23
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土曜日、半日授業の午後でした。
風雲急を告げる一時の鐘。舞いたる風は嵐の警告。
鼠色の空の下、校舎の窓に並ぶ群衆の目。噂の真偽を確かめようと、期待と不安が入り混じる視線が注ぐ先には、渡り廊下のど真中、敗走の王将のごとくただひとり鎮座するわたくし。
(重い……)
重装備を携えたわたくしは今、王将がひとマスしか動けない理由を痛感しておりました。
藍地小桜文の上に纏うのは、家より持ち出した母の剣道用の胴鎧。左手には化学準備室よりお借りしたポリカアボネートの防護盾があり、頭には加賀津さんよりお借りした、昨年作業員に扮した際に使用したという安全ヘルメットが被さっています。
「まったく。君も意外と強情だな」
頭上――渡り廊下の屋根から、ふいに声が降ってきました。
「渡り廊下をいじめさせるわけにはいきません」
わたくしは右手に握った竹槍をしゅっ、とひと振り。ひいばあさまの代から伝わる竹槍がわたくしの力を奮い立たせます。かの世界大戦中、米国のB29戦闘機をも退けたという、伝説の一品――
『西っからびいにじゅうくのやろめらがとんできさったから、ばっちゃがな、えんや! っで、空さむかってこの竹槍さふってくっちゃら、あんづら、うわーってなっでいちもくさんさ東さにげでったの』
――今は亡きひいばあさまの声が内耳に再生され、思わず目頭が熱くなります。
まだ幼きわたくしに、何度も、毎日、まるで昨日話したのも忘れてしまったかのように、ひいばあさまは武勇譚を話してくれました。
頭上の声の主たる室長は、渡り廊下の屋根にどかりと腰を据えました。
「ふむ。状況を見渡すには、どうもここが一番良いらしいな」
「そんなことおっしゃって……。全員渡り廊下から離れて待機ではなかったのですか?」
――まず渡り廊下から離れた場所で相手の出方を見る。
昨日の作戦会議で決まった方針はそれでした。渡廊連がどのような方法で攻撃をしてくるかわからない以上、渡り廊下の周りで待機するのは危険すぎる、ということでした。
バットや鉄パイプなどを持ち出すかもしれない。爆弾じみたものを使うのかもしれない。危険だからまず相手の出方を見よう――。
――でも、それでは渡り廊下が守れないではないですか。
「周囲には末吉たちがいれば足りる気がしてな。俺はここにいるとしよう」
「そんな軽装では危険ですよ」
「君が大袈裟すぎるのだ」
「――そんなことねえぞ、オマエも竹刀くらい持っとけ」
放物線を描いて空を飛ぶ竹刀。
軌道を遡るとそこにいたのは、勿論、副室長でした。
「そうですよお。手ぶらじゃ駄目ですよお」
副室長の隣で、ゆみちんは持っていた桃地の傘を開くと、強風に煽られてくるくると回りました。
「ゆみちん。傘じゃ役に立ちませんよ」
「えー、そんなことないよお。雨ふりそうだもん」
空は確かに雨の予兆を漂わせておりますが、これから降るであろう血の雨の前に、桃色の傘はあまりにも無力に見えます。
「美月だってぬいぐるみはいらねえだろ」
副室長はわたくしの腰の鬼天竺鼠――カピバラの縫包を指して笑います。
「いえ――」わたくしはかぶりを振りました。
「これはただ、好きで持ち歩いているのです」
わたくしは今や孤独な王将でありませんでした。頭上にはゴキゲン中飛車のごとき室長がおり、右には頭脳参謀たる金将の副室長。左のゆみちんは……銀将というより、桂馬に例えるのが適切なような気がしてなりませんでした。あのへんてこりんな動き……。
たった三人にも関わらず、わたくしは穴熊戦法のような頼もしさに包まれておりました。皆さん言葉はどうあれ、わたくしを心配して来てくださったのは明白です。
「しかし遅ぇな。一時じゃなかったのかよ」
「一時の鐘は鳴ったはずですが……」
「待て、なんだあれは?」
室長の声に目を凝らすと、こちらに向かって宙を漂ってくる何かがありました。強風に煽られてあらぬ方向に流されて行きます。
「ただのゴミだろ」と、副室長が切り捨てようとしたとき――
――ばつーん!
渡り廊下の手前で落下したそれは、地面に叩きつけられると同時に音を立てて炸裂しました。
廊下や体育館にいる見物人が一瞬静まり、噂に乗じて目立とうと渡り廊下でおちゃらけていた男子生徒たちの動きも止まります。
屋根からひょいと飛び降りて、物体に駆け寄る室長に、副室長とゆみちんが続きます。少し遅れてたどり着く重装備のわたくし。
「またこれか……」
室長が呟いた先に落ちているのは、石つきのコオラのペットボトル。
ですが今までのペットボトルと違う点が二つありました。
「今のなんの音だよ。こいつが爆発したのか?」
相違点一つ目。副室長が拾い上げたペットボトルは、口の部分から白い煙と少量の黒い液体が漏れていました。「冷てっ」と、副室長が思わず声を上げます。「爆発した割にはペットボトルに傷がねぇな」
「これは……」
そして、相違点二つ目。したり顔甚だしいわたくし。
「美月、なんかわかんのか」
「このラベルは……特保のコオラのものです!」
今までは普通のコオラのボトルだったにもかかわらず、今回のボトルは特保のコオラのものでした。なにせ特保のコオラは、通常のコオラより三割増しほども高級です。それだけ高ければ爆発することもあるでしょう。
「で?」
副室長の容赦のないひと文字がわたくしを襲います。特保コオラの特徴たる難消化性デキストリンの説明から始めなければならぬのかと悩ましく思っていたところ、「わたし、あの音知ってるよ」と、ゆみちんが手を挙げました。
「あの音はかんしゃく玉だよ。わたし、落とし穴の中に入れようと思ったからわかるんだ。落とし穴にはまったら、ばーんって爆発するようにしようと思ったの。少女からとりあげたやつあったでしょ」
――少女。
室長が眉根を寄せたのがわかりましたが、その意味を深く考える時間はありませんでした。
ばつーん!
一斉に空を覆うペットボトル。飛び交うペットボトル。
ばつーんと、爆発するペットボトル。
全て渡り廊下に向けて放たれているようでしたが、強風に煽られ方向を失ったペットボトルは、あちらこちらでばつーん、ばつーん、と好き勝手に爆発して、渡り廊下とわたくしどもを分け隔て無く襲いました。おちゃらけていた男子たちが、いつの間にかどこかに消えています。
「危険だ! みんな一旦渡り廊下に戻れ!」
ばつーんの中で叫ぶ室長の声。盾を傘がわりにして逃げるわたくし。重い。ゆみちんの傘に当たってばいーんと跳ね返り、ばつーんと落下するペットボトル。
副室長は竹刀をバット代わりにして、ペットボトルを打ち返したまでは良かったものの、手元でばつーんと爆発するペットボトルにさすがに怯えを見せました。
「南棟屋上! 部室棟屋上! 体育館屋根!」
ばつーん、ばつーんの雨が屋根瓦にふりそそぐ中、副室長が叫びました。
「ペットボトルはその三カ所から飛んで来てる! 殺してやる!」
副室長が纏う殺気が目に見えるようでした。あの「殺す」は本当に殺すときのやつです。
「待て!」
手っ取り早く近場の体育館へ駆け出さんとする副室長を、室長が制止しました。ばつーん。
「慌てるな。遠距離からの攻撃は想定内だっただろう」室長は副室長の熱を冷ますように、落ち着き払って言いました。「この場合、学校の外を固めている風紀委員本室の人間が、外から的を絞るように渡廊連を追いつめて、逃げ道を無くしたところで、俺達が内から動いてとっつかまえる。そういう作戦だったはずだ。思い出せ」
――昨日、風紀委員本室に赴いた室長は、清掃部委員長より本室の応援を取り付けました。わたくしども落ちこぼれ八人の分室では不安だった戦いも、清掃部さんを始め本室二十二人の精鋭が加わるとなれば話は別です。渡廊連が何人いるのかはわかりませんが、誰一人捕まることなく逃げ切るのは到底不可能。こちらの勝利は目に見えていました。
「そして本室の皆は」
室長は懐をまさぐって――
「俺が清掃部委員長にラインをすることで一斉に動き始める!」と、内ポケットからテレビのリモコンを取り出しました。ばつーん。
「二城野くん、すまない。清掃部委員長に電話してくれないか。はじまるよって」
くそっバッテリーが! と言いながら、室長はリモコンを懐にしまいました。ばつーん。
「嫌だ」
予期せぬ副室長の拒否に、ばつーんと固まるわたくしども。
「清掃部がこの状況で助けに来るわけねえだろ。見ろよ周りを」
たくさんの生徒が、校舎から、体育館から、この様子を観戦していました。渡り廊下がばつーんと悲鳴を上げるたびに、生徒たちから歓声が上がります。その様は、革命によって引き倒される独裁者の像を見に来た観衆に似ていました。体制側のわたくしどもが、皆さんにどのような目で見られているのか――。想像するのは難しくありません。
「清掃部が次の生徒会長狙ってんのはオマエも知ってんだろ。自分の人気を下げるような場所に、あいつが自ら飛び込んで来るわけがねえ。そういうヤツだよ。あいつは」
ばつーん。
「それは君の勝手な思い込みだろう。いいから早く電話したまえ」
「思い出せよ。あいつが今まで、アタシらのために何かしてくれたことがあったか? 分室とはいえ同じ風紀委員なのによ」
ばつーん。
「清掃部委員長は俺を信頼して、全てを任せてくださっているだけだ」
「オマエを手懐けて厄介ごとを押しつけてるだけなんだって。いい加減気づけよ」
ばつーん。ばつーん。
「いいから電話したまえ!」
「だからオマエは馬鹿だって言われんだよ……」
副室長はスマートホンを取り出して数回指を滑らすと、室長に向かって無造作に放り投げました。ばつーん。近くでペットボトルが音を上げ、わたくしは盾に隠れてカピバラにしがみつきます。スマートホンに向かって頷く室長の声は聞き取れません。
電話を切った室長の表情は、明らかに芳しくありませんでした。
「今、本室に生徒会の監査が入って対応にてんやわんやらしい。今回の渡廊連の件で、風紀委員会が何か情報を隠していたんじゃないかと疑っているとのことだ」
――無言のままの副室長。
「応援には来れないということですか?」
わたくしの質問に、室長は頷きました。
「一人もですか?」
室長は頷いて、副室長にスマートホンを投げ返しました。
大人が幼児に向かって吐くような、明白な嘘でした。幼いからこの程度の嘘でも通用するだろうという慢心を感じさせる嘘。にもかかわらず、嘘をつかれているとは思いたくなくて、嘘だと指摘できない――そんな沈黙が室長にはあり、そしてわたくしにもありました。
ばつーん。
「……室長。これはもう先生がたを呼んだ方がよろしいのでは」
「駄目だ。今日の事態がばれないように、カツラ先生は教師だけの土曜昼食会をブラックスワンで企画したのだ。先生は皆そっちに行ってしまった」
声が沈んでいる室長。その室長から敢えて顔を逸らして、ただ悲しげにしている副室長。一方、心配そうに視線を送るだけで、どうすることもできないでいるゆみちん。
ばつーん……。
応援が来ない、という事実よりも、もっと重い何かがわたくしどもを暗くさせます。
ペットボトルの雨を眺め、虚ろな気持ちで途方に暮れていますと、視界の端に何やら激しい動きを見せる姿が飛び込んできました。
「あれは?」
校庭の方から猛然とこちらに駆けてくる生徒がおります。いや、あれは生徒ではなくて――
「少女だ!」室長の声に張りが戻っていました。
「危ない!」
ばつーんと、少女の目の前で炸裂するペットボトル――のかんしゃく玉。
驚いて飛び退いた反動で少女は後ろにひっくり返ると、辺りで炸裂するペットボトルを困惑顔できょろきょろ見回しています。
「……アイツ、もしかして今日のこと知らねえんじゃねえか?」
副室長の呟き。
少女は今日の放課後、ここが戦場になるなど知らずに、普段どおり駆けぬけようとしたのでしょう。他校の生徒である少女が、渡廊連のことを知っているとは思えません。
怯え顔の少女が慌てて立ち上がろうとすると、再び近くでペットボトルが炸裂しました。
「少女! 早くこっちへ!」
わたくしは渡り廊下の屋根に隠れるよう手招きしますが、少女は腰が抜けてしまったのか、立ちあがろうとして、生まれたての仔馬のようにぷるぷる震えています。そして再びばつーん。再びひっくり返る少女。
「少女を狙ってねえか、アレ」
ペットボトルの雨には、悪ふざけがエスカレートする際の「飽きてきたから人でも狙うか」感が漂っておりました。ペットボトルだけならまだしも、ペットボトルに付属した石やかんしゃく玉が、屋上の高さから人を撲てばただでは済みません。少女はもはや頭を抱えてへたり込むのみ。ばつーん。ばつーん。
「助けなければ!」室長が叫びました。「俺は戦うぞ! どんなに馬鹿であろうと渡り廊下対策室長は俺だ! 渡り廊下のことは俺が一番良く知っているのだ! 少女の一人も守れないで何が渡り廊下対策室長か!」
「室長、せめてこの盾を!」室長はわたくしから盾を奪い取るようにして、駆けてゆきました。右手に竹刀。左手に盾。爆発の中をくぐり抜ける室長はまるで騎士のごとく。英語で綴ればknight――。
その後ろ姿を無言で見送る副室長とゆみちん。諦めたような、無事であってほしいような、少なからずの悔しさや悲しさがあるような、複雑に交錯する思いを扱いきれなくてむしろ無表情になってしまったような、そんな風情の二人がおりました。罪なのは室長の鈍感ぶり。でも今はそれを責めるのも可哀想な気がしました。
「鹿野苑、急げ!」
副室長が叫んだのは、少女を直撃しそうな軌道を描くペットボトルが一つあったからでした。気がついた室長の足が速まります。
襲いくるペットボトルと駆けつける室長に同時に気づいて、目を白黒させる少女。
少女を庇おうと、室長が飛び込んだ刹那――
少女のぐうで顔が歪んだ室長がおりました。
ペットボトルから少女を守ろうと、覆い被さるような格好になったのが仇になったのでしょう。室長は少女にただの変態としか思われていないことを失念していたのは大変な誤算でした。ペットボトルと変態が同時に飛び込んでくれば、わたくしとて迷わず変態の方を殴打するでしょう。
磁石が反発するように弾けた二人の間隙を掠めていくペットボトル。二人のすぐそばで爆発しますと、少女はその衝撃に胸を潰して力なく崩れていきました。けれどもそれは、恐怖映画でゾンビーを危機一髪退けたあと、安堵のあまり失神する女優に似ているように、わたくしには思われました。
伸びきった室長。
崩れ落ちた少女。
残されたるは、ダブルノックアウトの風景。
ふと隣を見ると、唖然と立ち尽くす副室長とゆみちん。
不思議なことに、お二人には、示し合わせたようにガッツポーズがありました。




