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渡り廊下の作業を手伝う生徒は、日に日に増えていきました。
渡廊連や加賀津さんたちのみならず、今や一般の生徒まで入り乱れて作業をしております。
「……あ! あの着物の子、水無月さんだ」
あの決戦の土曜日以来、わたくしはそんな囁きを耳にする機会が多くなりました。見知らぬかたに話しかけられたりさえもします。無駄に注目を集め、ひそひそと後ろ指をさされるのには慣れていた藍地小桜文の身ですが、どうもこれまでとは一風様子が違うようでした。
『渡り廊下を一人で守ろうとする、貴女の勇敢な姿を好もしく思いました』
下駄箱に投函されていたお手紙には、おおよそそのような趣旨が記載してありました。
何やら一夜にして人気者になってしまったわたくしです。
ファンレター程度のお手紙をいただくのは満更でもありませんが、体育館の裏や屋上に呼び出されると困ってしまいます。
『貴方の御相手にわたくしなどは相応しくありません』
わたくしのあまりの豪傑ぶりが、彼らの心を刺激してしまったのだと思われました。体育館裏や屋上への呼び出しと言うからにはきっと、「この学校で一番強いのは誰かはっきりさせよう」的なことに違いないからです。ですがいくら勇猛とはいえわたくしは所詮女の身、殿方と積極的に竹槍を交えるつもりなどはないのです。そういうことにしておきましょう。
なお、人気者になったのは、わたくしばかりではありませんでした。
あの日、衆人環視の中心で、果敢に戦った渡り廊下対策室の面々に、まんべんなく好意の目は向けられました。かといって敵軍であった渡廊連の皆さんが、蔑まれているわけではありません。それは健闘を演じた両者に、分け隔てなく与えられる祝福です。今、渡り廊下に手伝いに来てくれている生徒は、わたくしどもにそういった敬意を持ってくれている方々でした。
一方、その光景に、校舎の陰で唇を噛む人もおります。
いつの間にか手伝いに加わり、勝手に持ち前の指導力を発揮しようとしていたその人は、すぐに副室長の罵声を浴びることになりました。
「オマエだけは手伝わせねえ」
副室長は蔑むようにして、清掃部委員長の顎に竹刀を突きつけました。
「オマエのことだから、どうせここで人気集めでもしようと嗅ぎつけたんだろ。議員みてえなやつだな」
「そんなやましい気持ちはないよ。ただ風紀委員長として僕に何かできることはないかと考えていたら、いつの間にかここにい……てててててて」
聖人のような調子で語っていた清掃部委員長の口が、ぐぐぐと曲がっていきました。
副室長がしみじみと力を入れた竹刀が、ゆっくりと顎を突き上げていったからです。
「オマエは分室がピンチに陥ったとき、本室を率いて颯爽と助けに来ることで人気を集めるべきだったんだよ。六日菖蒲が政治家として致命的なことくらいオマエならわかってんだろ。……帰れよ」
菖蒲は五月五日にお風呂に入れないと意味がありません。夏の火鉢。冬の扇子。分室員が皆、批判の眼差しを向けて頷くと、清掃部委員長は生徒たちの視線が集まる中を、すごすごと去っていきました。
もしかしたら、清掃部さんというかたの人気を、少しだけ考え直してみる人もいるのかもしれません。ですが、それでも大変人気のあるかたですから、清掃部さんの次期生徒会会長の座にさしたる影響はないのでしょう。ただ確実に言えるのは、清掃部委員長はわたくしの一票を失ったということでした。
――いえ、二票かもしれません。
ふと見ると、清掃部委員長の背を悲しげな目で見つめる室長の姿がありました。
――さて。まもなく休憩時間です。
わたくしは鉄地川原先生差し入れのコオラを、皆さんに振る舞う準備を始めました。冷蔵庫から出したコオラのボトルを渡り廊下の片隅に置き、もみじまんじうを菓子器にのせ、紙コップに氷を入れて並べていきます。
六月放課後の蒸した空気は、みなさんの額に汗を走らせておりました。結露にしっとり濡れたコオラも一際輝いて見えます。冷えたコオラは喉に良く染みることでしょう。
「みなさーん、休憩の準備ができましたよう!」
わらわらと集まってくる皆さん。わたくしは細心の注意を払い、コオラを注いでいきます。氷とコオラを接触させるときは注意が必要です。コップの肌を滑らせるように注がないと、コオラが泡ばかりになってしまうからです。
「美月ちゃんのいれるコオラは最高!」
「水無月さんがいれたコオラはひと味違う気がする」
雨あられと浴びせられる喝采。ちょっとした骨折りが報われ、有頂天になるわたくしです。今なら天下も取れそうな気がしました。
ところが、不満そうにしているかたを一人、わたくしは目ざとく見つけてしまいました。コオラのコップをじっと見つめるだけで、まるで口にする気配がありません。
「コオラに何か粗相でもありましたか?」
わたくしが注いだコオラに誤りがあるなど一寸考えづらいことです。ですが、どんないちゃもんがあるのか謙虚に伺うことにより、後学となることもあるでしょう。
そのかた――田中は「いや……」と、少し言い淀んで、
「烏龍茶はないのかな?」
と、苦笑いしました。
わたくしの失策でありましょう。
田中の嗜好を全く考えておりませんでした。
彼が家庭の事情により、コオラを嫌悪していることもです。どらやき職人の息子さんに差しあげる手みやげに、どらやきを持参してしまった――そんな間抜けな事態のように思われました。わたくしの気遣いの足りなさは、非難されてしかるべきでしょう。
「ごめんなさい。烏龍茶は用意しておりませんでした……」
わたくしが頭を下げると、田中は慌てて「いやいや」と手を振りました。
「すまない。ただのわがままだ」
田中は愚かなわたくしを責めることなく、むしろ気遣う言葉さえかけます。
その優しさが、今のわたくしにはかえって辛い。落ち込むわたくしに、困惑する田中。
――刹那、田中は苦い薬でも飲むような顔で、えい、と紙コップを傾けました。
いっぺんで空になったコップを、田中は「んん?」と、不思議そうに眺めます。
「どうされたのです?」
「このコオラはレシピがちょっと違うようだ……」
おお、と思わず感嘆するわたくし。
なんだか美味しいコオラだと、皆さんは薄々と思っていたようでしたが、具体的にレシピの違いを指摘するかたはおりませんでした。
「実はこれ、わたくしがレシピを提供した自作のコオラなのです。レシピの違いに勘づかれるとは、さすがに舌が肥えていらっしゃる」
「へえ。コオラなんてものは、どれも同じ味をしたつまらない飲み物だと思っていた」
コオラを蔑む響きがありました。
わたくしの頭につい血がのぼってしまったのは、コオラを愛するがゆえの忠誠心でした。
「わたくしには烏龍茶の違いも良くわかりませんが……」
自分の発言が、茶の味もわからぬスヰーツ女であることを自白しただけのような気がして、少々滅入ります。そんなわたくしを、田中は「まあ普通の人にはそうだろうな」と、寛容に包み込みました。
「このコオラ、水筒にもらってもいいか? 家に持って帰りたい」
「たくさんありますので。ですが……わざわざ持ち帰らずとも、田中氏のおうちはコオラには困らないのでは?」
「いや、親父に飲ませてみたくてね。面白いコオラがあることを知れば、親父の世界も広がるかもしれない」
「……それは素晴らしいことです」
田中は紙コップにお代わりのコオラを注ぐと、今度は味わうようにちびりと舐めました。
「うん、これはおいしい」
唸る田中を見て、わたくしはなんだか羨ましくなったのです。
もちろんコオラが羨ましかったわけではありません。
「田中氏のおうちでは、もう烏龍茶を作っていないのですか?」
「商品としてはな。家や親戚で飲む分だけは趣味で作ってる」
「……わたくし、今度、田中氏のおうちの烏龍茶が飲んでみたいのです」
一瞬、目を丸くした田中ですが、すぐにその目尻を下げました。
「喜んでご馳走したいね」
わたくしにも烏龍茶の素晴らしい世界が見れるといいな、と思いました。




