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放課後です。
渡廊連事件が解決し、平和が戻った分室は、室員のいびきで満たされておりました。
焼け焦げた渡り廊下は立ち入り禁止となっため、今や駆けぬける生徒もおりません。
わたくしはどうにも居たたまれず、分室内をそわそわしておりました。これまで少女だ渡廊連だとひっきりなしに騒いできましたので、その焦燥は平穏に慣れることができぬ、わたくし生来の真面目な性格に由来しているように思われました。
『――オマエも前みたいに寝たり小説書いたりして、好きにすればいいじゃねぇか』
副室長はそうおっしゃってくださいましたが、わたくしの中にはまだ、解決しなければならないしこりの様なものが残されている気がします。もちろん硯箱のことはその一つですが、それだけでもない気もしていました。
「――室長、わたくし渡り廊下を巡視してまいります」
「もうそんなに熱心にせんでも良いよ」と室長。
「美月ちゃん、まっじめー」と、もみじまんじうを頬張りながらゆみちん。
居ても立ってもおれず、わたくしは散歩がてら渡り廊下の焼け跡を見に行くことにしました。
校庭側から渡り廊下に近づくに連れ、わたくしは異変を感じました。
立ち入り禁止だったはずの渡り廊下に、生徒の往来が戻っていたのです。
見れば、焼け跡部分に残されていた、焼けた木材や割れた瓦などの残骸が取り除かれています。
「業者かな?」と、思いましたが、そのような方々が作業している様子も見受けられません。
不思議に思い、わたくしは更に近寄ります。すると、そこを通り過ぎる生徒たちが、例外なく奇異の目を向けるものがありました。
校長……。
背広が汚れるのも顧みず、校長は焼け跡を片付けておりました。他の先生や、環境委員会に片付けを命じるわけでもなく、ひとり、残骸を積んだ一輪車を押しているようでした。通り過ぎる生徒は沢山いますが、訝しげにするだけで、誰一人手伝おうとはしません。
(――そういえば、今日はまだ渡り廊下のごみ拾いをしていなかった)
わたくしは校長不在時に、毎日渡り廊下のごみ拾いをしていたことを思い出しました。校長が帰ってきたからといってやめてしまうようでは、天に徳は積めないでしょう。見れば、校長は焼け跡の片づけに手一杯で、ごみ拾いにまでは手が回らぬ様子。現世で徳を積まねば、来世でひどいものに生まれ変わるのが輪廻の仕組みだといいます。わたくしは来世でぞうさんになりたいのです。
わたくしはほうきとちりとりを手に、校舎側から渡り廊下のごみを回収していきます。
しばらくすると、意図せず焼け跡にたどり着いてしまい、こうなればもうついででしたので、すすで汚れた床の掃き掃除を試みました。
ですが、ほうきだけでは細かなすすを掃ききれず、床の黒ずみが取れません。わたくしはたまたま左手にあった濡れ雑巾で、床をごしごし擦ると、大理石は以前の輝きを取り戻しました。
――唖然とする校長の視線を感じます。
わたくしは「別についでなのですからね」という旨を説明するための台詞を、心の中で推考しておりました。
「――君は……確か水無月くんといったかね?」
背後から校長の声。
「ぼくがいない間、君が渡り廊下のごみを拾ってくれていたそうだね」
「あ、わ、わたくしはただアフリカゾウになりたいだけですから……」
おろおろ口ごもるわたくしに、校長は「ゾウ?」と首を傾げます。
「まあいいや。ありがとね」
校長は寂しく微笑むと、今度は焼け焦げた檜を一生懸命拭き始めました。
ふう、と脱いだ背広の下には、背中一面が汗で透けたワイシャツがあります。
「校長」
「なにかね?」
「これは、業者の方にお任せした方が良いのでは?」
校長が一生懸命なのはわかりますが、一生懸命やってみるほど、これは素人の手には余る所作だとわたくしには思えました。
「業者は今、耐震建替や除染作業の需要が多くて、すぐには来れないそうなのだ……」
校長は声を落としましたが、拭き上げの手は休めません。渡り廊下を愛でるように雑巾を滑らせています。
「校長は、どうしてそんなに渡り廊下を大事にしていらっしゃるのです?」
ずっと疑問だった一方で、どうでも良かったことでもありました。ですが、これだけ渡り廊下に献身する校長を見てしまえば、どうしても興味が勝ります。
「……」
校長は答えません。せっかく興味を持ってさしあげたのにあんまりです。
わたくしも汗をかきかき、無言で床を磨きました。
「――きみ」肩が叩かれ、校長の声。
「はい」
「少し休憩にせんかね」
校長は渡り廊下の縁を雑巾で拭いて腰を掛けました。
わたくしも促されるまま座ります。
「ん」と、差し出される缶珈琲。
受け取ってみたものの、わたくしは珈琲が飲めません。
逡巡しているわたくしをよそに、校長はかつんと缶珈琲を開けました。
「この渡り廊下はね。ぼくが高校生だったころからあるのだよ」
校長の声には照れが混じっておりました。
「校長はこの高校の卒業生だったのですか」
「いかにも――」
校長は不自然に話を切りました。続きを話すのを躊躇っているような節があります。
高校時代から存在する渡り廊下だからというだけで、ここまで渡り廊下を溺愛はしないでしょう。校長には、語るべき理由がまだあるように思われました。
意を決したように缶珈琲を傾ける校長。
「きみは……この学校に『卒業式の日に渡り廊下を一緒に歩ききったカップルは、結婚して幸せになる』という俗伝があるのを知っているかね?」
不本意ながら知っております。
わたくしは頷きました。
「ぼくはね。高校の卒業式の日、のちに妻になる女性とこの渡り廊下を歩いたのだ」
わたくしは缶珈琲を握ったまま、後ろにひっくり返りそうになりました。
「本当に結婚されたのですか!」
結婚した、という事実は、校長が妻と呼んだことから推測ができました。
「すごいです! おめでとうございます!」などと、ひとりでやんやと浮かれてしまったわたくしは、己のめでたさをすぐに後悔することになりました。
浮かれるわたくしとは対照的に、うつむいたままの校長がおります。
――あれ? 祝福してほしかったんじゃないの?
理不尽な気まずさがわたくしを襲います。
そして、わたくしは思い出してしまいました。
いつか、校長が自分を独身だと言っていたことを。
それは、確かにどこかで耳にしたのですが、いつお伺いしたのかが思い出せません。
なんだか今は思い出さない方が良いような気だけがします。
急にしゅんとなったわたくしが空気を察したのを、校長は察したのでしょう。「妻はもういないのだ」と、空を仰ぎました。
「この渡り廊下は妻との……美子との一番大切な思い出なのだよ」
缶珈琲をちびりとやると、校長は再び渡り廊下に視線を戻します。
しばし流れる沈黙。
校長は「おしまい」と話を切り上げ、逃げるように作業に戻っていきました。




