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○
放課後。
わたくしが今こうして職員室に呼び出され、カツラ先生に怒られているのは、五時限目の休み時間に、ただ近道をしようとしただけのどこぞの高橋くんが穴で転んで怪我をしたからであり、何者かが「昼休みに着物の子が穴を掘っていた」と目撃情報を提供したからであり、風紀委員の顧問たるカツラ先生が何かを察したからでした。
激怒するカツラ先生は、ハゲワシのような鋭い目をしていました。
わたくしは、穴の中にトラバサミがなかったことを高橋くんに感謝されてもいいくらいの存在であるにもかかわらず、なぜかひとり叱咤に耐えているこの理不尽。もちろんわたくしに全く責任がないとは申しません。ですが、落とし穴を提唱したのはあくまでゆみちんです。わたくしはただの善意の協力者にすぎないのにこの仕打ちはあんまりです。
(これはわたくしではなくゆみちんが――)
その言葉が口を衝かんとしたときでした。
「まあまあ、カツ……きみ、そんなに目くじらを立てることはないではないかね」
ハゲウアカリのような真っ赤な顔で怒るカツラ先生を制止したのは、意外にも校長先生でした。
「水無月くんとか言ったかね。渡り廊下を守ろうとして落とし穴を堀ったのだろう。なかなか頼もしいことではないかね」
――わたくしが掘った、というのもあながち間違いではないのかもしれません。
ゆみちんの穴掘りを止められなかった自分にこそ、むしろ穴に対する責任があると思われたからです。わたくしはそう謙虚に受け止めると、禅の世界で重じられるところの沈黙を貫くことにしました。
「今回のことは気にせんでよろしいからどんどんやりなさい。生徒たちには、ぼくの方から注意するよう促そう」
校長の言葉によって、カツラ先生は唐突にハゲカジカのような優しい目に変わり、わたくしはあっさり解放されました。
南棟三階の分室に急がなければなりません。今日は放課後に大事な作戦会議があったのです。わたくしは慌てて、動物の中で最も足の速いチーターに思いを馳せながら階段を歩みました。
分室に足を向けるたび、常々襲われるもどかしさがあります。
――渡り廊下を取り締まるのなら、分室は渡り廊下のそばの一階にあるべきでは?
わたくしはそう疑問に思い、室長に訊ねたことがありました。
『分室を一階にしていただくことはできないのでしょうか?』
『うむ。打診したことはあるのだがな、一階は音楽室だから駄目だと言われた。放課後は吹奏楽部が使用するのだ』
吹奏楽部は毎年県大会で金賞ですから、わたくしどもも諦めるしかありませんでした。他のどこの高校とも実力が競えない超ガラパゴス式の渡り廊下対策室とは、実績が違います。ガラパゴスゾウガメは百五十歳まで生きると言います。
ともあれ空いている部屋がない中で、南棟三階の一番端っこ――渡り廊下が見渡せる場所に、部屋を確保できただけでも幸いなのでしょう。けれどわたくしにとって大切なのは、北棟一階の一年一組の教室から、上る階段数がどれだけ少なくて済むかということだけなのです。違う。階段数が少なければ非常事態時に素早く駆けつけられる、それが重要なことなのです。
分室が近づいてきたので、わたくしはにわかに駆けだして足音高く分室の扉を開きました。一斉に集まる「遅い」という批判めいた視線。わたくしが息を切らせて、急いで来た風をみせているのにあんまりです。
一般教室の半分ほどの広さの部屋に、机がコの字型に並べられ、わたくし以外の七人がすでに顔を揃えておりました。分室員が会議の体勢を整える迅速さは、わたくしが常に感心するところ。そこには、皆を突き動かす「早く帰りたい」という原動力があります。
「美月ちゃんおそーい」
視線だけでは飽き足らなかったのか、わたくしが一番聞きたくなかった人から、その言葉を頂戴いたしました。ですがわたくしももう立派な十六歳児。かようなことで憤怒の感情を露わにしては、淑女として失格でありましょう。
わたくしは謙虚に「遅れてすみません」と、自分の場所にそそくさと腰を下ろしました。
「よし、全員揃ったから会議を始める。今日から駆けぬける少女対策を本格的に実施するぞ!」
「しつちょー。そう思ってわたし、もう穴を掘りました」
室長の会議開始の声に、間髪入れず言うゆみちん。一刻も早く手柄を主張したい――そんな思いが感じられました。
「穴とは?」
「少女を捕まえるための落とし穴を掘りました。もう掘りました」
誇らしげに言うゆみちんに、室長も感心のご様子。この分室で、室長のやる気に唯一答えるゆみちんは、室長の顔をほころばせるただ一人の存在です。そんな室長を見て、ゆみちんも嬉しそうにします。
しかしわたくしも、ここで一石を投じずにはおれません。
「待ってゆみちん。それについてはさっきわたくしが怒られたのです」
「え、わたしは怒られてないけど?」
「うん、そうだね」
わたくしは、高橋が落ちてわたくしが怒られたことを、かいつまんで室長に説明しました。
「校長は気にするなと言いましたが、やはり危険だと思うのです」
「そうだな。罪のない一般生徒を巻き込むわけにはいかない」
室長の言葉に、ゆみちんは肩を落とします。しかし、ゆみちんも簡単に諦める子でないのはご存じの通り。
「じゃあ看板を立てればいいですよね。ここには穴があるから気をつけてくださいって」
もはや本来の目的を見失なった感があるゆみちん。
「じゃあ、穴の方はゆみくんに全てを任せるね」と、優しく微笑みかける室長には、諦念の色が浮かんでおりました。「がんばります!」と、ゆみちんは目を輝かせます。
「おおーい、みんな起きてくれー。今日は真面目にやるぞう」
辺りを見ると、皆さんはいつの間にか机に突っ伏しておられました。皆さんは、会議を早く終わらせるためにはどうすれば良いかを抜群に心得られております。それは議論をしないことです。
ぱんぱんと手を叩いて皆を起こそうとする室長ですが、顔を上げた副室長にひと睨みされると、その手は止まりました。黒のジャケットとスラックスに身を包んだ二城野副室長の眼光は、クロヒョウのごとき鋭さを湛えています。
ですが今日は室長も引き下がりません。
「二城野くん、今日は寝ないで聞いてくれ。寝るのは少女を捕らえてからだ。校長がもはや我慢の限界なのだ」
「校長なんてほっとけばいいだろ。ブログが炎上して死ねばいいんだあの能無しちんこ頭」
校長のブログのコメント欄は常に炎上しています。この学校の生徒の仕業でしょう。
「確かにブログもちんこも渡り廊下もどうでもいいのだが、風紀委員会が信用を失うのは避けたい。掃除部委員長は俺たちを信頼して対策室を任せてくれたのだ。委員長にだけは迷惑をかけるわけにいかん」
「あんなのに義理立てする必要ねえのによ……」
ちっ、と舌打ちをする副室長。「おら、オマエら何寝てんだよ。ふざけんじゃねえ!」と、周りを理不尽に一喝すると、危機を察したミーアキャットもかくあらん、みなさんの背筋はぴんと真っ直ぐに伸びました。
「よし。ではまず、プロファイリング班にこれをやってもらう」
室長がばしんと机に叩きつけたのは、写真の束でした。
「今年度の記念集合写真を全クラス分借りてきた。そしてここから――」室長は懐から生徒手帳を取り出して、さらにそこから「――少女を探してもらう」と、駆けぬける少女の写真を取り出しました。
何故あんなところから少女の写真が出てきたのか――そんな疑問は残りますが、当面行わなくてはならない作業はまずそれでしょう。それさえわかってしまえば、逮捕状を持つ警察のごとく少女の教室に押しかけてはしょっぴいて、施行室にて色々と施したのち、校長に差し出して終わりです。張り込む必要も、追いかける必要も、トラバサミも必要ありません。
しかし、三学年合計三十クラス分の集合写真の一人一人を、少女と照合していかなければならないのですからこれは大変な作業が予想されます。一クラス約三十人として、約九百人分の顔合わせ。プロフィッシング班の苦労を慮らずにはおれません。
「では、プロファイリング班は早速作業に入ってくれ」
室長が写真ひと揃いを中空に向かって差し出しましたが、取りに来る人がいません。
「だから学校にプロファイリング班なんていねえって言ってんだろ。この脳内ISDN回線が」
副室長の突っ込みに、室長はこほんと咳払い。
「では、二城野くんと……そうだな、水無月くんの二人を今日からプロファイリング班に任命する! あ、いえ、任命します」
「はあ!?」と、副室長が不満そうな声を上げましたので、わたくしも「なんと!」と、上げました。いつもわたくしばかりです。
しかし、このエリート揃いの分室でも『東の二城野、西の水無月』と、わたくしが考える二人でありますから、この作業が勤まるのはわたくしたちだけ、と室長が考えたのも無理がないのやもしれません。
持ちし者に課される義務。それはつまり、持たぬ者を導く責任。
副室長も同じ心持ちだったのでしょう。しゃーねえなと、意外とあっさりと引き受けたかと思うと――「あとでアタシと美月に、ブラックスワンのブラックチョコケーキおごれな」
わたくしたちは会議から離れ、部屋の隅の机で早速照合作業を始めました。
わたくしが一年一組から順に、副室長が三年十組から逆順に照合を進めていく段取りです。
「こんなもん、パソコンに写真取り込むとかして、なんとかなんねぇのかよ……」
愚痴る副室長に感心するわたくし。パソコンという電化製品を使う発想は、副室長ならではのものでしょう。副室長は携帯電話でさえ説明書を見ずとも見事に使いこなします。
「ああ、めんどくせー。美月、鹿野苑にブラックコーヒーも付けてもらおうな」
「まったくです。わたくしは珈琲は不得手ですので、コオラにしてもらいます」
わたくしたちはくすくすと笑いながら仲良く作業を進めます。室長には厳しい副室長ですが、わたくしには姉のように優しいので、きっと室長が悪いのでしょう。
遠くで聞こえる会議の声。わたくしは、一足先に作戦会議を抜け出せた優越感のようなものを感じながら黙々と作業を進めました。
照合の仕方には工夫が必要でした。
といいますのは、駆けぬける少女の写真は横顔しか写っておりませんので、顔だけで識別をするのはいささか不安があるのです。
そこでわたくしが注目しましたのは髪型でした。少女の髪型はショートカットです。少女の写真も、記念集合写真も撮られたのは最近。短期間に髪を短くするのは可能でも、長くするのはカツラ先生でもない限り不可能でしょう。つまり、写真の少女と髪の長さが同じか、より短い人物だけを記念写真から抽出して、顔を照合していけば良いことになります。
出来る女――そんな言葉が世の中に存在することを、わたくしは思い起こさずにおれません。わたくしにより多くの照合作業をこなされてしまった副室長は、さすがであるなと、わたくしを称賛せざる得ないでしょう。しかし、わたくしの目的は決して称賛にはないことを、ここで断じておかなければなりません。副室長の負担を減らせれば良い――わたくしにある思いはそれだけなのです。
ふと、副室長の方を見ると、照合の終わった集合写真の山が出来ておりました。ぱっと見でも、わたくしの倍近くの照合を終えているように見えて、わたくしは愕然とします。
さすが東の副室長。わたくしと同じやり方には、とっくに気がついていたのでしょう。
しかし、いかにわたくしが認める副室長とはいえ、これほどに能力の差があると信じたくはありません。いや、これは副室長しか知らないコツが何かあるに違いない。そういう技術は、組織として、ともに作業に当たるチームとして、共有すべきだとわたくしは思うのですが……。
「副室長は作業がお早いです。何組まで進んだのですか?」
「んー。三年が終わって、今二年に入るとこ。十クラス分終わったことになるな」
一クラス約三十人ですから、三十人×十クラスで……
「もう三百人も照合を終えたのですか」
わたくしはまだ一年六組ですから、やはり倍近くの差があります。同じ人間、脳の処理速度にこれほどの差がつくはずがありません。となりますと、「適当にやっているのでは?」という疑問が意図せずわたくしの頭をもたげてしまうのも、やむを得ないことでありましょう。人様を疑うのはわたくしが忌み嫌うところではあります。しかし、組織として、チームとして、やはり正すべきところは、正さねばなりません。
どのような言葉で更生させるべきか。わたくしがその選択に難儀していますと、副室長はちょっと首を傾げて言いました。
「三百人ってか、実質百五十人くらいだな」
やはりです。半分も手を抜いていることを、副室長は悪びれもせず自白しました。
「さすがに男子は照合しないだろー」
副室長はけたけたと、さも当たり前のように、わたくしに同意を求めるように、笑ってみせました。わたくしも「当然ですよ」と言って、追従笑いをしてみせました。
それ以後、わたくしの照合の速さが、突然自分と同程度になったことを副室長は怪訝そうにしましたが、わたくしがここで改めて感じたのは、やはり副室長の能力の高さでありました。思考の視野の広さ、着想の多様性と言っても良いでしょう。
「副室長は、どうして自ら対策室に立候補なさったのですか?」
わたくしは照合作業の手と目を動かしながら、ずっと秘めていた疑問を訊ねました。
この渡り廊下対策室は、風紀委員会内で行われた渡り廊下対策室員選出会議にて、推薦された面々で構成されています。渡り廊下対策は、ご存じのように校長の存在が大きく絡んできますので、風紀委員会の中でもとりわけ面倒な仕事です。ともなれば、当然皆が避けるところでありますし、相応の能力に依って推薦されるのもやむを得ません。
しかし、立候補の手を高々と掲げ、一人だけ自ら首を突っ込まれたのが二城野副室長でした。普段の姿を見る限り、立候補に崇高な意志があったとも思えないのです。
「アタシは……ただの打算だよ」
副室長は少し困ったような顔をすると、言葉を捻り出しました。
「打算、ですか?」
三割で三十本を超えると凄いのだと、父に聞いたことがあります。
「そ。渡り廊下対策室で校長に媚売っときゃ、大学の推薦とか色々良いだろ」
その清々しいまでに直線的な理由を軽蔑するのは簡単なことでしょう。ですがわたくしなどは、軽蔑されるのも厭わないその正直な物言いに、かえって好感を持つのです。世の中には、黒い一物を腹に隠して、胡散臭い白で着飾る人間がなんと多いことでしょうか。
「見損なったかい?」
珍しくはにかんだ表情を見せる副室長。わたくしは「いえ」と答え、副室長のコップに特保のコオラを注ぎました。
作戦会議の方も佳境に入ったようで、次々と役割が決まっていきました。
黒板を見れば、総指揮、張込み班、遊撃班、穴、と、それぞれの役割の下に名前が連なっています。一人だけの場合は班とは呼ばないようです。でもあの書き方だと、ゆみちんがまるで組織の弱点でもあるかのように見えてしまいます。
「プロファイリングの方はどうだ」
ふいに、室長がわたくしたちに言葉を投げました。
「終わってはいるんだけどよ……」
副室長の声は晴れません。わたくしどもは作業が終了したにもかかわらず、喜ぶこともできずに、右に左に忙しなく首を傾げていたのです。
「いねえんだよ、この女。どのクラスの集合写真にも」
「そんな馬鹿な。見落としたんじゃないか?」
室長のその言葉に、先にかっとなったのはわたくしの方でした。
「いえ、一度目の照合が終わったあと、お互いの分を交換して再照合したのです。二人とも揃って見落としている可能性はとても低いです」
対策室の西と東が見たのです。見落としているはずがありません。
「一体、どういうことなのだ……」
「もしかしたら、卒業生のかたとかでしょうか。なにかお礼参り的な……」
「雰囲気が卒業生って感じじゃねえだろ。むしろ中学生っぽい感じの幼さだ」
「ではやはり一年生ではないのか?」
「だから一年にもいなかったって言ってんだろ」
「部外者の可能性はどうだ?」
「部外者がどうしてわざわざ渡り廊下を走るんだよ」
お二人は首を捻って困ってしまいましたので、わたくしも捻ってしました。プロフィーリングは早くも暗礁に乗り上げてしまったようです。
まあいい、と室長。
「やはり走っているところを現行犯で捕まえるしかないようだ。照合ごくろうだった。二人は遊撃班の方に合流してくれ」
「いや。まだプロファイリングは終わってない。アタシらは動機の方から探ってみる」
「そのとおりです。考えられる動機を全て洗い出して、犯人像を追求するのです」
わたくしたちにもプロプディング班の矜持というものがあります。
遊撃班の役割とは、少女を発見次第追いかけることでありましょう。珍しくやる気を見せる副室長には「走るのなんて御免だ」という不純な動機があると、わたくしにはなぜかわかってしまうのです。
荷馬車に揺られる仔牛のような素直さで、室長がわたくしたちのやる気に感心しておりますと、ふいにノックの音が部屋に響きました。こちらの返事を待たずに、半開きのドアからひょいと顔を覗かせたのは、清掃部委員長さんです。
わたくしに嫌な予感がびりりと走ったのは、その光景にどこか既視感を覚えたからでした。
「あのさ。今、少女が渡り廊下を走って行ったんだけど……」
案の定です。
「やられたあああああああ」と、髪を掻きむしる室長「斥候はなんで知らせん!」
「だって……そこで会議に参加されていらっしゃいます」
わたくしが指しますと、斥候さんはとても理不尽そうに寝たふりをなさいました。
机に突っ伏したままの斥候さんを、一方的に叱責する室長。そんな光景を見てわたくしが思うのは、この対策室はまず指揮官の力量が疑われるべきなのでは、ということでした。




