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第2章『焔の国』⑦

 砂に足をとられる。

 自分の足に(もつ)れる。

 何度も転んだ。


 無様な走り姿のまま、それでもわたしの体は止まらなかった。


 次第に砂が硬くなる。足元が湿ってきて、頬に少し重い滴が飛んでくる。

 人の胴のようなものに躓き、大きな水溜りの上で盛大に転ぶ。何かやわらかいものに手を着いて立ち上がると、わたしはまた駆け出した。

「第四射、構え!」

 声が聞こえる。たぶんわたしがいるここも危ないのだろう。


 それでもわたしは、大きくて白い虫の足ような肋骨に両腕で抱きつく。


 叫ぶ。


 気がつけばわたしはそれを、「ミリア」と呼んでいた。




「ナナミちゃん……」


 わたしを呼ぶ声。


 答えてくれた。


 ほんの数時間前に聞いたはずの声が、酷く懐かしく感じる。

 安心したのか、嬉しくなったのか、気がつけば目の端から涙が伝っていた。


 わたしはここで死ぬのだろうか? 戦争に来た人たちの真ん前、言うならば最前線だ。

 しかし来るはずの石火矢の第四射は来ず、発射の号令の代わりに聞きなれた声が届く。


「一度、退きましょうです!」


 リアちゃんの声だった。

 振り返るとリアちゃんは、先ほどまで号令を出していた男の首を左手で掴んでいる。

 男の体は指の当たるところから次第に皮膚が赤く溶けたようになり、やがてどす黒く濁っていく。 

 男が一言も言葉を発することはなく、ただ自立が不可能になり、無残な姿で砂の上に倒れた。


 異臭が漂い、殆どの兵士が萎縮する中、亡骸を飛び越えて襲い掛かってくる兵士が二人。

 そのうち一人は飛んできたナイフが側頭部に刺さり倒れる。

 ナイフが飛んできたのは、エミリアさんが立っている方からだった。


 もう一人の兵士は剣を振り上げると、真っ直ぐリアちゃんのほうへと走っていた。

 わたしは咄嗟にリアちゃんの左手を掴む。

「ぁっ……こんのぉっ!」

 腐臭がした。それでも、手に力が入らなくなる前に、わたしはリアちゃんの手を思い切り引っ張った。

 リアちゃんが地面に倒れると同時、わたしの目の前で兵士の剣は空を斬る。


 兵士と目が合う。

 次に振り上げられた剣は、間違いなくわたしを狙っていた。


 風を感じる。

 死が形を持って、わたしに迫ってきているのが分かった。

 こういうとき、本当はもっと取り乱すものなのだろうか。

 怖いと思うのだろうか。遣り残したことを悔やむのだろうか。 


 せめて『さよなら』を言おうかとふと思うが、たぶんそんな時間もないのかな。


 ミリアとも、リアちゃんとも、仲良しのつもりでいたんだ。

 だけど二人が背負ってるものとか、ランスが抱えてるものとか、全然知らないんだって思ったとき、ちょっとだけ寂しくなったんだ。

 エミリアさんも昔に何かあったのかな?


 会ったばっかりのわたしにいっぱいいっぱい仲良くしてくれて、そのとき貰ったいろいろな言葉や優しさは嘘じゃないって思ってる。本当だよ?

 出会えてよかったって、これだけは胸を張って言えるんだ。

 改まって口に出そうとすると、ちょっと勇気はいるんだけどね。


 でもね。

 だけどね。


 だから今日を境に、もっと仲良くなれたらいいなって。

 こんなときだけど、ほんのちょっとだけそう思っちゃってたんだ。


 何でだろう。今にも剣が振り下ろされようとしているのに、ちっとも怖くないんだ。

 それでも今、死にたくないって思えているのは、たぶんきっと、幸せなことなんだよね?


 だから、『さよなら』は言わないことにした。


 もうたった一言を言う時間さえ残されていないけど、最後に言い残すなら、やっぱり『ありがとう』がいいなって思った。


 でもやっぱり、死にたくないなぁ……



「えっ?」



 一瞬、振り下ろされる剣の動きが止まったような気がした。


 ――パチンッ――


 指をはじくような音。


 わたしの前に割り込んできた人影は、金色の髪をした少年のものだった。

 ランスだ。

 ランスが指をはじいた音にあわせて、ほんの一瞬、頬を撫でる冷たい風。


 そして次の瞬間、兵士の胸はガラスでできた大きなトゲとも、無骨なツララとも見て取れる透明な塊に貫かれていた。


 噴き出した赤い血が頬と腕とに注ぐ。

 生温かいそれを不気味と感じながら、若干の嫌悪感を感じながら、それでも自分が生きていると実感して頬が緩んだ。


「ナナミ、大丈夫?」

「大丈夫……きゃっ!」


 安心したからかな? 突然、足に力が入らなくなってしまった。

 ランスに肩を借りて、ようやく何とか立ち上がる。歩くことはちょっとできなさそうだ。


 あったかい。ランスが力強く握ってくれている手と、寄りかかっている肩が、今のわたしにはとても頼もしく感じた。

 ランスの吐息が頬に当たって、つられてわたしはランスの横顔を見た。

 あともう少しで触れる距離。

 ランスの唇が小さく開いて、「間に合ってよかった」と聞こえたときには、本当にすっごくうれしかった。


 顔が熱い。

 自分の顔は今、もしかしたら真っ赤になっているのかもしれない。

 ランスに見られてたらちょっと恥ずかしいな、なんて思った。


 冷たい風が吹いた。

 顔を上げると、もう残りの兵士が襲ってくる様子はなかった。

 全体で言えばまだ半分以上の兵士が残っているように見えるが、その誰もが動こうとはしなかった。



「じゃぁここからは、わたしが頑張ろっかな」



 兵士達を前に立ち尽くすわたしに、追い越しざまに聞こえてきた言葉。

 使用人の制服に身を包んだ女性は、上品そうな歩き方で、おっとりとした口調でそう言った。

 小奇麗な靴で血だまりを踏み、転がった死骸の胴を踏み、腕を蹴りよけ、服が体が顔が汚れるのも意に介さず、ただ進んでいく。

 大きくあくびをすると、腰の帯に挟んだフライパンを右手に構えなおし、その女性はリアちゃんよりも、ミリアよりも前に立つ。


「もともとが二千二百人、いま残ってるのが千五百人ってところかな? あ、ちょっとの間、わたしの前には出ないでね」


 その女性――マドカさんは振り返ってミリアとリアちゃんにそう言うと、いつもどおりに〝にぱー″と笑った。

 その異様な雰囲気に、何人かの兵士が逃げ出す。

 その波は次第に広がり、やがて全体がわたし達に背を向けて走り出した。

「ごめんね。ちょっと逃がせないのよ♪」

 そう言うと、マドカさんはフライパンを二回、指で弾く。

 甲高い音がどこまでも響いた。

 マドカさんがフライパンを再び握りなおす。


「――Wake up(起動) bratpfanne(ヴラトファーネ)――」


 それは何か意味がある言葉だったのか、はたまた何かの呪文だったのか。

 ほんの一瞬だけ、フライパンの内側に魔法式のような紋様の淡い光が浮かび上がる。

 わたしはほんの一瞬だけ月の光の加減で、フライパンの先にあるものが見えた。


 それは剣だった。

 十メートルはあるのではないかと言うぐらいの長さで、重さの持たない透明な刃がフライパンの先に延びている。


 マドカさんは軽い足取りで逃げる兵を追うと、横に大きくフライパンを一振り。

 まるでおもちゃの積み木が崩れるように、逃げる兵士の五分の一ほどが一瞬で切り裂かれ、地面にぞんざいに捨てられた。

 それが数回。

 わずか二分もしないうちに、千五百いたはずの兵士は誰一人として立ち上がることはなくなる。


 圧倒的だった。


 最後にすべての石火矢を真っ二つに斬ると、マドカさんはポケットからハンカチを出して頬の汚れを落とす。きれいに磨いたフライパンを腰の帯に挟むと、マドカさんが言う。


「さ、帰りましょ」


 確かにここに長くはいないほうがいいのだろう。

 けれどわたしはマドカさんの言葉に、首を横に振った。

 ミリアがまだ、立つことができないのだ。

 ミリアに、元の姿に戻れるのか聞く。ミリアの返事は、戻れるけど一時間ぐらいかかるというものだった。首に近いところから順に、細胞をひとつずつ作り直していくらしい。

 先に帰っていて欲しいとミリアは言ったが、ランスもリアちゃんもエミリアさんも、この場所で腰を下ろした。


「もうちょっと一緒にいてあげたいけど、グレン様に報告しなきゃいけないし。ごめんなさいだけど、先に戻っちゃうわね」

 マドカさんはそう言うと、歩きづらいはずの砂漠をすたすたと歩いていった。


「これが終わりじゃない」

 ランスが呟く。

「『焔の国』の戦力がこの程度のはずがない。次はもっと大人数で来るはずだ」

「それってやっぱり、結構まず……うにゃ!」

「いいから、あんたはこっち!」

 エミリアさんはそう言って、わたしの頬を引っ張った。

「それよりナナミ。手、見せて」

「あっ、そういえば」


 リアちゃんを助けるときに、咄嗟にリアちゃんの左手を引っ張ったのを思い出す。

 おかげで左手には全く感覚がないんだった。

 改めて見てみると、赤く腫れ上がったり膿んでいたり、酷い場所では黒ずんで融けていたりと、結構ひどい状態になっている。


「エミリアさん」

 リアちゃんに聞こえないように小声で聞く。

「こんな状態でも治るんです?」

「三週間ってところね。わたしね、もとは『命の国』の出身なのよ。薬の処方とか医療とかを頑張ってる国ね。わたしはそこまで腕が立つわけじゃないけど、『命の国』ではこんなのは初歩の初歩なの。だから任せて。大丈夫、治して見せるわよ」

「どうしよ、お仕事できなくなっちゃいますよね? わたしってクビ?」

「ランス様がそんなことするわけないでしょ。ってか、本当は手首からポイなの。暢気にそんなこと言ってられる怪我じゃないの」

「やっぱりそうなんですよね……エミリアさんが大丈夫って言ってくれたから、ちょっと安心しちゃって」

「あんたねぇ、嬉しいこと言ってくれるじゃない」


 動かない手に注射と塗り薬を何種類も使って、最後に薬剤をしみこませた包帯を左手に巻いてもらった。

「ランスとおそろい♪」なんて言ったら、エミリアさんに本気でひっぱたかれた。


「ナナミさん」

 声を掛けてきたのはリアちゃんだ。

「えっと、その。謝って許されることじゃないかもですけど、その、ごめんなさぃ……」

「もしかしてこの手のことを言ってるの? 気にしないで。わたしが勝手に掴んじゃっただけだし、その前にわたしが助けられてるんだから」

 わたしがそう言うと、リアちゃんは突然泣き出してしまった。

 どうしていいのか分からなくなったわたしに、エミリアさんが言う。

「察してあげて。あの能力を知られたら嫌われるんじゃないかって、ずっと怖がっていたのよ。ナナミちゃんを傷つけてしまったあとは、不安でしょうがなかったはずよ」

「そっか……」


 たぶんわたしには、その気持ちを本当の意味で理解してあげることはできないのだろう。

 だからせめて、その小さな体を両手で精一杯抱きしめた。

 わたしを抱き返してくる細い右腕の感触が嬉しかった。


 それにしても、改めて思う。

 振り返るとそこには、おびただしいほどの血の量と、肉片とが散らばっている。

 約二千二百人分……

 その誰一人として生き残った者はいない。


 その光景を見ていると眩暈がしてきて、同時に喉の奥からせり上がっているものを感じる。

 耐え切れずわたしはその場で吐いた。

 それでも気分が好転することはなく、二度、三度、何も出てこなくなっても、苦しい息だけを吐き出し続けた。


 這い(つくば)るわたしの前に、ランスが屈む。

 吐瀉物まみれのわたしの顔に目線を合わせるように。

 そしてたぶん、わたしの視界を遮るために。


「それでいいんだよ」

 ランスが言う。

「ナナミはこんなものは見なくていい。そのままでいい。見慣れていなくて、それでいいんだ」

 優しい笑顔。

 わたしの口元の汚いものを、ランスは指で拭ってくれた。


『ランスはこんな光景を見慣れているの?』


 そんな意地悪な質問が頭の隅を過ぎって、だけど言葉にする勇気は出なかった。


 しばらくして、ミリアの体が元に戻ると、エミリアさんがミリアに予備の服を渡す。

 ミリアが服を着るのを待って、わたしたちは『月の国』への帰り道を歩き出した。




「あ、そういえば……」

 歩き出してすぐ。わたしはふと気になることがあって、確認に行く。

 ランスが砂に彫った魔法式の一角。誰も行かなかったような端のほうで、魔法式の一部が意図的に消されたようになっていた。


「ナナミ~、まだ?」

「すみません、もう大丈夫です!」


 たぶん麻痺してるんだと思う。

 考えなきゃいけないことがもっとあるんだろうなって思う。

 めちゃくちゃな一日だったから、もしかしたら明日の朝起きたら、考えが変っているのかもしれない。


 でも、今はただ、全員で『月の国』に帰れることが嬉しかった。

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