。

 ほんの数秒前まであたりまえにそこにあったものが、いまはごっそりと欠落していた。

 危険から遠ざけるためにわたしを抱えた両の腕も、砂の上を駆けた足も、今は力無く垂れ下がっている。


「なんで……」


 わたしの喉の奥からやっと出た声はそれだった。

 指先が震えた。

 それでも手の中のもう動かないそれを放すことはできなかった。

 血の気が引いて、嫌な汗が首筋を伝うのが分かった。

 肺が握りつぶされるように軋んで、ようやく自分が息をしていなかったことに気付く。

 息を吐く。

 ただ何も無い虚空を焦点の合わない目で眺め、静まり返った砂の大地にうるさいぐらいに呼吸が響いた。

 叫ぶ。

 喉の奥から空気が抜けるだけで、声は出なかった。

 それでも嘆かずにはいられなくて、腹から何もかも絞りだすように意味の無いそれをただただ吐き続けた。

 喉と肺とが限界まで苦しくて、けれどそのほうが苦しくなかった。


 声が聞こえる。

 女性の声のようだ。

 名前を呼ばれた気がして、わたしは声のほうを振り返った。

 赤毛の女性と目が合い、その顔はどこか心配げだった。

 ゆっくりと手が伸びる。

 わたしの頬に、その手は添えられた。

 温かい指――命あるそれに、しかし思い出したのは、次第に温かさを失っていった記憶。

 咄嗟に飛び退く。

 足が思い通りに動かなくてもつれた。

 思わず手を放してしまったものが、わたしの足の上に倒れる。

 わたしが右手を着いたところは水溜りになっていて、ぴしゃりと音がする。

 重く粘りのある水の中で、砂以外の感触が手のひらにあって、見るとそれは手鏡の柄だった。

 ランスに貰ったたいせつなもの。

 けれど、わたしはそれを握ることができなかった。

 歯の奥が震えている。

 温かい指が、今度は肩に添えられる。

 怖かった。

 目を合わせることができなくて、すぐにでも逃げ出したかった。

「もう大丈夫ですよ」と優しい声が聞こえて、口の中に酸っぱい異臭がこみ上げる。

 腕が背中に添えられ、優しい吐息が頬に当たるのを感じて、わたしはとうとう堪えきれずに嘔吐した。

 繰り返すこと三度、腕に力が入らなくなって、吐瀉物の上に倒れ込む。


 もう嫌だ。

 何もかもが怖かった。


 動かなくなってしまった二本傷の兵士も。

 血に汚れた自分の両手も。

 逃げようとして逃げられないでいる自分も。

 追ってくる目に見えない何かも。

 向けられるはずのない優しさも。

 温かい指先も、温かい言葉も、温かい吐息も。

 自分の鼓動が聞こえてはいけないもののような気がして、自分なんかが生きていていいのか不安になる。

 自分の左胸に爪を立てて掻き毟り、泣く資格などないはずの両目から涙が流れた。


 ふと、足音のようなものが押し寄せてくるのを聞いた。

 『焔の国』の兵士たちが進軍してきたのだろう。


 また戦闘が始まる。

 まだ戦争は終わらない。


 また誰かが死ぬのだろうか。

 もう戦う必要なんて無いのに。

 もう誰も死ぬ必要なんてないのに。

 もう誰かを殺す必要なんて無いのに。

「止まって……」

 声が擦れた。

「やめて……」

 風の音にかき消される。

「戦わないで……」


 立てるはずも無いのに、立ち上がる人影を見た。

「リアちゃん、エミリアさん……」

 立ち上がることもできずに、それでも吼える巨体があった。

「ミリア……駄目。みんな逃げて……」

 わたしの消えそうな声は確かに届き、それでも三人は首を横に振った。


 後ろから頭を撫でられる。

 手を繋いだ男女の影が、わたしのすぐ横に立った。

 出来の悪い弟をよろしくな、なんて形で口が動いた気がした。

「グレン様、マドカさん……」


 もう大丈夫ですよ、聞こえてきたのはそんな優しい声。

 その声をかけてもらうのは二回目だった。

「アナさん……」


 直後、まぶしいほどの光。

 夜明けだ。

 照らし出されて見える影は、八千人の軍勢。

 その圧倒的な戦力差に、嫌な想像しか浮かばなかった。


 味方も、敵も。


 今ここには、国のために立ち上がった人と、大切な人のために剣を構えた人ばかりだ。


「もう誰も、死んでほしくなんか無いのに……」


 悪い人なんて一人も居ない。

 人を殺めたい人なんて一人も居ない。

 それでも自分の心を握りつぶして、誰もが立ち上がっているんだ。

「来ないで……」

 止まらない。

「逃げて……」

 逃げてくれない。

 わたしのせいでまた、多くの血が流れる。

 また大勢、動かなくなる。

 それは駄目だ。

 そんなことあっちゃいけない。

 それでもどうしようもなくて、手にも足にも力が入らなくて、ただ止まってと。

 もう止めてと。

 誰にも届かない声を叫び続けた。


 足音が近くなる。

 嫌な想像がどんどん現実に近づいてくる。

 押し寄せてくるそれが怖くて、ただ怖くて、整理されないそんな滅茶苦茶な気持ちを搾り出してただ叫ぶ。


 次の瞬間。

 わたしの中で、何かが欠け落ちた気がした。


「もう来ないでっ、来ないでよぉぉぉぉぉぉぉっ!」


 ようやく出てくれたその声は、いろいろなものを削り落としていくようだった。


 宙を舞う、見ることの出来ないはずの細かな砂の粒さえ視える。

 無数の砂を巻き上げて砂埃を作りながら、走ってくる人影は八千二百五十九人。

 その一万六千五百十八本の足を質量のある空気で握る。


 無数の滅茶苦茶な音。

 世界が崩れるようだった。


 どす黒くて目に見えない奔流(ほんりゅう)を前に、砕けて抉れて、わたしの中にぽっかりと穴が空く。

 奈落の底から湧き上がるそれに、心が呑み込まれた。


 左目の奥に痛みが走る。


 目を覚ましたのではない。

 ただ壊れたのだと、それだけを漠然と理解した。

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