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わたくしは、校長となるべく顔が合わない場所に座り、再び床拭きを始めました。
今は校長の表情を見てはいけないような気がしました。というのは言い訳で、わたくしも今は校長に顔を見られたくないのでした。
校長にかけるべきうまい言葉が見つけられない代わりに、わたくしは大理石や檜を磨く手に力を込めました。一筋の汗が背中を伝い、着物の下が蒸れるのを感じます。
ふいに、ぶわっ、と一陣の風が駆けぬけました。
わたくしの火照った体が涼を感じなかったのは、風が多分に熱気を含んでいたせいです。
その風は渡り廊下のそばを駆けぬける少女でした。
唖然と眺めるわたくしと校長。
今後に及んでまだ懲りないのかという呆れもあります。
少女は少し行った所で立ち止まると、振り向いて不思議そうにしました。
――なんで追いかけてこないの?
そんな顔です。
校長の様子をちらりと窺ってみても、特に少女を気にしている風はありません。
少女にお構いなしで作業を続けています。
渡り廊下はもはや、駆けぬける駆けぬけない以前の問題になってしまいました。
それに今の少女は渡り廊下のそばを走っているだけなので、渡り廊下の秩序を乱しているわけでもありません。放っておいても良いと言うことなのでしょう。
無視を決め込むわたくしたちを挑発するように、ずざーずざーと行ったり来たりする少女。相手にされていないとわかると、なにやらへたり込んで、草むしりの真似事を始めました。
床拭きを続けるわたくし。程なくして、額を汗が走るのは自然の摂理でした。気がついたのは、手を休めてはんけちで汗を拭おうと顔を上げた刹那でした。
――少女との距離が妙に近まっている気がします。
その後も、少女は草をむしりながら、だるまさんが転んだのごとき要領で距離を縮めてくる気配がありました。試しに、わたくしは少女の予測到達地点に濡れ雑巾を置いて、バケツの水替えに行くことにしました。すると案の定、戻ったときには、雑巾を手に床を磨く少女の姿がありました。
なにゆえ少女は渡り廊下を磨き始めたのでしょうか。
疑問ではありましたが、そんなことをいま彼女に訊ねるのは、無粋なように思われました。
――新しい雑巾も持って来ればよかった。
自分の雑巾を少女に譲ってしまったわたくしは、雑巾を取りに再び渡り廊下を歩きます。
渡り廊下中心部の焼け跡から、校舎までは一〇〇メートルほど距離があり、バケツの水を替えるにも、雑巾を取りに行くにも、少なくない手間がかかります。往復の回数を減らそうとバケツももう一つ動員し、わたくしは俯き加減でふうふうと歩きます。
と、ふいにバケツを持つ手が軽くなりました。
「――一人で何度も往復していては大変だろう」
振り向くと、そこにいたのは、わたくしの手からバケツを奪う室長です。
――いえ、室長だけではありません。
モップやバケツなど、思い思いの清掃道具を手にした分室の皆さんが微笑んでいます。
「皆さんどうして――」
「分室の窓から様子を窺ったら、きみが掃除をしていたのが見えたのでね。渡り廊下対策室長として、きみだけに任せておくわけにはいかないだろう」
室長は少女の方を食い入るように見ながら、わたくしに言いました。
室長の目は、長年追い求めた獲物を見つけたまたぎのごとく輝いております。
室長の気配をいち早く感じ取り、びくっとする少女。一定の距離を保ちつつ作業を続ける様子は、肉食動物を警戒しながら餌を食む草食動物に似ていました。
その肉食のけだものが安易に少女に手を出せないのは、仲間を守ろうと目を光らせるシロサイのごとき副室長がそばにいるゆえでした。単体戦に限れば、ライオンも草食動物最強の一角を担うサイには勝てません。わたくしはアフリカゾウ最強説を主張しますが、ここでは議論を避けましょう。やがてクマ、カバ、ゴリラ最強説や、奇をてらったキリン、ワニ最強説が唱えられ、最終的に現れるのはどや顔のヒトの知能最強論者。そして泥沼に陥っていく議論……という流れが目に見えるようだからです。ただ敢えて一つだけ申し上げるとすれば、ライオンは単体だと言うほど強くないよ、と言うことです。
「よし! 清掃は女性陣に任せて、男どもは廃材運びに回るぞ。誰か一輪車をもっと借りてきてくれないか!」
群れを率いる雄ライオンのごとく室長が猛り声を上げますと、渡り廊下がにわかに活気づきました。校長は思わぬ援軍にただ目を丸くするばかり。室長に指示を求められた校長は、偉そうに、だけどどこか嬉しそうに、指図をし始めます。
「美月ー! どこ掃除すればいいんだー?」
副室長から声がかかり、わたくしは我に返りました。
副室長のかたわらで少女とゆみちんが、主人の号令を求める子犬のようにわたくしを見上げております。
「わたくしたちは床を拭きあげましょう!」
偉そうに指図してみて、わたくしも少し嬉しくなるのでした。




