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2章序~9

2(序)


 地球上には、確認されているだけで百万種以上もの動物が存在するそうです。

 遥か有史以前、伝説の大洪水をノア翁の手によって救われた動物たちは、産めよ増えよと、地に満ちてきました。またその一方で、沢山の種が途絶えて来たことも一筆留めておかねばなりません。

 そのようなあまたの動物、増える動物も失われた動物も、清い動物も清くない動物も、鳥も地を這うものも、全て変わりなく愛を注ぐわたくしですが、中でも特に愛されてしかるべきは、齧歯目キヌゲネズミ科キヌゲネズミ亜科であることに異論はないでしょう。世間で言われているところの、つまりはハムスタアであります。 

 とりわけヒメキヌゲネズミ属ヒメキヌゲネズミ、つまりはジャンガリアンハムスタアが至高であると、わたくしはここで敢えて断じさせていただきます。この行為が世に蔓延る議論闘争に火を注ぐ行為であることは十分存じておりますが、ここでの反論は一切許しません。嗚呼、ジャンガリアンのなんともふもふなことでありましょう。全世界にもふもふあれ。


 ――昔、こんなことがありました。


 他の追随を許さないそのジャンガリアンの愛らしさに対して、わたくしも少しばかり愛を発現して見せようと、家族の留守を確認し「じゃんがりあああああん」と、スタロオンの真似で力強く叫んだのです。

 ややあって、御手洗いから出てきた母が「大きな声で何かしら?」と部屋のドアを開けたときのあの薄ら笑い! 目を細めたシロフクロウを思わせる、あのどこか蔑んだ笑顔を、わたくしは一生忘れることができないでしょう。心に手酷い傷を負ったわたくしは、潜った布団から出ることができず、鍵を掛けた部屋で一人夕食をついばむことになったのです。

 

 そのように、わたくしの心を掴んで握り潰さんばかりのジャンガリアンハムスタアにも、ひとつだけ、欠点があります。

 彼らはヒトのおよそ四十倍もの速さで、命を刻んでゆきます。

 ハムスタアの寿命は二年から長くても三年。

 中学校に入学したばかりのころにお迎えしたこの子――名をハムハムと言います――も、時間が近づきつつあります。

 こうしてハムハムを眺めている今も、過ぎていくたった一秒が彼らにとっては四十秒であり、一分が四十分となり、一日が四十日にもなってしまう。

 残された時間がわずかな今、その一秒はあまりにも速く、ケージに入ったハムハムが、わたくしをおいてどんどん急流を流されてしまい、やがて取り返しがつかない所に行ってしまう――そんな悲しい錯覚にわたくしは陥るのです。


 今日もハムハムは、銀色の柔毛を揺らしながら、大好きな回し車を駆けています。

 ハムスタアは、年老いても弱った姿を見せません。

 正確には、見せることができない、と言った方が良いのでしょう。弱った姿を見せれば敵に食べられてしまう――それがハムスタアの本能には刻まれているからです。

 ゆえにその元気に振る舞う姿が、わたくしの眼に一層悲しく映るのです。


 それでも、回し車は、もう昔のような速さでは回ってくれません。


     ○


「美月ちゃん、ねずみのお話はまだできないの?」

「今回のお話は大作になりそうなのです。一寸かかるかもしれません」

「大作かあ、じゃあ来週までは我慢するね」

 放課後の喫茶ブラックスワンの一席。学生と趣味作家の二足のわらじを履くわたくしをゆみちんの無慈悲な一言が襲いました。無茶な締め切りを設定され、わたくしは思わずのけぞりそうになるのです。

 今までゆみちんに読んでいただいたものは、一週間ほどで書き上げた四千字前後の短編ばかりでした。だから、彼女が「お話はすぐにできるもの」と誤解してしまったのも無理はないのかもしれません。そういう意味では、わたくしの速筆ぶりに責任があるとも言えるのでしょう。

 今回わたくしが書こうとしているねずみのお話。それがハムハムをモチイフとしたものであると、敢えて語るのは無粋なのかもしれません。

 ハムハムと共に過ごしてきた三年を超える愛憎の日々。それは到底、四千字程度で語り尽くせるものではありませんでした。そこでわたくしは思い切って長編に切り替えることにしたのです。この執筆に対するインドゾウの鼻のごとき柔軟性。もはやその手のプロの目に留まる日も近いでしょう。

「なんだ、水無月は小説書くのか?」

 副室長がブラックチョコケーキを頬張りながら言いました。

「小説などという大層なものではありませんよ」

 わたくしは黒糖あげまんじうと胡麻団子の黒蜜掛けのお皿を並べて、大変幸せな気持ちになりました。

「そういえば、水無月くんは分室でもよく書き物をしているな」

 室長は富山ブラックらあめんに黒胡椒を振って、一気にぞぞぞとやりました。

「美月ちゃんの書くお話はとっても面白いんですよ」

 ゆみちんは両手で持った太巻きをがぶりとやっつけました。

 放課後は五月晴れ。わたくしどもは、学校のすぐそばにある喫茶店「ブラックスワン」にて、以前約束していた、室長の奢りを享受しておりました。

 ゆみちんまでがこの場におりますのは、「四月の最優秀選手賞はわたしなのに」と、ミドリフグのように頬をぷくぷく膨らませて不満を訴えたからです。その様子を見かねた優しい副室長は、室長に奢らせることにしました。

ブラックスワンの店内は、涅色、墨色、烏の濡れ羽色と、色とりどりの装飾が施され、秘密教団の隠れ家のようなゴチックな趣きがあります。黒い白鳥のような衣装をはためかせる女性の店員さんも、お店の雰囲気を引き立てます。

「あ、おねーさん。ジョニ黒もちょーだい。水割りで」

「待て、君は俺に何を奢らせるつもりだ」

 ごく自然にアルコールを注文なさる副室長を、室長が慌ててお止めします。

「わーってるって。これは自分で払うよ」

「そういう問題ではない。我々は風紀委員だということを忘れるな」

 副室長は「ちっ」と舌打ちをして、「風紀委員めんどくせえー」と嘆きました。

 ですがわたくしは、風紀委員である前に、まず未成年であることを思い出すべきなのではないかと思うのです。

「……でも良かったのでしょうか。室長と副室長に加えて、わたくしたちまで分室を空けてしまって」

「最近めっきり平和であるからな。たまには構わんだろう」

「元々、少女さえ来なきゃ八人全員で待機してる必要はねえんだよ。これからは当番制でいいんじゃねえか?」

「うむ、考えよう。それにもし何かあれば、俺の携帯に連絡がくることになっているから問題は無い」

 そう言って、室長は鞄の中からテレビのリモコンを取り出しました。そして、何も言わずにそっとしまいます。手品の類でしょうか。

「まあ、ここなら学校はすぐそばだし、心配はいらん」

 ふいにテーブルがぐうぐうと鳴きました。

 見ると、副室長の携帯電話がぐうぐうと振動しています。

「お、末吉からだ」

 末吉さんは分室の先輩ですが、わたくしには斥候さんという名の方が馴染んでいます。

 副室長はその発信者の名前を確認すると、ピッと画面を押して携帯電話を机に置きました。

「出ろよ……」と室長が副室長に突っ込みます。

「末吉がアタシに電話よこすなんて、めんどくせえ予感しかしねえ」

「分室の非常事態かもしれんだろうが……」

「非常事態だったら、アタシよりオマエに電話よこすだろが」

「そ、それもそうだな」と言う室長の顔にはなぜか狼狽が見えます。

 再びテーブルが鳴きました。

「なんだよ。しつけえなあ」

 やまない振動に根負けした副室長が、電話に出て放った第一声は「うるせえ死ねよ」でした。不機嫌そうに相槌をうっていた副室長でしたが、一転「はあ?」と、顔をしかめます。

「どうしたのです?」

 わたくしが訊ねますと、副室長は電話をつないだままこちらを向いて「岬ちゃんがまた出たって言ってる」

「岬ちゃんって、茶色ローファーの少女か!」

 まさか、といった体で室長が確認するのも無理はありません。あの日、施行室で涙ながらに「もう駆けぬけない」と誓った少女が、嘘をついていたとは思えなかったからです。

 副室長は室長を無視して、電話で詳細を確認しているようでした。

「あ、でももう捕まえたんだと。今、施行室に閉じ込めてあるから、施していいかって末吉が訊いてる」

「いま俺が行くから待ってろと伝えてくれ。施してはならん」

「はあ? 捕まえてあるなら、別にオマエが行く必要はねえだろ。末吉に任せとけよ。あいつだってもう三年なんだから、どうすればいいかくらいわかるだろ」

 二年生の副室長がご機嫌斜めに言いました。

「いや、いかんいかん。いかんのだ。これは重要案件だから室長自ら施す必要がある。ともかく、少女に手を触れたら許さんと伝えろ!」

「アタシを中継して話すんじゃねえ! ……末吉! オマエよお、アタシじゃなくて鹿野苑に直接電話しろよ。オマエからの電波、携帯が穢れそうでなんかムカつくんだよ」

 副室長は末吉さんに酷いことを言いました。折角のお茶の時間が邪魔されたからでしょう。副室長が明らかに苛立っているのが伝わり、わたくしはその迫力に怯えます。

「末吉が、オマエの携帯がつながらねえって言ってんぞ!」

「む。すまんが俺はすぐに行かねばならん! 君たちはゆっくりしていってくれ」

 室長は五千円を一枚びたんとテーブルに叩きつけて、「釣りは後でいい」と、逃げるように店を出て行きました。

「ふざけんなよ!」

 副室長も、五千円札を千円札三枚に置き換えてから、室長の後を追いかけて行きます。

 問。たかしくんはお母さんから預かった五千円札で三千円の食事をしました。さて残りはどうする気でしょうか。

「せっかくのお食事だったのにい……」

寂しそうに席を立つゆみちん。

 ですが、彼女にとって本当に大事だったのは、単に太巻きを食べることではなかったのでしょう。だから彼女も室長を追いかけて行ってしまいました。

 あっという間に一人取り残され、途方に暮れるわたくし。

 やむを得えず後を追おうとして、残った胡麻団子を口いっぱいに含むと、わたくしの頬はどんぐりを欲張ったシマリスのようになりました。


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