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第3章「マドカ」②

「さようなら、ナナミちゃん」

 

 立ち上がると、マドカさんはそう言った。


 無意識だった。

 だけど確信があった。

 それは絶対に、普段のマドカさんが言わない言葉だ。

 だから咄嗟にわたしは、去ろうとするマドカさんの手首を掴んだ。


「ナナミちゃん?」


「マドカさん、なにかあったんです? もしかして、もうマドカさんとは会えなくなっちゃうんですか?」


「もう、こういうところだけは鋭いんだから。少しお馬鹿で鈍感なほうが、生きるの楽かもよ?」


 でもたぶん、気づけなかったことで後悔するよりは、そっちのほうがいいと思う。

 それをマドカさんに言ったら、マドカさんは「そうね、ナナミちゃんはそっちかも」と笑った。


 その笑顔はどこか寂しそうだった。


「甘えちゃってごめんね。ちょっとだけ、も一回お話につきあってくれる?」

 そう言ったマドカさんの言葉に、わたしは頷く。


「わたしね、死ぬのよ」


「死ぬ?」

「ええ。たぶん近いうちに殺されるわ。

 まぁわたしもたくさんの人間を殺めてしまったんだから、当然と言えば当然よね。周りから見たら、わたし一人の命じゃ釣り合わないって話にもなるでしょうし。

 心残りはちょっとあるけど、覚悟はしていたから怖くない……ううん、怖いけど、殺されるのには十分だって納得もしてる。

 三日前のあの夜だけじゃないのよ。同じようなことをその前にも二回……どうせいずれはこうなったのよ。それが今だってだけだから。

 だからナナミちゃんは気にしないで。ね?」


「心残りって?」


「え?」

「今、『心残りはある』って……それって何なんですか?」

 マドカさんは今度こそ「失言だったわ」と呟き、けれど、「まぁナナミちゃんならいいかな」なんて笑ってみせる。

 それから、マドカさんは言った。


「わたし、結婚するはずだったの。

 もともとの予定は二日後。そのときにお披露目もするはずだったの。

 名乗れるほどの家柄も、大した学もなくて、こんながさつな女でも、わたしがいいってい言ってくれた。まぁ、お家柄なんて気にする国じゃないんだけどね。

 素敵なミドルネームも貰って、マドカ・リリティアナ・クレセントナイトって名前になるはずだったの。楽しい生活も夢見たりしたのよ。

 でも、結婚したあとなんてもう望まない。

 形だけでもそれがほしい。

 名前だけでもあの人の隣にいたい。

 今は国がこんな状態だからあれだけど、あの人が部屋の引き出しに対になった指輪を隠してるのも知ってる。

 あの人、ちゃんと覚えていてくれてるの!

 どんなに忙しくなっても、どんなに追い詰められていても、とっても大きなものを守らなきゃいけない立場でそれが今にも奪われようとしているこのときにも、頭の片隅でちゃんとわたしのことを気に掛けてくれてる。

 わたしが死んだら絶対に泣いてくれる。

 でもあの人の泣き顔なんて見たくない!

 あの人、笑うとすっごいかわいいの。だけどもうずっと、あの人が笑ったところを見てない。

 見たいよ……もう一度だけ、あの人の笑顔が見たいの!

 わたしとじゃなくてもいいの。でも幸せになって欲しいの。たぶん本当に見ちゃったら胸が苦しくなると思うけど、許せなくなるかもしれないけど、でもあの人にはやっぱり笑っていてほしいの。

 わたしのことを忘れないでほしいけど、わたしのことなんか忘れて生きて欲しいの。

 でもやっぱり、あの人と一緒に幸せになりたかったのっ……」


 マドカさんが泣いていた。

 わたしも涙が堪えられなくなって、二人で泣いた。


 どれだけ時間が経っただろう。

 悲しくてどうしようもない気持ちのまま、涙だけが出なくなる。

「ありがとうね」

 何に対しての言葉だろうか、マドカさんがわたしの耳元でと小さく囁く。


 そして首の後ろを叩かれたような感触。


「ナナミちゃんに会えて、本当に良かった」


 薄れてゆく意識の中、その言葉がわたしの耳を離れなかった。




 夢を見た。

 またあの夢だ。

 炎の中で、顔も覚えていない人たちの、けれどとても大切な人たちの声が聞こえる。

 嫌だ。

 嫌だ。

 願ってもまたひとつ、またひとつ、優しかったあの声は消えていく。

 またあの笑顔が見たかった。

 どうしようもないことで、まだまだおしゃべりしたかった。

 あたり一面は先も見通せないぐらい激しく燃えているのに、わたしの周りだけ、全然熱くない。

 まったく炎が寄ってこないのだ。

 それでも足は動かない。

 炎の向こう側の景色から目を逸らしたくて、聞こえて欲しい声を見つけられないのが怖くて。

 何もつかめなくてもせめてと伸ばしたはずの手で、しかし耐え切れなくて自分の身を抱いた。

 炎が届かないこの場所で一人、目をふさいで耳をふさいで、走馬灯のように流れる優しい記憶に耐えながら、ただ時間が過ぎるのを待つ。

 たぶんもうすぐ炎は消える。

 そうしたら、また歩き出せる。

 自暴自棄になった心と、全てを見失った瞳で、この場から逃げることができる。


 でも、それじゃ駄目なんだって思った。


 両手を地面について、力が入らない足を無理矢理踏ん張らせる。

 足が動いた。

 腰が上がり、けれどバランスを崩して前のめりに倒れる。

 別にいい。

 体ひとつ分だけ前に進めた。

 繰り返すこと三度。転びながらも前に進むことができた。


 そして五度目。

 わたしは立ち上がると、立って一歩前に踏み出した。




「ナナミちゃん、ナナミちゃんっ!」

 声が聞こえて、わたしは目を覚ます。

 おそらく(うな)されていたのだろう、「大丈夫? 大丈夫っ?」なんて心配そうな顔で、ミリアがわたしに抱きついてくる。


 あの夢のあとには、この温もりがとてもありがたかった。


「ミリア、目が覚めたのね」

「うん。階段で寝てたみたいで、誰かに踏まれて目を覚ましたのです」

「部屋を飛び出していくほどの寝相って……じゃなかった、それどころじゃなかった! マドカさん見なかった?」

「見てないですけど……」

 窓の外を見る。まだ夕日は沈んでいない。

 ミリアのおかげで、おもいのほか早く目を覚ますことができたようだ。

「ミリア、体の調子はどう?」

「おなかがすいているぐらい。もう問題ないです」

 そう答えたミリアの口に、マドカさんが切ってくれた果実を突っ込む。


「ミリア、起きたばかりなのにごめん。マドカさん探すの手伝って!」


 マドカさんは自分が殺されると言っていた。

 仕方ないとも言っていたけれど、でもやっぱり、それは違うと思うのだ。


 わたしに何ができるかわからないけど、もう手遅れかもしれないけど、でもここで踏み出さなかったら嘘だ。


 どんな事情があるかわからないけど、やっぱりマドカさんには生きて幸せになって欲しい。

 それが今のわたしの、本当の気持ちだから。


「はいっ!」

 意気の入った声。


 ミリアは事情も聞かず、ただわたしを信じて頷いてくれた。

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