第5章「届かぬ声」⑤
「ごめんね」
「――――――っ、」
届かない。
わたしは息を呑む。
ランスの貼り付けたような、いつもと同じ優しく整った笑顔。『ごめんね』という言葉よりも、その表情のほうが何倍も悲しかった。
「もうそういう局面じゃないんだ。話し合いができた段階は、とうの昔に過ぎてしまったんだよ」
ランスの指示で、わたしたちは立ち止まる。
砂の上を移動したから感覚が掴みづらいが、二百メートルは移動しただろうか。再び敵軍に向き直り、全員が構え終わる終わらないかと言うときだった。
聞こえてきたのは、爪蹄を履いた馬が砂の上を駆けてくる独特の音。
次の瞬間、砂煙を掻き分けて現れたのは、頬に二本傷のある男――ノレイン王子の護衛だった兵士だ。
二本傷の男は左手に持った二本の槍を構えると、わたしとアナさんの乗る馬の脇腹に刺した。
「えっ……きゃぁっ!」
咄嗟に漏れた声は、わたしのか、それともアナさんのものだったのか。
しかし直後、わたしは腕を引かれる。
突然のことに抗う余裕もなく、いつの間にかわたしは二本傷の男が駆る馬の背に乗せられていた。
「えっ、どういうこと?」
「ノレイン王子から、あなただけはお守りするようにと仰せつかってきました。できればもう一人の、『穂の国』の女性も確保したかったのですが」
二本傷の男は淡々と答える。
大丈夫だ。何となくだけれど、命令なんかなくても、この人はわたしに危害を加えないような気がした。
ランスたちの後方、さらに五十メートルほど離れたところで馬は止まる。
目の前で戦争が起こっているというのに、わたしは馬から降りるのを敵兵に補助されて、「お怪我はありませんか?」などと心配もされている。
「ナナミちゃんを返しなさい」
エミリアさんの声だ。
エミリアさんはナイフを構え、その横ではリアちゃんもこちらに向き直っている。
二人は怒りの形相で、わたしを捉えている男を睨んでいた。
「心配はするな、危害は加えない。人質に取るつもりもない。何ならそちらの赤毛の女性も、こちらでお預かりしようか?」
「何を……信じられるわけないでしょ!」
「ですね。わたしたちの友人を返してください」
徐々に喧嘩腰になっていく。
わたしを捉えた兵士にはそんなつもりはないのかもしれないが、今の状況はいささか良くない気がしていた。
エミリアさんとリアちゃんの注意がわたしに向いているということは、ランスが事実上、孤立しているということだった。
直後、弓のしなる音。
砂煙で視界が定かでない中、闇雲に射っているのだろう。それでもあの敵兵の数だ。
尋常ではない数の矢が砂煙の中を突き抜けてランスたちへと降り注いだ。
「逃げてっ!」
叫ぶ。
しかし遅すぎた。
走り出したエミリアさんの足を一本の矢が貫く。
倒れたその体に、さらに三本の矢が刺さるのが見えた。
リアちゃんも同様に、お腹に二本の矢が刺さり、こめかみと肩口も矢が掠ったようで、血を流している。
二人とも息はあるようだ。
矢は止まらない。
狙いが定まっていない、しかし無数に降り注ぐそれは、いつまた当たるかわからない。
ランスとアナさんの様子は、ここからでは見ることはできなかった。
わたしは叫んだ。
ランスの名を。
目の前で倒れた二人の名を。
この戦争を止めたいと言って付いてきてくれた女性の名を。
羽交い絞めにされた体は言うことを聞かず、今必要なはずの能力は発動の気配さえ見せやしない。
もうやめてと、みんなを助けてと、わたしは声を上げ続けた。
突如、突風が吹く。
人がさらわれて、宙に浮くのではないかというほどの風だった。
再び突風が吹き荒れるのに重なり、轟いたのは咆哮。
ミリアだ。
ミリアが翼で風を起こしたようだった。
矢の起動が逸れ、それらは敵陣の左翼へと降り注いだ。
矢が止まる。
しかし第一射が終わっただけだろう。
必ず次が来る。
砂煙が突風で吹き飛ばされ、視界が晴れる。
数千本の矢が降り注いだ地面の上で、青い服の少年が立ち上がる。
「ランス……」
わたしは少年の名を呼び、しかしふと気づく。
少年は無傷だった。
五本ぽっちのツララが、二十は優に超えるであろう矢を的確に受け止めていた。
まるでどこに降るか分かっていたかのように、刺さるはずだった矢の悉く全てを受けきっていたのだ。
視界の良い場所であっても、それは神業だと言うのに。
ならば視界の悪い中で起こったそれは、明らかに異常だった。
だとしたら、そんなことができる人物に、わたしは一人しか心当たりがなかった。
「……グレン王子」
あらかじめグレン様が、矢が刺さる場所をランスに指示していたのだろう。
ランスは砂の上に倒れたアナさんを助け起こす。
アナさんも無傷のようだ。
ランスが指示したようで、アナさんもこちらに向かって走ってくる。
「じゃぁもしかして、リアちゃんとエミリアさんがすぐには死なないことも、全部分かってたってこと?」
エミリアさんにはあわせて五本の矢が刺さっていて、立つこともできない様子だった。
今はまだ息はあるようだが、命に別状がないかはわたしには判断が付かなかった。
しかしそれ以上に心配なのは、腹に二本も矢が刺さったリアちゃんのほうだ。
わたしの位置からでも、酷い出血であることが見て取れる。
本来ならば立てないような傷でも立ち上がり、バランスを崩したところでアナさんが咄嗟にリアちゃんを支えた。
「……あの馬の近くまで……連れて行ってほしいんです」
息も切れ切れな声で、リアちゃんがアナさんに頼んだ。
アナさんが頷くと同時、第二射を指揮する掛け声と、無数の弓が弾ける音。
しかし背後からの突風で矢は一本もこちらに届くことなく、落ちる。
いつの間にかわたしの上空に移動していたミリアが、翼で風を起こしたのだ。
第三射、第四射が同様に無効化される。
ミリアの力は圧倒的だった。
だが、ミリアの表情は相当に苦しそうで、もしかしたら限界が使いのではないかと懸念する。
それまでに弓の届かないところまで、さらに後退する必要があった。
「うっ……」
ふと、鼻を突く異臭が届く。
見ると、包帯をはずしたリアちゃんが、左手を倒れた馬の首元に当てていた。
そして信じられないことに、リアちゃんは自分の腹に刺さった矢を力任せに引き抜いたのだ。
血を吐いていた。
相当に苦しそうだった。
けれど本当に信じられないことが起こったのは、そのあとだった。
「……ごめんねです」
リアちゃんが、腐食し崩れ落ちゆく馬に謝る。
それからリアちゃんは右手を自分の腹部へと当てた。
「……えっ?」
それはまるで、生命力を吸い取るという表現が正しいように思えた。
じわじわと腐敗していく、馬の肉体。
まるでそれにあわせるかのように、リアちゃんの腹部の傷が塞がっていくのだ。
アナさんが今度はエミリアさんの体をリアちゃんのところへと運ぶ。おそらくリアちゃんが指示をしたのだろう。
リアちゃんが同じように、右手でエミリアさんの体に触れると、エミリアさんの怪我はあっという間に塞がってしまった。
「何だあれは……」
頬に二本傷の兵士がわたしに尋ねるが、わたしもあんなのは初めて見る。
ただ驚きの余り、思うように言葉が出なくて、わたしはただ首を横に振るしかできなかった。
リアちゃんが立ち上がる。
「ミリア姉、ありがとうです。もう大丈夫だから」
そう言ったリアちゃんの瞳。
左目だけが赤かったはずのリアちゃんの瞳が、いまは両方ともその色になってしまっていた。
リアちゃんが自分の左胸に右手を重ねる。
傷口もなく、透き通るように握りだしたのは、血のように赤く輝く歪な結晶だった。
リアちゃんがその結晶に息を吹きかける。
次の瞬間、リアちゃんの左腕の肩から先が、まるで一瞬で煙にでもなったかのように消えたのだ。
「リアちゃん、腕っ!」
「大丈夫です、ナナミさん。砂のように細かく散っているだけですから」
弓の弾ける音。
続く第七射。
しかし放たれた数千本の矢は一本たりとも標的に届くことはなかった。
矢はランスたちの上空で、握りつぶされた乾いた枯葉のように砕け、火の点いた葉巻のように形を失い、巻き上げられた砂のように細かく散り散りになってその質量さえも見失う。
「生気を奪われてるんだ……」
唐突に理解する。
リアちゃんの腕は灰のように細かい破片になり、上空で防御壁のように散らばっている。
それが飛んでくる矢のひとつひとつを原形もとどめないほどに分解しているのだ。
きっと今、生物がそれに触れたら、一瞬で腐ってしまうだろう。
これは異様な光景だ。
『焔の国』の兵士からみたら、特にそうなのだろう。
兵士たちが動揺しているのか、次の矢が来るタイミングが僅かに遅れる。
「撃ち続けろ!」
聞こえてきたのは、聞き覚えのある声だった。
ノレイン王子のものだ。
「矢が消えるのは敵の能力者の仕業だ。能力者をあの場所に釘付けにしろ。石火矢の移動が済むまで、一歩たりともこちらに近づけるな!」
現状、敵軍の陣形は大きく崩れている。
弧状になっていた陣形の右翼はグレン様とマドカさんのおかげで壊滅状態。
左翼はミリアが飛ばした弓のせいで、そちらも戦力が大幅に下がっている。
また、石火矢の射程は三百七十メートルほどだ。ランスたちが後退したことによって、中央の敵からの距離は四百メートルほどになっていた。
後退したランスたちを追うように、弓兵部隊が突出して百メートルの距離まで追ってきていて、残った『焔の国』の兵は右翼の援護と、ランスたちの右後方から回り込もうとする部隊とで分かれていた。
ふと。矢が砂に刺さる音。
見ると、リアちゃんはかなり慰労しているように見えた。
「もしかして、能力の限界……」
リアちゃんの作った防御壁をすり抜けて、数本の矢が砂の大地まで届く。
もうそんなに長くはもたないかもしれない。
幸いまだ誰にも矢は当たってはいないが、それも時間の問題だった。
「更に後退する!」ランスが叫ぶ。「合図をするまで走って」
「弓兵部隊は追え! あと二分間、あいつらに何もさせるな。それで我らの勝ちだ!」
ランスたちが後退する。
それにあわせてわたしも、二本傷の兵士の肩に担がれて移動させられる。
足が地に着かず、顔は後ろ向き。前も見えない状態で不安定に運ばれるから怖い。
しかも、わたしの腰のすぐ横に兵士さんの顔があるんだけれど!
「あの、恥ずかしいから次からは手を引くぐらいで……」
「これが一番確実なんです。我慢してください。俺もこんな姿、妻には見せられないですよ」
「うぅ……」
しかしふと、気づく。
ランスが立ち止まった。
移動した距離が五十メートルほどのところだ。
ランスが左手を掲げる。
親指と中指を重ね、指を鳴らす構え。
違和感がした。
不吉な予感もした。
敵に振り向いたランスの表情は見えず、ただ、その背中がいつも以上に小さく見えた。
リアちゃんたちを追う弓兵舞台は止まらず、ランスから百メートルの地点に差し掛かる。
そこはわたしが到着したときに、ランスたちが最初に構えていた場所だ。
思い出す。
どうして早く後退しなかった?
ミリアの背を盾にして石火矢を防いでまで、どうしてあの場所に拘った?
そこから移動したのは、何かの準備が整ったからではないのだろうか?
だとしたら、あの指はツララを作る魔法じゃない。
左手の指が鳴った瞬間に起きることは、もっともっと凄惨な何かだ。
「本当は歩兵部隊も来てくれていれば、話は早かったんだけどな」
そう呟きながら、ランスが親指と中指に力を込める。
「駄目ぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
叫んだ。
その音は、それ以上の爆発と熱風に掻き消された。




