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「あれは恐らくニトロセルロースだろう。しかも高硝酸度の」

「ニトロセルロース……ですか?」

「硝化綿とも言うな。弾薬用の火薬などが主な用途だが、身近なところでは手品で使われたり、芸人の頭の上で燃やされたりもする」

 言いながら、鉄地川原先生は綿あめのような繊維をシャーレの上に置きます。右手にはライターが握られておりました。

「見ててごらん」と、先生がライターの火を近づけると、繊維は一瞬で激しく燃え上がりました。「おおう」と思わず声が出るわたくし。あっという間に燃え尽きると、後にはひと欠片の灰も残りませんでした。

「すごい。確かに燃え方が似ています」

「あの縫包が燃えるところを見て、私も真似して作ってみたんだ。ここにある薬品だけでも意外と簡単にできる物だよ」

 薬品棚を眺める鉄地川原先生はどこか自慢げです。

「先生は見ていらっしゃったのですね。一昨日の……」

「うむ。食事会よりもそちらの方が面白そうだったのでね。密かに観戦させてもらった」

「でもどうしてあの日、渡廊連が事件を起こすことをご存じだったのです? 先生がたに知られないよう、カツラ先生が隠蔽に奔走したはずですのに……」

「岬先生は私に隠し事などできんよ」

 鉄地川原先生は、無意識に、といった風に薬品棚下の扉に目を落としました。そこからは黒に若干白が混ざった、四十代前半の哀愁のような繊維の塊がはみ出ています。わたくしと視線が合った先生は、わたくしから目を逸らすことなく、足を使って器用に扉を閉めました。

「でも……見ていらっしゃったのなら、助けてくださってもよろしかったのに」

 大火事になりかけた事態をただ傍観しているというのは、教師としていかがなものでしょうか。わたくしは声に多少の批判を込めました。

「空飛ぶペットボトルが縫包に衝突して激しく燃焼する――少々興味深い光景だったので化学的に解析していたら、消防を呼ぶのも忘れて思わず見入ってしまった。あれ以上燃えていたなら私も消防を呼んでいたさ」

「まったくもう」わたくしがぷんすかしますと、先生は「まあこれでも飲んで機嫌を直しなさい」と、冷蔵庫から水筒を取り出しました。中身をビーカーに注いでわたくしに差し出します。しゅわしゅわと泡立つ漆黒の水面。コオラでありましょう。

「ペットボトルが飛んだ原理はその泡だ。二酸化炭素の個体、つまりドライアイスだろう」

「御名答です」

「二酸化炭素が気化する際の膨張を利用してペットボトルは空を飛ぶ。そしてボトルに取り付いたかんしゃく玉――つまり火薬は、地面に落下すると衝突の刺激で発火爆発する。それがニトロセルロース製の縫包にたまたま着弾して炎上する――というのが考えられる化学的解釈だな」

 なるほど、とわたくしは頷きます。

 ですが――

「なにゆえそんな恐ろしい繊維で縫包など作成したのです!」

「私に言われても困る。私が着任する前からここにあったものだと言っただろう。火気厳禁とも律儀に書いてあった。そういえば昔、ニトロセルロースだと知らずに股引を作って穿いていた男に、煙草の火がたまたま引火して、工場の大爆発を引き起こした事件があったな」

 わたくしは背筋が寒くなりました。


 そんな恐ろしいものを腰にぶら下げて持ち歩いていた――。


 口の中が干上がるような感覚に襲われ、わたくしの手は自然とビーカーに伸びました。

「あら、おいしい」

「だろう。自信作だ」

 先日いただいた黒いソオダ水とは雲泥の差です。シナモンを軸にほのかに漂う柑橘の香りは主張し過ぎることなく、コオラの味わいを上品に引き立てておりました。

「香料のブレンドに苦心させられた。だが君が美味しいというのなら間違いなさそうだな。そうだ、バニラ風味のコオラも作ってみたんだ。傑作だよ。飲んでみないかい?」

 機嫌を良くした鉄地川原先生は、わたくしの返事を待つこともなく、冷蔵庫の方に歩を進めました。

 今が好機だと考えたわたくしは、恐る恐る話を切り出します。

「あの……先生、一つお願いがあるのですが」

 冷蔵庫の前の先生が、首だけをこちらに向けました。

「なんだい?」

「わたくしに冷蔵庫の一角を貸していただけないでしょうか……」

 きょとんとする先生。すぐに、ふっと失笑なさいました。

「深刻そうにするから何事かと思えば、そんなことか。君にはコオラの恩義がある。喜んでお貸ししよう。……それで何を保管すればいいんだい」

 わたくしは鞄からしだれ桜花の硯箱を取り出して、「これをお願いしたいのです」と、鉄地川原先生に差し出しました。

「随分大きいな。何が入っているんだ?」

「ああああ」と、狼狽するわたくし。先生は硯箱を開けようとした手を慌てて止めました。

「これは絶対に開けないでほしいのです」

「ふむ。玉手箱か。女性の私物を無理に覗くほど私も野暮ではない」

 先生は冷蔵庫を簡単に片付けて場所を作ると、そこに硯箱を仕舞ってくださいました。

「薬品保管用の冷蔵庫だから、かなり低温に設定してあるが大丈夫かい」

「はい。むしろそちらの方がありがたいです」

 思い悩んでいた懸念が解決して、わたくしはほっと胸を撫でおろしました。自宅の冷蔵庫に仕舞えば、母が見つけて大騒ぎするのは目に見えています。ですが、これが一時的な解決にすぎないこと、――いえ、これがただの解決の保留にしかすぎないことを、わたくしも認識はしておりました。

「先生」

 わたくしにはまだ、先生にお訊ねしたいことがありました。

「憑依現象、というものは本当に存在するのでしょうか」

 鉄地川原先生はバニラ風味のコオラを注ぎながら、眉をしかめます。

「どうしてそれを化学教師に訊こうと思ったんだい? 畑違いも甚だしい」

「す、すみません。鉄地川原先生なら科学的に説明してくれるのでは、と思いまして」

「なるほど……」先生はデスクの椅子に腰掛け、「面白い」と、バニラコオラを傾けました。考え込んだ姿勢のままで口を開きます。

「憑依というのは、他者の意識が別の他者に入り込むこと、という定義で良いのかい?」

「ええと、例えばその……死んでしまったものの霊が、一時的に遠くにあるものに宿る、とかです」

「ふむ、では、霊や魂の存在の証明が焦点になるのかな」

「霊や魂は証明できるのでしょうか……」

 先生は長大息を漏らしました。

「無いな」

 予想通りの答えを断じられ、わたくしは「ですよね……」と肩を落としました。

 霊や魂など、科学とは水と油のように相容れぬ存在です。鉄地川原先生に訊ねたこと自体、間違いなような気さえしました。化学も自然科学の一分野なのですから。

 しょんぼりとするわたくしに、先生は憐憫を込めておっしゃいました。

「なぜ憑依にこだわるのかは知らないが、そんなに落胆することはない。あくまで今は証明されていない、というだけにすぎない」

「それは、これから証明される可能性がある、ということなのですか」

「どうだろうな。難しいと思う」

「んもう。どっちなんですか……」

「まあそうへそを曲げるな。そもそも、絶対に無いという証明は困難であるし、無いと思われていたものの存在を証明してきたのが、科学の歴史だということを忘れてはならない」

 わたくしを見据える先生の目が、力強く輝き出します。

 それは、宇宙の神秘に思いを馳せる少年のような、純粋な目でした。

「科学の証明は、まずその存在を信じることから始まる。化学の世界で言えば金だ。金は錬成できるものと信じ、実験を繰り返したのが化学の原点だった」

「錬金術ですね」

「そのとおり。結局、当時の技術では金の錬成は証明できなかった。しかしその難問は副産物として、化学の土台を支える理論たるドルトン原子説を生み出した。物質を構成する最小単位である原子の存在が説明されたのだ。だがそれもつかの間、最小単位であるはずの原子の中にある、より小さい単位を科学は次々と解明してゆく。電子、陽子、中性子、中間子……、それは革命の連続だ。ありえないと思われた物の存在を確信し、より困難な証明を果たすことによって、科学はその歴史を塗替え、常に進歩してきたと言える。最近では、ヒッグス粒子という『神の粒子』などと呼ばれる存在まで証明されている。『質量はいかにして発生するか』という物理学の永年の謎に、解決を提示するものだった。ヒッグス粒子は理論上の計算が正しかったとしても、一兆回以上の実験をして一回生成されるかどうかのものだったという。それは、私のような末端の化学教師から言わせてもらえば、霊や魂なんぞよりも存在証明が難しいようにさえ思えるよ」

 興奮気味にまくしたてる先生。一旦コオラを口に含んで続けます。

「つまりだ。求められるべきxの存在を頭から否定してしまったら、科学の発展はあり得ないということだ。想像力の欠如は、未知の発見を殺す。だから現在の科学的アプローチで証明できないからといって、霊や魂の存在を頭から否定してしまうのもつまらない――というのが、私の見解だ」

 今考えたことだけどね、と、鉄地川原先生はまたふっと笑みを漏らしました。

 わたくしも相槌を返すように微笑みました。

「科学的に霊や魂を検証した人は、過去にどなたかいなかったのでしょうか?」

「いや、十九世紀後半には「科学」と「心霊」が対決した時代があった。産業革命が進み、自然科学が世の中を席巻し始めた時代でもある。生物が得意なきみならば、その時代を象徴する生物学者の名を一人挙げられるかもしれない」

「チャールズ・ダーウィン……ですね。ダーウィンが主張した進化論――適者生存による自然選択説は、それまで「神のデザイン」や「神の意図」と考えられてきた種の在り方に、一石を投じることになりました。当時、宗教界から相当な批判を浴びたと聞きます」

 どや顔でわたくしです。餌をとるのに有利な変種が生存競争に勝ったからキリンの首は長くなったのであって、高いところの葉っぱを食べられるように神様がキリンをデザインしたのではない、というのがダーウィンの考えです。

「よろしい」と、先生は先生らしく頷きました。

「自然選択説の共同発見者だったアルフレッド・ウォレスは、一方で心霊主義者でもあったという。当時は心霊主義を擁護する科学者が当たり前のように存在していた。この時代が最も心霊と科学が入り組んだ時代、心霊が盛んに科学で検証された時代、と言っても過言ではないだろう。だが結局、霊の存在の確たる証明は得られなかった。魂の存在の証明を試みた医師がいたことは?」

 わたくしは首を横に振りました。

「ダンカン・マクドゥーガルと言ったかな。彼は人間が死ぬ際の体重の変化を記録して、魂の重量を計測しようとした。結果、人は死ぬと二十一グラムほど重量を失う、と彼は主張した」

「なんだかそこはかとなく胡散臭いのです……」

「そう、残念ながら眉唾もの実験だ。ずさんな測定、標本数の少なさ、何をもって死と判断するのか……その実験に科学的な信憑性は認められなかった。この分野に胡散くさい人間が群がったことは心霊――オカルトの地位を確実に貶めた。結果、心霊を誠実に研究しようとする人間には、偏見の目が向けられるようになる。科学が正道であり、心霊は邪道。心霊が学問として認められていない以上、心霊を真面目に研究しようと考える科学者は現れ得ないだろう。余程の異端児でもない限りな」

 先生はコオラを一気に傾けて、ふう、とため息を吐きました。

「つい長々と話してしまったが、話を戻そう。繰り返すけれど、科学は一見あり得ないもの存在を証明し、常識を覆し続けてきた。自然科学の先端にいたのは常に異端児たちだった。ガリレイの地動説。ニュートンの万有引力説。そしてダーウィンの自然選択説。当時批判されたそれらが今、世界の真理になっているように、何百年後には時間渡航や霊の転移が当たり前に説明される時代があるのかもしれない――ということを私は言いたかった」

「もし……それが証明できたらノーベル賞でしょうか?」

「間違いないな」

 先生は可笑しそうにしながら――

「だから、霊とか、魂とか、憑依とかいうものがあっても良いのではないかな。何よりも、あると思った方が夢があって良いではないか」


 ――と、ご高説を閉じられました。

「こんな話でご満足いただけたかな?」

 無意識のうちに手を叩いているわたくしがおります。

 自分の馬鹿げた考えが、わずかながら後押しされたようで、心が救われた気がいたしました。それはどこか宗教じみた救済にも思われました。

「まあ、強いて言うならば、憑依現象の実験にはマウスが使えないのが難点だな。マウスの人格――いや失礼、鼠格がわからない以上、本当に憑依しているのかどうかがわからない」

 先生は上手い冗句を言ったとばかりに、肩をすくめて滑稽そうにしました。


「それはご心配に及びません」


 わたくしが胸を張って答えると、先生はそうか、と不思議そうに頷きました。

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