35
○
お庭の隅の松の木の下。
場所はここしかないと、以前から考えておりました。
周囲では庭木の躑躅や檜葉が適度に陰を作っていますし、しろつめ草やオオバコなどの雑草も豊富に茂っています。隠れ家や食べ物には困らない最適な環境に思われました。
普段、誰にも顧みられないお庭の隅っこには、それらしい陰気さと静寂がありました。
夕立で湿った地面にシャベルを突き立てると、ざくりと生々しい音が響きます。濡れた土は柔らかく、十センチほどの穴を掘るのは容易でした。
――どうしてこんなときに限って手際が良いのでしょう。
わたくしは傍らの硯箱を手元に引き寄せます。
先ほど化学室の冷蔵庫から持ち帰ったばかりの硯箱は、いまだ不気味なほど冷たさを保っていました。中の陰鬱な空気が手を通して伝わってくる感じさえします。
――箱を開けられなくなってから、すでに二週間ほどが経過していました。
開けられなくなった、というのは物理的な問題ではありません。
冷蔵庫に放置された野菜は、二週間もあれば見るに堪えない姿に変化します。乾燥して変色し、やがて腐敗します。あの可愛らしかった姿が、二週間のうちに遠い過去のものになっている――その可能性は想像もしたくないことで、わたくしの手は自然と箱から遠ざかっていました。
ですが、わたくしが今ここにいるのは、現実を見つめるためです。
顔を背けてはいけない。自分にそう言い聞かせて、わたくしは恐る恐る硯箱の蓋を開けました。
――途端、もうもうと真っ白な煙が箱から溢れ出しました。
玉手箱のごとく止めどなく溢れる煙。状況が飲み込めないわたくしは、これはもしかしたら魔法の煙ではないかと、おとぎばなしのような希望を持ちました。
『煙が消えると現れたのはなんと、元気な姿の――』
化学室では不思議な現象がたくさん起こります。コオラやニトロセルロースさえ生み出してしまうような場所ならば、どんな神秘が起きてもおかしくないように思えたのです。
わたくしは箱の中に留まる煙を夢中で払いました。箱を開ける前のためらいは、どこかに消えていました。
――箱の中のハムハムは、愛らしい曲線を描いておりました。
頭を撫でてみても、お尻をつついてみても、煙が消えてみても、箱に寝かせたときの丸まった姿勢のまま、悲しいまでに変わりません。
――わかってはおりました。
わたくしは、自分の望む結果がありえないと知りつつ、現実から逃避したくて縋っていただけなのです。唯一救いだったのは、ハムハムがいまだに生前と変わらない瑞々しい姿を保っていたことでした。
つと、目に留まったのは、箱の隅に添えられた一枚の走り書き――
『仮にも薬品保管用の冷蔵庫に入れるものは、中身を確認しない訳にいかなくてな。少々驚いたが、君にとっては大事なのだろうと判断した。勝手なことをしてすまない』
鉄地川原先生の字でした。
ハムハムが今も瑞々しい姿を保っているのは、鉄地川原先生の魔法――ドライアイスのおかげでした。
可愛らしい姿のまま幸せそうに眠り続けるハムハム。
もう以前のように、寝ぼけてぴくぴくと体を震わせることもありません。楽しい夢をこれからはずっと見続けるのでしょう。願わくばその楽しい夢の中に、わたくしの姿がありますように――
わたくしはハムハムを両手で包み込み、そっと、すくい上げました。わたくしに抱き上げられるときはいつも従順で、絆さえ感じさせたハムハムでしたが、今の従順さはわたくしをただ悲しくさせるだけでした。
いつもわたくしの手の中で、安心して眠っていたハムハム。
手の中のハムハムに、生前の姿がつい重なります。
――出会いはホームセンターでした。
小さな虫かごの中で売られていました。好奇心旺盛な子どもたちの標的になっているのを見かけて、飼い方もろくにわからないまま、勢いでお迎えしてしまったことが思い出されます。そのせいか、お迎えしたばかりのころは可哀想なくらい人影に敏感だったこと。初めてあげた餌のきゅうりを、はむはむとゆっくり味わうよう食べたこと。『よし、あなたの名前はハムハムなのです』。少しずつ、少しずつ、手から直接餌を食べてくれるようになったこと。狭いケージはかわいそうだとお部屋に放したら、御手洗いに離れた隙にいなくなって慌てたこと。見つからなくて途方に暮れたこと。窓がわずかに開いていたこと。外の猫や烏の姿に胸が騒いだこと。後悔で夜眠れなかったこと。丑三つ時の静かな部屋で、本棚の裏からかりかりと微かな音が聞こえて跳ね起きたこと。懐中電灯の細い光の中で、意地らしく畳を掘っている姿を見つけたときの嬉しさ。埃まみれのハムハムを取り上げて、もう絶対に離さないと思ったこと。埃が鼻に入ってくしゃみをしたこと。だだっ広い空間はハムスタアにとって恐怖でしかないと知ったこと。自分の無知を呪ったこと。同じ轍は踏むまいと情報を集めるうちに、機械音痴のわたくしがインターネットを覚えていったこと。狭いケージの中ではせめて好きにさせてあげたいと、三千円もする高級回し車をお年玉で買ったこと。回し車を夢中で駆けるハムハムを見るにつけ、三千円は安かったと震えたこと。林檎が大好きだったこと。穴を掘るのも大好きだったこと。床材を穴だらけにし終えると、いつも得意げな顔でわたくしを見ていたこと。疲れると、わたくしの手の上で安心して眠ってしまうちいさな姿。そのあまりの愛くるしさに、じゃんがりあああんと叫ばずにいられなかったこと――
とめどなく溢れる想い出の数だけ、雫が頬を伝いました。
ハムハムがくれたあたたかい想い出の数々。
流れ落ちた感謝の雫は、ハムハムの躰にじんわり沁み込んでいきました。
最後の想い出は、渡り廊下の鬼天竺鼠でした。体中を火だるまにして、危機に陥ったわたくしの周りをぐるぐる飛び回り、燃え尽きたカピバラ。
そしてその日、学校から帰ると、ケージの中で動かなくなっていたハムスタア。
憑依などという言葉を安易に持ち出すのは、非科学的なのかもしれません。
ですが鬼天竺鼠も絹毛鼠も同じ鼠です。
あのとき、ハムハムが鬼天竺鼠の姿を借りて、最期のお別れをしに来てくれたのだと、ただわたくしのみが信じるくらいは許していただきたいのです。
わたくしはハムハムを穴の中にそっと寝かせると、季節外れの林檎と一緒に土を被せました。
――これで本当にお別れです。
墓標代わりの回し車を指で弾くと、からからとむなしく回りました。
わたくしがハムスタアを飼うことは、もう二度とないのでしょう。




