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放課後、分室で作戦を確認したわたくしどもは、早速渡り廊下に厳戒態勢を敷きました。
遊撃班のお二人が、渡り廊下両端の柱の陰に待機しているのが見えます。ここからは確認できませんが、渡り廊下の北側には、張込み班のお二人も東西に分かれて潜んでいるはずです。
とかく、少女はどこからやってくるかわかりません。
北側の壁の陰から、南側の校庭から、さもなくば校舎から飛び出してくる可能性もあります。
一つだけ確実なのは、校長が阿呆な放送を流してしまったせいで、落とし穴がある場所から進入してくる可能性は無いということです。ですが、穴にも一人待機する必要があると頑なに譲らなかった室員が一人いたため、ひっそりと穴を見守る桃色ゆるふわニットが校舎の陰に佇んでいます。
「――渡り廊下に出てくるのは間違いねえんだから、泳がせた方がいいんじゃねえの?」
捕獲作戦の肝は、副室長が提案したそれでした。
少女が渡り廊下に出てきた時点で、遊撃班が東西から挟み込んでしまえば、少女は南の校庭に逃げるしかありません。そこを校庭の植え込みに潜んでいた室長がさらに挟み撃ちにして捕まえる、というのが作戦です。発見次第各個で追いかけるよりも、その挟み撃ちの方が、確かに効率よく捕獲できるように思われました。
そして今、なぜわたくしが小桜文の刺しゅう入りの運動着に着替えを済ませたうえ、校庭の隅にある部室棟の陰に隠れ、アリジゴクの巣でもがくクロヤマアリの観察に励んでいるのかと申しますと、我々プチプディング班も室長の支援に回されてしまったからでした。
少女がこちらの裏をかいて分室を襲撃するかもしれない――わたくしと副室長はその可能性を説き、分室待機の必要性を訴えたのですが、なぜかご理解いただくことはできませんでした。
「ったく、めんどくせえことになったなぁ」
隣にいる副室長が眠そうにあくびをして、「食う?」と黒いガムをわたくしに差し出しました。眠気すっきりの一品です。ですがわたくしは苦いお菓子が不得手でしたので、お礼を言って丁重にご遠慮いたしました。
「なんだ美月、緊張してんのか?」
副室長がわたくしを見てにやりとしました。
少女は、約二〇〇メートルある渡り廊下を、たった三十秒ほどで駆けぬけると聞いております。体育の成績が壱以上、弐未満の間で著しく上下するわたくしに、そんな剛の者を捕らえられる自信はありません。気持ちが張り詰めているのは、恥ずかしながら事実でした。
「そんなに固まるこたあねえよ。逃げられたところで、校長の寿命が縮むだけだ」
むしろ喜ばしいことだな、と、副室長はけらけらと笑いました。
身に沁みる副室長のお気遣い。わたくしの緊張を解そうと、わざとおどけて見せてくれているのでしょう。ですが一方で、副室長の右手に握られている竹刀、それがわたくしの緊張をいたずらに煽るのです。
渡り廊下を走るという行為は、落とし穴に落とされ、竹刀でど突かれなければならないほどの悪行なのでしょうか。
わたくしに少しだけ湧き起こる同情の念。
少女、逃げて。
――その刹那でした。
予兆もなく体育館から踊り出たのは青色の影。群青の彼女が渡り廊下を駆けるさまは、まるで迷いなき一頭の牝馬のよう。それは一足早い青嵐との邂逅に思われました。
「出た!」
副室長の声で、我に返るわたくし。
体育館側の柱に潜んでいた遊撃さんが、慌てて赤い旗を振ります。それは少女発見の合図でした。
「あのバカ、旗振ってる暇あんなら追いかけろって! 行くぞ美月!」
植え込みから飛び出した副室長に、わたくしも続きます。
少女が体育館からやって来たのは想定外でした。
体育館に向かわずして、体育館から来ることはあり得ない――そんな先入観があったわたくしどもには、体育館が少女のスタート地点になり得るという発想がなかったのです。
少女が体育館へ向かって渡り廊下を通った様子はありませんでしたから、どこからか体育館に回り込んだのでしょう。ですがわざわざそうまでして、渡り廊下を駆けぬける意味はいったいどこにあらん? 目的地までの最短距離をゆるりと歩むことを至上とするわたくしには、とても理解ができません。
しかしながら、幸いにもわたくしどもの作戦に大きな動揺はなく、動きに惑いが表れたのはむしろ少女の方でした。
旗を振りながら近づく遊撃さんを真正面に認めて、少女の走りが大きく動揺しました。昨日までとは様子が違うことに気がついたのでしょう。顧みた後方にも旗を振る遊撃さんがいます。
すると少女は迷うことなく、渡り廊下を逸脱しました。
――いえ、一瞬だけ自分が上履きであることに躊躇いましたが、さすがにそれどころではないと考えたのでしょう。予想通り校庭に向かって駆け出したのです。
五十メートルほど西側にいる室長と目配せしながら、わたくしたちは作戦通り、少女を追い込むように距離を詰めていきます。少女は、私服の高校にもかかわらず学生服を着用している室長を本能的に「怪しい」と感じたのか、走りがあからさまにこちらに偏倚しました。
「き、来ましたよ副室長」
「馬鹿、びびってんじゃねえよ……」
副室長の声が珍しく動揺しています。それほど少女の走りは力強さに満ちておりました。確固たる意志を持った瞳が、闘いの前兆を漂わせながら闇雲に突進してくるのです。初めて真正面から向き合った少女は、とても美しいお顔をしておりました。
「や、やんのかこるあああ!」
副室長が巻き舌で少女を威嚇します。手にした竹刀で地面をばちこんと叩きます。こちらを敵と認識した少女の足が止まりました。
「が、がおー!」
わたくしも負けてはおれません。わたくしはとっておきのミナミコアリクイの威嚇を披露いたしました。両手を上げて仁王立ちしてみたものの、どこか困惑顔で首を振るミナミコアリクイの威嚇姿勢はとても愛らしいのです。そして威嚇が通用しないと知ると、ずるずると後退していくだけなのです。
一瞬、少女の顔が奇怪な生物にでも遭遇したかのように歪むと、彼女は踵を返して脱兎のごとく逃げていきました。威嚇成功といったところでしょう。そちらに引き返したところで、校舎側の遊撃さんが待ち構えてるのです。
「よし、囲むぞ!」離れた所から室長の号令がかかりました。
しかし、少女に臆する様子はありません。まるで自ら捕まりに行くかのように遊撃さんの方――校舎に向かってまっしぐらに駆けて行きました。その光景は、一頭の牛がマタドオルに闘いを挑むようでもあります。混乱した遊撃さんは、赤い旗をむやみやたらに振り回しておりました。
訪れる、衝突。
刹那、少女の体勢が大きく崩れました。
――転んだ。
と、思った少女は、遊撃さんの旗をくぐるようにして、小脇をするりと抜けて行きました。
やられたと、分室の誰もが思ったことでしょう。彼女の逃走を妨げるものは、もはや何もありません。あとは校舎に逃げ込み、任務完了とばかりに姿を眩ますだけです。
――え?
あ、そちらに行かれては……。
渡り廊下北側の壁と校舎のつなぎ目にある五十センチほどの隙間。駆けつけたわたくしどもがそこで目にしたのは、ゆみちんの会心の笑みでした。
眼下には、わたくしとゆみちんが本日掘り進めて、一メートルほどの深さになった穴があります。そしてそこには、もんどりうった少女が、同性として少々同情してしまうような恰好ですっぽり嵌っておりました。




