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 校長室の重い扉を開くと、視界に飛び込んできたのはカツラ先生の後ろ姿でした。カツラ先生が深々と頭を下げるたび、机の奥でふんぞり返る校長の姿がちらちらと覗きます。

 風紀委員会の顧問であられるカツラ先生は、わたくしどもより一足先に校長の叱責を受けていたのでしょう。

 ああカツラ先生。そんなに頭を下げられては!

「校長。風紀委員会分室、渡り廊下対策室室長鹿野苑浩二、只今参り――」

「きみたちはなにをやっているのだね!」

 室長の挨拶も終わらぬうち、校長は立ち上がって声を張りました。

 わたくしどもが何故、後生大事に渡り廊下などを守らなければいけないのか――その理由がここにあります。

「ぼくの大事なよし……いや、渡り廊下を、また汚されたではないかね!」

 がみがみとどやしつける校長の手元には、渡り廊下のフィギュア(一/一〇〇〇スケール)があります。「美子」と書かれた名前は、いったい誰のものでしょうか。

 ふと部屋を見回せば、他にも建築模型のように精巧に作られた渡り廊下のジオラマや、『渡り廊下がつなぐもの。それは絆』と書かれた毛筆の掛け軸が飾られています。校長の机の上には、額に収められた『渡り廊下』のサインまでもが。

 校長が熱狂的な渡り廊下愛好家であると伺ってはいましたが、これほどまでとは思っていなかったわたくしは、その偏狂ぶりに気圧されました。なにせ校長室に入るのは初めてなのです。

「また少女にやられたではないかね!」

 校長は机の前の応接ソファにわたくしども三人を促すと、どかりと腰を落として怒鳴りました。腰を沈めれば、そのまま埋もれてしまいそうなほど心地の良いソファでした。

「ですが、校長」

「ですがも接続建築物もないのだよ!」

 室長を遮って校長は怒鳴ります。

「これ以上、あんな小娘にぼくの渡り廊下を土足で踏みにじられるわけにはいかんのだよ!」

 室長の話に耳を傾けようともしない校長。わたくしも反論せずにおれません。

「少女はちゃんと上履きを履いています!」

「……そういうことではないのだよ。きみ」

 こちらを見下ろす校長。まるでだんごむしでも見るかのような目。だんごむしの背が描く曲線は大変美しいものですから、見とれるのも無理はないのでしょう。

 わたくしは再びソファの弾力を楽しむ作業に戻りました。ぼんよぼんよ。

「まだなにも手がかりがないのかね」

 冷静さを取り戻し、ようやく話し合いの調子になる校長。

「少女に土足で踏みにじられる……」と、なにか噛みしめ、味わうように呟いていた室長が我に返りました。

「昨日、少女を写真に収めることにようやく成功しました。これから写真をもとに聞き込みを始めようと思います」

「ふむ。ようやくか……」

「出現の時間帯もだいぶ絞れましたので、今後は一気に張り込みを強化する予定です」

「ふん。欲擒姑縦を狙っていたとでもいうのかね」

「窮寇迫ることなかれ。以逸待労ということもあります――」

 云々かんぬん。

 お二人はなにやら真剣にお話をされておりますが、はっきり言ってしまえば、わたくしにとって渡り廊下などどうでも良いことなのです。

 振り返れば先週水曜の夕方、午後三時。わたくしどもの学級は、学校一面倒くさい委員会と言われる風紀委員の選出に難儀しておりました。『あの子なら務まるのに。そして早く帰りたいのに』――わたくしの敏感な感性に刺さる級友たちの期待の視線。くわえてそこに作用したのは、わたくしが持つ、期待への責任、持ちし者としての使命ノブレスオブリッジ、自己犠牲の精神といった気高いものでした。気づくと、風紀委員会に立候補の手を挙げるわたくしがおりました。

 そして風紀委員内でも――無意識に放たれてしまうわたくしのエスプリも悪いのですが――にくぢるのごとく溢れる芳醇な知性がつい知られるところとなってしまい、渡り廊下対策室に抜擢され、今ここにいるというだけのことなのです。

 ですから、わたくしは渡り廊下などに興味はなく、むしろ今憂慮するのは――

「校長先生」

「なにかね。急に」

「風が強いので、窓を閉めてもよろしいでしょうか」

「心地良い風ではないかね。許さん」

「ぶう」

 なんと残酷なことをおっしゃるのでしょう。先ほどから風が吹くたびに、わたくしは気が気でないというのに。

「まったく。カツ……じゃない、なんだ、その、キミの風紀委員に対する指導は一体どうなっているのかね!」

 なぜか突然怒り出した校長は、その矛先を、先ほどから一心不乱に人差し指の爪を噛んでいたカツラ先生に向けました。

 その校長の発言は、ただでさえはち切れそうだったわたくしの心臓を、更にばくばくと膨れあがらせます。いくら校長といえど、世の中には言って良いことと悪いことがあるのです。

『カツラ先生』というのは、決して口にしてはならない禁断の愛称。

 その理由を節操もなく語ることは、わたくしにはできません。みなまで言わせないでください。察してください。

「そもそもキミはだね、こないだの熟女合コンにしても、キミは妻子がある身なのだから、独身のぼくを少し立てるとかだね――」

 止まらない校長の怒りに、ぺこぺこと頭を下げるカツラ先生。

ああカツラ先生。そんなに頭を下げられては!

「まあまあ、校長先生。先生には常々良くしていただいているのです」

 見かねたわたくし、校長を止めずにはおれませんでした。

 カツラ先生は多少空気の読めないところはありますが、素晴らしい先生であることに違いはありません。弘法大師空海の詩を愛し、非暴力主義者マハトマ・ガンジーの偉大さを説き、日本に眼鏡を伝えたのち中国で殉じたフランシスコ・ザビエルの生涯に涙する。それほど歴史への情熱を持って、生徒に熱く教鞭を振るう先生が、悪い先生なはずがないのです。

 だからこそわたくしどもは、カツラ先生を取り巻く風一つでこんなにハラハラしてしまいます。カツラ先生が良い人だけに、その欠点を誰も指摘してあげられない――そんな悲劇がそこには存在します。人の力ではどうにもあらがえないものを欠点と言っていまうのは、少し可哀想な気もいたしますが、本来そこにあるべき物が欠けているのですから、やはり欠点と言うべきなのでしょう。

「校長。少女こそ取り逃がしたものの、代わりに田中を捕らえることには成功いたしました。今日のところは一つ田中で」

 カツラ先生を校長の怒りから救うべく、わたくしが手柄を提示しますと、なぜか室長が不満げにわたくしの方を見ました。そして校長はもっと不満げなようでした。

「……もっとこう、明堂院とか新宮寺とかにならんのかね」

「田中で」

「田中」

 確かに今どき田中では士気も下がるというもの。せめて早乙女くらいの名前は欲しいところですが、無い袖は振れないので仕方がありません。

「まあいい。もう馬鹿な気を起こさないよう、田中とやらにしっかり施したまえよ」

「はっ!」と、室長は立ち上がって軍人のような敬礼をしました。わたくしは立ち上がればそのまま流れで帰れそうな空気を察知しましたので、素直に敬礼をいたしました。カツラ先生は座ったままで背広のボタンを気にしていました。

「あと、駆けぬける少女の対策を一刻も早くとりたまえ!」

「「はっ!」」

 媚びへつらうように頭を下げながら、校長室を後にする室長とわたくし。

 カツラ先生だけは「修学旅行の渡り廊下巡りを、京都にするか広島にするかでまだ話がある」と、校長に言われてしまいましたので、校長室を後にできませんでした。

「早速、分室で少女対策だ! 行くぞ水無月くん!」

 校長室を出るなり青春活劇のように駆けて行く室長。

 わたくしはその後ろ姿を見送りながら、雅やかに、たおやかに、それはまるで舞い上がる蝶のように、ゆるりと階段をのぼってゆきました。すると三階の廊下の奥、分室の前で扉を開けたままぷるぷる震える室長のお姿が。

「室長、どうなされたのですか?」

 室長が黙って指した部屋に広がっていたのは、盗賊団の襲撃を受けた後のような光景でした。物は散乱し、食糧が食い荒らされ、人の姿も見えません。窓から差し入る夕日にきらきらと輝く埃が滅びの憂いを誘います。

「みんな帰ってしまった……」

「いい加減、掃除をせねばなりませんね」

 施行室に一人取り残されていた田中を校長室に突き出して、わたくしたちも帰路につくことにいたしました。


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