第4章「ランス王子」④
いつもより念入りに髪をとかす。
制服の襟をちょっとだけ丁寧に整え、わたしは寝室を出た。
ひとつ夜が明けて、いまは朝。
ランスが出かけようと誘ってくれた日だ。
昨夜はわくわくして眠れず、みんなで朝食を食べている間も、わたしの頭の中はそれでいっぱいだった。
ランスとの約束は、十時ごろに市場街の入り口。朝食の片づけをして、洗濯物を干し終えても時間が余ってしまい、少し早いけれどわたしは王宮を出た。
約束の時間よりも三十分ほど早く、待ち合わせ場所に着く。
それから五分ほどして、ランスが来た。
「ごめん、待たせちゃったかな」とランスは言うが、それでも約束の二十五分前だ。
「大丈夫、わたしも今来たところ」とわたしは答える。
ランスも今日の約束を楽しみにしてくれていたのだろうか?
そう考えると、少し嬉しい気持ちになった。
「それよりもランス、その服」
「ああ、今日は王子として町に来たわけじゃないからね」
ランスの服装は、上品ではあるものの、市井の人たちが着る服に近かった。
夏なのに相変わらず袖が長いことが、少し気になったが。
そしてそれよりも、ちょっとした一大事に気づく。
「どうしよう、わたし制服で来ちゃった……というかこれしか持ってない」
「気にしなくていいんじゃない?」
「わたしは気になるの。ランス、服買いたいんだけど、もしよかったら選ぶの手伝ってくれない?」
「別にいいよ。時間もだいぶ余裕があるしね」
「やった♪」
市場街にはいろいろな国の民族衣装だったり、流行のファッションのお店だったりもあって、わたしたちはそこを梯子した。
わたしの目を引いたのは、きれいな水色のシャツだった。
同じ店で売っている薄紅色のスカートとあわせて試着をさせてもらい、ランスに「どう?」と聞いてみる。
ランスは「可愛いと思うよ」と言ってくれたのだが、鏡を見てわたしは思わず苦笑いをしてしまった。
この服はどうにもわたしには不釣合いと言うか、可愛すぎるのだ。
あとスカート丈が短すぎて恥ずかしい。
「落ち着かない。そわそわする……ちょっとランス、笑わないでよ」
「ごめんごめん。でも似合ってるのは本当だよ」
「だめ、無理。こっちの茶色のロングスカートのほうがわたしには似合うって」
「茶色って……デザインは可愛いけど、王宮の制服よりも地味じゃない? せっかく買うのに、それでいいの?」
「うにゃぁぅ」
とりあえずどっちも保留。
次のお店に移動して棚を見ていると、ランスが「これなんてどうかな?」と、ひとつの服を持ってくる。
それは水色のワンピースだった。
基本のデザインはシンプルなようでいて、ところどころに小さくフリルがちりばめられている。
腰辺りに二箇所、ピンク色のリボンの飾りがついているのも可愛いかった。
「少し幼すぎるかな?」
そう言うランスに、わたしは首を横に振る。
似合うかどうかなんて自信はないし、やっぱりちょっとわたしには不釣合いな服かもしれない。
けれどわたしは素直に、そのワンピースを着てみたいと思った。
ひょっとしたらランスが選んでくれたからかな?
そんなことをふと考えたら、急に恥ずかしくなってきて、あわてて試着スペースに隠れる。
高揚する気持ちを抑えて、呼吸を整えてから、わたしはそっとワンピースに袖を通した。
「お待たせ。ランス、どうかな?」
「似合ってるよ。気に入ってくれた?」
「うん!」
わたしは頷くと、店員さんに「すみません、これください」と言って会計をする。
制服を入れる用に安い袋もひとつ買って、ワンピース姿でわたしはお店を出た。
「そうだ、ランス。ランスが行こうとしていたところって?」
「砂漠に囲まれたこんな国だけど、きれいな景色が見える場所があるんだ。ナナミにも良かったら見て欲しくて。でもその前に、どこかで昼食にしない?」
わたしは頷く。
時刻はもうすぐ正午に差し掛かかろうとしていた。
市場街の宿屋のいくつかは、昼間は飯屋として営業している。
そのうち東広場の近くの宿屋で、わたしとランスは食事を済ませた。
それからランスの買い物を手伝ったり、みんなへのお土産にとお菓子を見たりしていたら、目的地に着いたときには夕方になってしまっていた。
着いたのは、市場街のさらに東の場所だった。
高台といえば聞こえはいいが、とても大きな岩の上という表現のほうが適切かもしれない。
草木の一本の生えない、とても寂しいこの場所で、しかしわたしは言葉を失った。
夕日だ。
王宮から市場街の端まで見渡せるこの場所から眺めるのは、深く深くとても深いところからやってくるような赤い色。
まぶしいぐらいに輝く黄色を塗りつぶして、それは全てを呑み込んで揺れていた。
怖い。
手が震える。
足がすくんでもう立っていられないと思ったとき、わたしの手をランスが強く握ってくれた。
もしかしたらランスはたまたま、わたしの手を握ってくれただけかもしれない。
けれどそれでもわたしは、この右手の中にある温もりを心強いと感じた。
怖くないわけじゃない。
逃げ出したくないと言えば嘘になる。
本当はきれいなはずのこの景色も、わたしにとっては依然としておぞましいものにしか見えない。
それでもこの手を繋いでいられるなら、まだここで立ちつづけたいと思えた。
隣に立つランスの顔を見る。
ランスもわたしの顔を覗き込んでいて、とても近い距離で目が合った。
わたしは「きれいな景色ね」と嘘をつき、けれどこの左手と、それからいままでのいろいろなこととかを全部込めて、心から「ありがとう」と言った。
「ナナミ」
ランスが言う。
ランスは市場街の西側の出口あたりを指差していて、その言葉にはどことなく嫌な予感がした。
「また近いうちに戦争になる。この国で戦える人間は数えるほどしかいないが、それでも間違いなく国の命運をかけた戦争だ。
城下町の西の出口から真っ直ぐ進むと、いくつかの村の先に砂漠があって、そこから二日ほど馬を走らせると『光の帝国』に辿り着く。もし戦争になったら、」
「待って。わたしだけ逃げろって言うの?」
それだけは絶対に嫌だと思った。
ランスや、リアちゃんやミリア、エミリアさん、マドカさんが、わたしの知らないところで傷ついて、最悪の場合、命を落としてしまう。
ランスたちが戦っている時に一人だけ安全なところで待っていて、その顛末をあとから聞かされるだけなんて、納得できるはずが無かった。
けれどランスの答えは、
「ああ。もし戦争になったら、ナナミは逃げてほしい」
わたしの気持ちとは、相反するものだった。
「持てるだけの水と少しの食料を持って、ラクダでも馬でもいいから拝借して、『光の帝国』に逃げ込むんだ。万全の対策も打つつもりだし、負ける気もない。だけど今までもこれからも、絶対は無いんだ」
「じゃぁわたしも戦う!」
「そんな力は、ナナミには無いよ。もし次に戦場に来たらナナミは命を落とす。生き残れはしないだろうね」
「そうだ、この眼! このまえ剣で切られそうになったとき、剣の動きが一瞬止まったようにみえたの! わたしにもきっと能力があるはずだから……」
「じゃぁその能力を、今使って見せてくれ」
「え?」
言葉に詰まる。
あるかどうかもわからない能力を今この場で見せられないからではない。
ランスの声が、寒気がするほどに冷たく感じたのだ。
「本当に能力で剣の動きを止めたのなら、それは『空間掌握能力』だ。
眼で見える範囲、音の聞こえる範囲、気配を感じることのできる範囲の物質を動きをすべて自在にできる、最強の部類に入る能力だ。
けれどそれも、使えないのであれば何の価値もない。そんなものでは何も守れやしないんだ」
そう言った彼と同じ眼を、一度だけ見たことがあった。
ノレイン王子が王宮に来たときだ。
まるで別人のようだ。
わたしの知っているランスが上書きされて、別の何かが現れているような気さえした。
「ランス、こんなときだけれど、聞いてもいい?」
ただの勘だとしか言いようがない。
それでも今、それを聞いておかなくてはいけない気がした。
ランスが伝えたいことの本当の意味を知るために、必要な気がしたのだ。
「ランスが以前、言った言葉……『貴国の兵士何人なら、我が国の一般市民二万七千人と釣り合いますか?』って、ノレイン王子に言ったけど、ランスはどう思っているの?」
砂の混ざった風が頬を叩く。
思わず目を閉じ、風が止んでわずかばかりの沈黙。
再びまぶたを開けたときにランスの口が動いた。
しかしランスの口から、答えが告げられる前に、
「その答えは『ありえない』だ。そうだろう、ランス王子」
聞こえてきた声はランスのものではなかった。
背後を振り返ると、そこには灰色の髪をした大男ふが立っていた。




