24
○
「カタキ、とってやるか」
ゆみちんの傘に隠れながら、気絶した室長と少女をなんとか渡り廊下まで引きずってきたところ、副室長が言いました。
「さすがにコイツが可哀想になった」
うつぶせで伸びている室長を、副室長は足で転がします。
ごろんと仰向けになった室長はどこか幸せそうな顔をしておりました。
「ですが……どうやってカタキを?」
ただでさえ少ない戦力。お馬鹿でこそあれ、それなりに頼もしかった司令官も、今ここで伸びています。
おもむろにスマートホンを取り出した副室長。
「末吉か? オマエらどこにいんだよ。はあ? アリジゴク? ――ああ、んじゃ、部室棟の屋上をなんとかしろ。本室? 来ねえよ、二人だけでなんとかしろ。あと分室で加賀津を見張ってる二人にも連絡して、南棟の屋上に行かせろ。加賀津はもうほっといていい。アタシとゆみは体育館を攻める」
末吉さんがごねているのが、スマートホンから漏れ出る声質でわかりました。
「うっせえ! オマエが選べるのは、渡廊連にボコられるか、アタシに殺されるかの二択だ! 鹿野苑の弔い合戦だぞ。死ぬ気でやれ!」
言いながら副室長は室長の脇腹をがすんと蹴って、一方的にスマートホンを切りました。
「あの、副室長。わたくしは?」
電話を聞いている限り、わたくしの存在が忘れられているように思えました。落ちこぼれを自覚する人間は、総じてそういうことに敏感なので注意してほしい。
「美月は……こいつらを見ててやってくれるか」
副室長が目をやった先には伸びた二人がおりました。機動力を著しく欠いた装備を纏うわたくしにとって、それは至極適任に思われました。
「それにオマエは渡り廊下を守りたいんだろう?」
わたくしは竹槍を構えて、副室長に答えます。
「ゆみ、行くぞ!」
「はい」
体育館にまっすぐ駆けてゆく二人。部室棟に駆け込む末吉さんたちの姿も遠くに見えました。南棟のお二人も動き出したことでしょう。
今のわたくしにできることと言えば、各屋上に向かう皆さんから渡廊連の注意を少しでも逸らせること。
「どすこい!」
竹槍と盾を構え、一歩渡り廊下の保護の外に出ると、B29のごとき米国コオラのペットボトルが飛来します。使い捨てのように地面に打ち捨てられては、炸裂音とともに砕け散っていくコオラのペットボトル――のかんしゃく玉――たち。辺りに転がるは累々たるペットボトルの抜け殻……。
愛すべきコオラと袂を分かち、このような形で戦わねばならぬとは、戦争とはかくも悲しいものなのでしょうか。コオラに罪はないのに。あんなに甘くておいしいのに。わたくしは悲痛な思いで、渡り廊下に襲いかかるペットボトルを竹槍で叩き落とします。
ややあって、飛んでくる数が、つと減ったように思われました。
気のせいではありません。見ると南棟の屋上が静かになっております。ペットボトルが飛ばなくなったのです。そして、それは南棟だけではありませんでした。次に部室棟屋上の攻撃が止み、最後に体育館の屋根が止みました。
――勝ったのかな?
屋上に到着した皆さんが渡廊連をやっつけたのだと思いました。戦いは終わったのだと。
しかし、再び南棟からペットボトルが降り始めたとき、わたくしは攻撃がわずかに止んだその時間の意味を知ることになりました。
確かに、分室にいたお二人が屋上に辿りついたから攻撃は止まったのでしょう。
そしてお二人は結局、攻撃を止められなかった――。
やがて、部室棟屋上からの攻撃も再開しました。
――末吉さんたちまで。
多勢に無勢だったのかもしれません。それとも、落ちこぼれ集団には初めから勝ちようがなかったのかもしれません。ぽつりぽつりと雨が落ち始め、わたくしのポリカアボネートの盾を濡らしました。脱力してゆく竹槍の手。
――いえ、まだです。
まだ体育館の屋上が残っています。
わたくしは思い直して、竹槍を再び強く握りました。
あの、暴力が服を着て歩いているような、殴る蹴るの暴行の権化のごとき副室長が、渡廊連などに屈するはずがありません。渡廊連を一人でも捕まえることができれば、あとは室長が、室長が犬畜生にも劣る下劣な施しをして、きっと一味を白状させてくれるでしょう。
「――兄御、上手くいったっすね」
「やつらめ、兄御が逃げ道のことを考えてないわけねえだろうに」
「……」
そのとき、体育館よりこちらに歩みよる声が三つありました。
黒のジャージに身を固め、茶の段ボウルで頭を覆い、太巻ほども太さがあるポリ塩化ビニル製のパイプを手に握った、虚無僧のごとき異様な姿。
――渡廊連!
わたくしがそう確信したのは、彼らの腰に、鎧の垂れのように巻き付けられた大量のぺットボトルがあったからでした。
ヘルメットの隙間から汗が流れ落ち、わたくしの眉を濡らします。
「お、いるいる」
上野動物園でパンダでも見つけたようにわたくしを指す子分風の男。
その子分らしからぬ体格は、西前頭七枚目といったような風格がありました。
「渡り廊下をあなたがたの好きなようにはさせません!」
わたくしは竹槍を突き出し、獅子の咆吼のごとく一喝します。
三人は顔を見合わせ鼻から失笑を漏らすと、やれやれと肩をすくめました。
「声が震えてやがる。細腕の女がたった一人で俺たちとやるつもりらしい」
来場所は関脇を狙わんばかりの余裕で言う西前頭七枚目。段ボウルの顔が蛇のようにニタついた気がして、わたくしは心細い蛙の心持ちで睨み返しました。
「体育館にいる副室長とゆみちんがすぐに駆けつけてくるのです! 副室長さえいればあなたたちなど!」
「体育館? 副室長ってあの黒い女か? 奴らなら体育館の屋根から降りられなくなって、今ごろしょぼくれてんぜ」
「きゃつらが屋根に上がるのを見計らって、梯子を全部外してやったっすからねえ」
「……」
兄御と呼ばれる男が、弟御たちの言葉に無言で頷きました。
あの獅子奮迅、一騎当千のごとき副室長までが敵の計略に落ちてしまった――。
それはすなわち、わたくしども渡り廊下対策室の敗北を意味するように思えました。情けなくも、わたくし一人に事態を覆す力などあるとは思えません。
こうなればわたくしに残された道は、戦って潔く散ることのみ。戦時中、女は敵軍に辱められるくらいなら自決を覚悟したのだと、ひいばあさまも語っておりました。わたくしとて水無月家の女としての矜持があります。
緊張が昂ぶりすぎたのでしょうか。辺りがやけに静かに感じました。全ての雑音はわたくしの水面を揺らす細やかな風。明鏡止水の境地。辺りに敵味方お構いなしに降り注ぐ、ばつーんばつーんの炸裂音でさえ心地よい響きに聞こえました。
「危ねえ!」
飛来したペットボトルの一つが、本当に敵味方お構いなしに、西前頭七枚目をかすめるようにして炸裂しました。
「俺たちに当たったらどうするつもりだ。おーい止め止め! 一時停止!」
渡り廊下の外に出た七枚目が各屋上に手を振ると、ペットボトルが狙ったように飛来します。「うわち!」
「アイツ嫌われてるっすからね」と、弟御の一人がこっそり兄御に呟いています。この男からは、権力の懐に潜り込もうとするへりくだった体裁が感じられ、なんとなく語尾に「やんす」などと付けそうな感じに思われました。
「さあ、仕切り直しだ。お前の味方はもういねえ。俺たちがどさくさに紛れてお前に制裁を加えても、誰も助けに来ないってことだなあ」
結局ペットボトルを止められなかった七枚目が、下卑た声で言いました。やんすも「ひひひ」とカマキリのように笑っています。不気味に無言を保ち続ける兄御とやら。
「好きなようにはさせないと言ったはずなのです!」
わたくしとて無策でただ気を吐いていたわけではありません。ここは、あの必殺技を出す覚悟を決めるときなのでしょう。
「がおう!」
咆吼とともにわたくし渾身のオオアリクイの威嚇が炸裂します。人の心を捨て、天敵に侵略されるオオアリクイになりきり、両手を高く掲げたまま悲痛な思いで体を揺らしました。オオアリクイの鋭い爪は、襲い来るジャガーの命をときに奪うことさえあるのです。
「かわいい」
「かわいい」
「えっ」
弟御二人によるまさかの褒め殺し作戦。
思いがけず有頂天になり、顔などうつむけていたところを、わたくしは「あれえ」と、あっさり捕らえられてしまいました。両手を掲げるために、竹槍も盾も放り出したのは明らかな失策でした。オオアリクイが絶対に勝てない最大の天敵――それは悲しくも人間であることをわたくしは思い出します。人間によって、住む土地を追われ、車で轢かれ、毛皮を剥がれて命を落とすオオアリクイの悲哀……。
「はなしてえ」
わたくしの必死の抵抗もむなしく、七枚目とやんすは力ずくでわたくしを柱に縛りあげていきます。何やら鼻息を荒くする二人に、わたくしは言い知れぬ嫌悪を感じました。
「なんじゃこりゃ。邪魔」
縄を巻き付けようとしたやんすが、腰巾着のごとくわたくしにぶら下がっていたカピバラを外すと、無造作に放り捨てました。無抵抗で、ばいん、とひと弾みして渡り廊下に転がるカピバラ。横になったまま、切なげな目でこちらを見ておりました。
「着物ってなんかいいっす……」
堪らずに漏れ出たといった風の、本能の呟きでした。後ろでわたくしを柱に押さえつける七枚目の鼻息も熱を増していくのを感じ、わたくしの背筋にぞくぞくと怖気が走ります。
「わたくしをどうするつもりなのです!」
返答次第では舌をかみ切る覚悟をせねばなりません。わたくしの脳裏に「施し」の恐怖が甦りました。彼らの目的にはわたくしどもに対する報復もあったはずです。
「お前はよく渡り廊下の壁を直してたよなあ。ちゃんと見てたんだぞ」
「だからどうしたというのです……」
「ふふん。ここか、お前が直したのは」
七枚目は先日わたくしが直した箇所をめざとく見つけ、痴漢のようになで回しました。そして、ひゃはー! と奇声を上げたかと思うと、振り上げた塩ビパイプを壁に叩きつけたのです。鈍い悲鳴を上げてひしゃげる檜。折角直した裂傷が再びむき出しになっておりました。
「どうだ縛られたままで抵抗できないというのは悔しいものだろう。ほら、もう一発だ」
「もうやめてえ!」
七枚目がパイプを振り上げると――
「おいやめろ!」
兄御と呼ばれる男の声でした。
「そういう下品なやり方は観衆が引く……。やるときはあくまで芸術的に、だ……」
すんません、つい興奮しちまって、と、頭を下げる七枚目。
渡廊連が姿を現したことによって、観衆は注目のあまり静まりかえっておりました。女の子を縛るのはちょっとやりすぎじゃない? という非難と期待の沈黙があるようにも感じます。固唾を呑んで渡廊連のやり方を見定めている――そんな空気がありました。
そんな中で初めて耳にした兄御の声は、わたくしにあるひらめきを与えました。兄御が今まで声を発さなかったのは意味がある。そう思ったのです。そこでわたくしは敢えて兄御に向けて質問をぶつけました。
「結局あなたがたは、わざわざここに出てきて何をしたいのです?」
「衆人環視の前で、あくまで芸術的に、渡り廊下を破壊する……。それで観衆が喜び、オレたちを支持してくれるようになれば、目的は達せられる……」
律義に答えた兄御は、わたくしに紳士な印象を与えました。しかし、その質問でわたくしが本当に知りたかったことは別の所にあったのです。
「やっぱりあなたの声、どこかで聞き覚えがあります……」
でも思い出せません。確かにどこかで聞いた気がするのです。兄御も段ボウルの下で一瞬怯んだような気配を見せた気がしましたし、「うるさい、兄御の声はその辺に良く転がっている声だ」「そっす。お前は誰かテレビタレントと勘違いしてるに違いないっす」と、必死で庇おうとする弟御二人の反応を見ても、状況証拠は十分に思えました。
わたくしは兄御という男を知っている――。
その正体さえわかってしまえば、もはや彼に逃げ道はありません。ここで思い出せれば、彼らに一矢報いることが出来るかもしれないのに。わたくしのにわとりな頭が憎い。
わたくしが唇を噛んでいると、兄御が弟御に向けて顎をくいっとやりました。
「お前は兄御を怒らせた。そこで指をくわえて見てるがいい」
「芸術的な破壊ってのはこうやるんす」
突如、渡り廊下から離れるように駆け出していく三人。
十メートルほどの距離をとると、三人は腰に巻いてあったペットボトルを蓋を開け、革手袋の手を腰のポーチに突っ込んで、何やら砂利のようなものを取り出しました。それをペットボトルにじゃらじゃらと流し込むと、蓋を軽めに閉めて、それをなんと塩ビパイプにぎゅうと詰め込みます。よく見ればパイプのお尻は、ビニールやら段ボウルやらテープやらで穴が一方通行になるように加工してあるようでした。
一連の動作を手早くこなす三人は、バズウカに弾を込める軍人のような格好です。訓練をしたのかもしれません。彼らは片膝を付いて、渡り廊下の壁に向かってバズウカの先を向けたままじっとしておりました。動かない彼らに対して、ここぞとばかりに屋上からペットボトルが飛んできましたので、兄御が七枚目に少し離れるよう命令しました。
ばしゅう!
――――ばつーん!
前触れもなく炸裂したのは、やんすのバズウカでした。
三分の一ほど残されていたコオラが、ボトルの口の部分からジエット噴射のように吹き出して、ボトルの底に取り付いた石が壁を強かに打ちました。破裂するかんしゃく玉。
そして壁に残されたのは、わたくしがよく直したあの傷でした。
兄御と七枚目のバズウカも順に、炎のごとくコオラを噴きました。どういう仕組みなのでしょう。その派手な演出は、観衆の盛り上がりを取り戻すのには十分でした。繰り返し繰り返し込められるボトルは、繰り返し繰り返し檜の壁を破壊していきます。
「もうやめてえ! やめてえ!」
わたくしは思わず声が出ていました。その体の底から嘔吐のごとく溢れくる声は、自分の意志で止めるのは難しいものでした。
「――やめてほしいっすか?」
残酷な光景を見まいとして塞いでいた瞼を開くと、目の前にやんすがおりました。それはわたくしを哀れんで提案したというよりは、自分の嗜虐心を満たすための問いかけに聞こえました。やんすはきっと、必死で懇願するわたくしの姿を楽しみたいだけなのです。わたくしにとて、思いどおりになってたまるものかという自尊心があります。しかし一方で、自尊心を捨ててお願いすれば、もしかしたらやめてくれるかもしれないという一縷の望みも感じられ、わたくしの胸は葛藤で裂けそうになりました。
「……めてください」
「ん? なんて?」打ち震える狂喜に耐えるようなやんすの顔があります。
「おい、お前。勝手に何をしている」
やんすの肩をぐいと掴んだのは七枚目でした。後ろには兄御の姿も。
「この女がもうやめてほしいらしいっすよ」
「女にやめてと言われて、やめる馬鹿がおるか」
七枚目の言葉に兄御も頷きます。
「兄御、俺さっき思ったんすけど、着物ってなんかいい」
恍惚として言うやんすに、顔を見合わせる二人。「お前は何が言いたい」と、七枚目が兄御を、そしてわたくしを代弁するように言いました。
「兄御、俺、一回だけ着物の女を施してみたい」
わたくしはおぞましさのあまり、意識が遠のきました。
「ば、馬鹿野郎。観衆が引くようなことはするなと言われただろう! ですよね兄御」
段ボウルの下から、猛禽類のごとくわたくしを見据える兄御の目を感じました。
そして兄御はやんすではなく、七枚目に向かって鋭く声を放ちました。
「――お前は、芸術的に、ということがわかっていない」
比叡山での修行は厳しいのかしらん――。わたくしが唐突にそんな思いを馳せたのは、このような辱めを受けたなら、もう仏門に入るしか生きる道がないように思えたからでした。比叡山の旅情報誌は本屋さんに売っているのでしょうか。家に帰ったら「女 仏門 オススメ」でインタアネットをたたかねばなりません。
「一回だけ我慢すれば、渡り廊下はもうやめてあげるからね。三人だから三回。ね。ね」
臆面もなく素の言葉を話し出す兄御。施すところが観衆から見えないように、七枚目に壁になるよう命じ、やんすにはわたくしの口を押さえるよう命じました。
「んごー」
口も手足も自由を奪われたわたくしの頭を走馬燈のように巡ったのは、タンザニアのンゴロゴロ国立自然公園で、野生のシマウマたちに祝福されながら、まんぼう似の素敵な殿方とウエヂングを挙げるわたくしの夢――そしてそれががらがらと崩れていく光景でした。
「ちょっとだけだからね。すぐ終わるからね。ね」
焼けるような視線をわたくしの胸元に注ぎながら迫り来る兄御。獲物を捕えんとする鷲のごとく両手を構え、その指先はイソギンチャクのようにわしゃわしゃと蠢いています。
――そういうときは天井のシミ数えでっどすぐ終わんの。
昔、おばあさまが教えてくれた言葉です。意味はよくわかりませんでしたが、なんとなく今のような気がしたわたくしは、男たちから目をそむけて空を見上げました。できるだけ綺麗なものを見ていたい――そう思ったのです。潤んだ視界の中でペットボトルが舞っていました。ふらふらと不自然な軌道を描くペットボトルが一つあります。風にあおられている、という感じでもありません。珍妙に思い目で追っていると、吸い込まれるように渡り廊下に落っこちてきました。落下点にあるのは鬼天竺鼠の縫包です。
ばつーん!
炸裂音が聞こえるのと同時でした。
全身からストロボのように閃光を放った鬼天竺鼠が、一瞬にして燃え上がったのです。強風で舞い上がった鬼天竺鼠は、むしろ風を利用して空を飛んでいるような風体でした。鬼天竺鼠は炎上したままの姿で、わたくしを囲んでいた三人を、更に囲うようにぐるぐると回ります。
「あひゃあ!」
狼狽する三人を追い回すように空駆けるカピバラ。
わたくしは鬼天竺鼠に張られていた「火気厳禁」のお札を思い出しました。
――『燃えると火鼠にでもなってしまうのではないか?』
鉄地川原先生の言葉です。体重が二五〇キログラムもあったという伝説上の火鼠より大分小ぶりではありますが、それは確かに、炎を纏った鬼天竺鼠の様相を呈していました。
体裁構わず一目散に逃げていくやんす。ジャージの裾に燃え移った火を消すのにあたふたしている七枚目の情けない姿は、もはや東前頭十三枚目でした。転倒して頭を強打した兄御を気遣う者はもう誰もおりません。転倒した際に段ボウルが脱げて、兄御の顔は白日の下に晒されておりました。その顔は、確かにわたくしの記憶の底に沈んでいた人間であり、彼が渡り廊下やわたくしどもを恨む理由も理解はできました。
わたくしは縛られた状態であるのにもかかわらず、舞い狂う火鼠に不思議なほど恐怖を感じませんでした。むしろ寒空の下、焚き火で暖を取るような安らぎさえありました。ひととおり舞い終えた火鼠は渡り廊下の隅に腰を落ち着け、めらめらと燃えております。静かに燃え尽きていく命の灯火。火が移り、燃え上がっていく渡り廊下を、わたくしは縛られたままただ眺めていました。
「何、ぼーっとしてるんだ!」
その声で我に返るわたくし。
「焼け死ぬとこだった!」
いつの間にか目を覚ました室長が、わたくしの縄を外そうとしています。室長は髪の一部がちりちりになっておりましたので、大方、火鼠の巻き添えを食ったのでしょう。
「でも室長、この炎には敵意を感じないのです。ほら、優しい焔」
「ジブリのヒロインみたいなこと言ってないできみは少女を動かしてくれ。俺はこいつを運ぶ」
室長は伸びている兄御を肩に担ぎました。
わたくしも少女を担いで安全な場所まで運びます。
消火器を手に戻ってきたのはやんすと十三枚目。「やばい、やばい」と燃え上がる炎に消火器を吹きかけますが、不思議と消しきれません。火鼠が住む不尽木と言う木の炎は、決して消えることがないと言います。かのごとく力強い炎に思われました。異変に気がついた、観衆の中でも勇敢な方々も、水や消火器を持って駆けつけてくれましたが、結果はやはり変わりません。「消防(119)だ!」と、叫んで内ポケットをまさぐる室長。テレビのリモコンを取り出して「ええいもう!」と、地面に叩きつけます。
万策が尽き、わたくしどもは燃え上がる渡り廊下を茫然と見つめることしかできなくなりました。屋根が焼け落ち、瓦が次々に床を叩いては割れました。もうもうと煙が立ち上がり、空に吸い込まれていきました。
その煙が合図の狼煙だったようでした。
小ぶりだった雨が、途端、土砂降りに変わったのです。
皆さんがてんやわんやで屋根を求める中、わたくしは雨に打たれ、渡り廊下の行方を見守っていました。わたくしは最後まで見届けなければいけない気がしたのです。
不思議なことに、その雨は、あれほど消えなかった炎を瞬く間に消していきました。発火から消火に至るまでの全てが、鬼天竺鼠の、まさに自作自演だったようにさえ思えました。
つと、わたくしを影が包みます。何やら傘の保護を受けているわたくし。
振り向くと、傘を突き出した室長が無言で立っておりました。
――その室長のさらに後方です。そこにもわたくし同様、雨に濡れている人影がありました。そしてそこにある悲しみは、わたくしなどとは到底比較にならないものに思えました。
次の瞬間、悲しみの塊のようになったその人は、両手いっぱいに携えていた紙袋をどさどさと地面に落として、力なく崩れ落ちました。
その大量の紙袋には「広島みやげもみじまんじゅう」と、書かれておりました。




