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     ○


「美月ちゃん知ってる? 明日の放課後、渡り廊下が壊されるかもなんだって」

「ゆみちん、なにゆえそのことを?」

「えー、だってすごい噂になってるよ」

 放課後。二人で分室に向かう道すがら、楽しそうに話すゆみちんはどうみても他人事にしか見えませんでした。朝の張り紙の噂は、黒子さんの行動もむなしく校内に広まってしまったようです。話題に飢えた狼たる高校生の口に戸を立てるのは、容易なことではありません。

 面倒になりそうだねー、と二人で語らいながら分室の戸を開くと、耳に飛び込んできたのは激しい言葉の応酬でした。

 清掃部さんと副室長。

 わたくしたちは、両親が口論している現場に迷い込んでしまったように立ちすくみます。

 こちらに気がついたお二人は、声のトーンと話題をわざとらしくすり替えました。やはり喧嘩の最中に、子供に踏み込まれた親のようでした。珍しい取り合わせとも思いましたが、考えて見ればお二人とも去年から風紀委員会なのです。性格を考えれば、水と油の二人のようにも思えました。

 ――甘いものでも飲んで落ち着いていただかなければ。

 わたくしはカピバラ付きの鞄を放るようにして机に置くと、棚から紙コップを二つ取り出し、特保のコオラを傾けました。

「美月いいよ。こんな奴をもてなす必要はねぇ」

「ですが……」

「ああ、良いんだ。僕はもう失礼するから」

 清掃部さんは立ち上がると、「やはり君も馬鹿だよ……」と副室長に言い残して、部屋を出て行ってしまいました。

「清掃部さんはなんの御用だったのです?」

「こいつだよ」

 副室長が顎を向けた机の上には、今朝の張り紙がありました。

「なにゆえこれがここに?」

「なんだオマエ、もう見たのか」

「朝がた昇降口に張ってあるのを見ました。すぐに誰かが剥がしてしまいましたが……」

 あれ以降、張り紙が新たに張られることはありませんでした。これだけの文字数を毛筆で書くのはさぞ手間が掛かったでしょう。コピーをとるのを忘れた! と嘆く声が聞こえてきそうです。

「朝、カツラがここに来たら置いてあったらしい」

「カツラ先生が」

「奴もだいぶ慌ててたぜ。今回はさすがに職員室にも噂が届いちまったみたいだしな。今ごろ、職員会議で弁明させられてるんじゃねえか」

「でも……また乗り切ってしまうのでしょうね」

「だな」

渡廊連の一連の行いが、今まで職員室内で問題にならなかったのは、カツラ先生が自分の責任を問われることを恐れて、事態を全て隠ぺいしてきたからです。

 ごまかすことに関してカツラ先生は他の追随を許しません。天敵たる校長がいればまだわかりませんが、幸いにもいまだ有休中。カツラ先生得意の、都合が悪くなると号泣しながら唐突に教師を目指した志を訴えだすという力業で、今回も見事乗り切ることでしょう。本当は聞こえているのに、聞こえていないふりをしたりさえします。ふと部屋の隅を目で探すと、やはり見覚えのある黒い衣装が脱ぎ捨てられておりました。

「はやく警察呼びましょうよ」

 張り紙を見ていたゆみちんが、ポテチをはみながら他人事のように言いました。大変効率的かつ的確な解決方法に、わたくしは感心せざるを得ません。

「まあ落ち着け。学校は……というかカツラはだけど、警察沙汰になるのはさすがに避けたいだろ。学校の不祥事とか、生徒の将来性とかってヤツだよ」

「ではこのまま指をくわえて見ているのですか?」

「違う。わざわざ警察に頼るまでもねえ、ってことだよ」

 そのとき、仰々しく分室に入ってくる人の姿がありました。

 室長と……もう一人、お洒落なべっこうの眼鏡のかたが一緒です。

「みんなもちょっと手伝ってくれるか。こいつを施行室の椅子に縛り付ける」

「そんなことをしなくても逃げないよ」

 お洒落眼鏡がため息交じりで室長に返しました。

 あのかたはいったい――

「どなたです?」

 小声で副室長に訊ねると、

「あれが加賀津だよ」

 と、答えが返ってきました。

 加賀津といえば渡廊連の主犯と目されていた男。

 ですが――

「証拠もないのに、これは強引すぎるのでは……」

「つってもなぁ。こんな事態になった以上、もうのんびりと手ぇこまねいてる場合でもねえだろ。どうせこいつが犯人に決まってるんだ。これから拷問でもなんでもして吐かせれば結果オーライってとこさ」

 わたくしどもは渡り廊下を守る正義の味方だったはずです。

 副室賞の発言は、なんとなく特高警察という言葉を連想させました。

「誤解するな。加賀津には任意同行という形で来てもらったのだ」

 室長が副室長の言葉を修正します。加賀津さんは「これが任意同行に素直に応じた人間にする仕打ちなのか?」と呆れ顔で首を振りました。

「まあ、こちらもなんの拠り所もなくひっぱってきたわけではない。これを見ろ」

 机に叩きつけられたるは一枚のレポート用紙。内容をみると小論文の類のようです。

「カツラ先生から、きみが書いた小論文を借りてきた」

「内容が反体制的だとでも言うつもりか? 僕が渡廊連だという証拠としてはさすがに苦しいだろう」

「そんな前時代的なことはせんよ」

 そのとおりです。室長の考えはそんな高度なところにはありません。室長は加賀津さんの目の前で、あの小論文を赤裸々に読みあげるつもりなのでしょう。誤字脱字を逃さずに、不自然な読点もそのままに。きっと、将来は伊国で十番をつけるのだとか途方もない夢が書いてあるに違いありません。さすれば加賀津さんは恥ずかしさのあまり「お願いだからもう読まないで、白状するから」と、涙でしおしおになってしまう。

 さすが室長、相変わらず清々しいまでの畜生です。よくもまあそんな外道な方法を考えつくものだと、一周回って感心するほかありません。そしてわたくしは段々と、こちら側についていて良いのだろうかと不安になってくるのです。

「ゆみくん。そっちの部屋から例の張り紙を持ってきてくれるか」

「はーい」

 ポテチを食べながら事態を観賞していたゆみちん。持ってきた張り紙は、縁のあたりが油でべとべとになっていました。

「見ろ、この犯行予告は手書きだ。毛筆とはいえ、この小論文の文字と照らせば、共通の筆跡の癖がみえてくるだろう」

「筆跡鑑定か。鹿野苑、珍しく冴えるじゃねえか」と、副室長。

 なるほど。わたくしもそうだと思ってました。

「素人の筆跡鑑定なんて証拠になるものか」

「なあに、ある程度一致していれば、あとはプロの筆跡鑑定に任せるさ。カツラ先生もそれで自分の立場を脅かす禍根を取り除けるのなら、鑑定料くらいの金は喜んで出すだろう」

 カツラ先生は自分の地位を守るためなら努力を惜しまない人です。そして努力だけでなく、どうやらお金も惜しまないようでした。

 室長は張り紙と小論文を見比べ、それらしい顔をして唸り始めました。

 ……ですが、これはもはや見比べるまでもありません。

「室長、これは明らかに違う字です」

 わたくしの耳打ちに うーむ、と曖昧に答える室長。

「安心したまえ。これはきっと加賀津の一味の者が書いたのだ。だから筆跡が違う」

 室長は懐からレポート用紙をたくさん取り出しました。

「こんなこともあろうかと、加賀津と親しい人間の小論文も全て借りてきてある。さあ、みんなも照合を手伝ってくれ」

 室長が、ふっふっふっと、自信の笑みを見せつけると、加賀津さんが「みんなに悪いな……」と、悲しげな顔をいたしました。


「――おい、鹿野苑。どうなってんだよ。どれも合わねえじゃねか」

「どう拡大解釈して見ても、わたくしには全部違う字に見えます……」

「でもお、ぬとめってなんか似てるよねー」

 わたくしどもの声にひたすら首を捻るだけの室長。答えがないとは正にこのことです。

「もうメンドくせぇからこいつ犯人にしちまおうぜ。筆跡鑑定なんて後で適当にでっちあげればいいだろ」

 副室長が恐ろしいことを言いました。

「待ってください。それでは解決になりません。重要なのは真犯人を見つけて、明日の破壊行為を事前に止めることです」

「んなことはわかってるけどよー。アタシにとって重要なのは、さっさと片付けて早く帰りたいってことだけなんだ」

 ああ、なんという公職の横暴でしょう。そのとき「あのさ」と、ぽつり呟く人が一人。ずっと沈黙を守っていた加賀津さんでした。

「確かに、渡り廊下を歩くカップルを妬ましいと思ったことはあるし、去年の卒業式でいたずらしたのも認めるけど、だからって渡り廊下を壊そうだなんて普通考えないよ。そんなことしたら最悪退学だよ? どういう風に思考が飛躍すればそうなるわけ? こわい」

 はて、困りました。なぜわたくしどもが、姿をろくに見たこともない加賀津さんを今まで犯人扱いしていたのか、再考せねばならぬほどの正論です。そもそも加賀津さんを容疑者と勝手に決めつけてしまった原因はなんだったでしょうか。

「嘘をつけ!」と、室長が突然大きな声で怒鳴りました。「ともかくだ。きみは明日の放課後拘束させてもらう。どうだ困ってしまうだろう」

「別にかまわないよ。それで疑いが晴れるのなら」

 室長がたじろぐのがわかりました。それは、なんだかんだ言っても結局お前が犯人なんだろうと確信していて、明日拘束すると言えば慌ててみせると思っていたのに、むしろそれで無実が証明できるのならお安い御用だという態度を容疑者にとられたときのたじろぎ方に見えました。

「なんならそこにある小論文の友達もみんな連れてこよう。僕のせいでみんなが疑われるなんて可哀想だ」

 加賀津さんは堂々としながらも、少し悲しげに言いました。ここに至って友人を気遣えるような気心のあるかたが犯人だとは、わたくしにはもはや思えませんでした。そもそも、あんなにお洒落なべっこう眼鏡をかけているのに本当に犯人なのかな? と、わたくしはずっと思っていたのです。

「でも、明日僕たちが拘束されているにもかかわらず、渡廊連が動いたとなればこれは誤認逮捕ということになるね。社会的には、僕は精神的苦痛を与えられたということで、きみに損害賠償を請求できる立場になる。でも僕はそんなことしないよ。謝罪を要求したりもしもない。僕はただ、いつも同じクラスで話していたきみに、そんな風に見られていたというのが悲しいだけなんだ。昼食を一緒に食べていたときも、ウノを一緒にしていたときも、笑顔の裏できみは――」

 加賀津さんのお話に、室長は棒立ちのまま目を潤ませておりました。昼食やウノを一緒に嗜んでいた友人を疑うなんて、人としてどうかしているとしか思えません。どちらが悪で善なのかは、もはや一目瞭然でした。

「こりゃシロだな……」副室長が呟きました。

「どうにも眼鏡がお洒落すぎると思っていたのです」わたくしは頷きます。

 加賀津さんのお話は、負けないこと、逃げ出さないこと、そして信じること、それが一番大事なんだということから、『しんじるこころ』がないと一生クリアできないゲームさえあるということにまで及び、室長の目からついに涙が落ちました。良心の呵責。あれはもうギブアップでありましょう。「加賀津先輩」と、話を止めに入ったのは副室長でした。

「先輩、アンタらが渡廊連じゃないってことは理解した。鹿野苑の馬鹿がすまなかった。でも一応、明日はこの部屋にいてもらってもいいかな。アンタらのためにもその方がいいと思うんだ」

「望むところだよ。僕たちは明日、自らこの部屋に閉じ籠もろう。僕たちがここにいたと証明してくれる人を誰かつけてくれるかな?」

「ああ、勿論です。アンタが物わかりのいい人で良かった」

 副室長が凄い形相で室長を睨みつけますと、室長は涙に濡れながら加賀津さんの拘束を解き始めました。

「宜しければ棚にある御菓子も自由につまんでください。特保のコオラもありますから」

「ありがとう。失礼にならない程度にいただくよ」

 なんと謙虚なかたでありましょう。特保のコオラをもってしても表しきれない敬意。そして棚のポテチをいそいそと隠し始めるゆみちん。

「じゃあ今日は失礼させてもらっていいかな」

 拘束を解かれた加賀津さんが立ち上がります。

「待て!」と、声を上げたのは室長でした。

 室長は加賀津さんを押しのけ拘束椅子に座りますと、右手だけを使って、器用に自分の手足をベルトで縛り上げます。

「さあ、俺を殴れ!」

 その言葉にパブロフのわんちゃんのごとく反応する副室長。すかさず竹刀を振り下ろしますと、室長はそれを右腕で防ぎました。

「防ぐなよ」

「きみじゃない」

 問答無用とばかりに竹刀が室長の右腕を打ち続けます。加賀津さんは「僕の分は彼女にお任せするよ」と言い残してお帰りになりました。

 取り残されたるはわたくしども四人。

「どうすんだよ。オマエが馬鹿なせいで、渡廊連の手掛かりが完全にゼロになっちまったじゃねえか」

「だってあいつだと思ったんだもん……」

 子どもの当て推量もいいところです。ああ、どうして室長の言うことなどを今まで鵜呑みにしてきてしまったのでしょうか。お馬鹿の推理は小説のように成り立ちはしないと、わたくしは先に理解しておくべきでした。お馬鹿の考え休むより酷しです。

「もはや犯人捜しをしている時間はないな。こうなってしまった以上、明日渡り廊下が破壊されることを前提に作戦を立てるしかあるまい」

 開き直った室長が、拘束されたまま声を張り上げます。

 破壊されるという言葉が、わたくしの耳にしん、と残りました。裂けた生木。破れる皮膚。『攻撃はかつてない規模で行われる』と、張り紙には書いてあります。渡り廊下は明日、いったいどんな目に合わされてしまうのでしょうか。

「つーかよ、渡り廊下なんてもう放っておきゃいいだろ。どーせ、渡り廊下も対策室も、校長以外誰も必要となんかしてねぇんだし、うちらにだって誰も期待しちゃいねぇんだよ。オマエは馬鹿なくせに、なんで変なとこだけ真面目なんだ?」


 ――『こんな渡り廊下どうでもいい』『っていうか邪魔?』

 あの女はそう言って、落ちこぼれの渡り廊下に、罵声とペットボトルを叩きつけました。


「放っておくわけには参りません!」

 自分でも驚くほど大きな声でした。副室長が目を丸くしてこちらを顧みます。

「確かにわたくしどもは駄目集団で、誰にも期待されていないのかもしれません。でも、ここで何もしなかったら、渡り廊下も守れなかったら、自分でも良くわからないのですけど、本当に駄目になってしまう気がするのです……」

 わたくしはそこで口ごもってしまい、それ以上言葉が繋げずに立ち尽くしました。説明ができないのは、やはりわたくしが馬鹿だからなのでしょう。自習でにぎわう教室で、「静かにして!」と一人声高に叫んでしまった学級委員長のような気恥ずかしさだけが、わたくしに残りました。

「水無月くん、よく言った」室長の手が肩に優しく手が置かれたとき、強ばっていた自分の体に気がつきました。そして同時にそれがへなへなと抜けていくのも感じました。

「だがな、俺たちは誰にも期待されてないわけじゃないぞ。少なくとも本室の清掃部委員長は俺たちを信用してここを任せてくださっている。今日だって張り紙の噂を心配されて、わざわざ俺の教室にまで来てくださったのだ。あれ? そういえばこの部屋には来なかったか? 張り紙が見たいとおっしゃっていたのだが」

 わたくしは思わず副室長の方を見ました。勝手に「来た」と言って良いような気がしなかったのは、口論していたお二人が思い出されたからでした。

「だから、オマエは馬鹿だってんだよ……」

 副室長はそれしか言いませんでした。その言いぶりには、馬鹿に対する呆れ、諦めというよりも、むしろ哀れ、悲しみといった感情がこもっているように思えました。

 室長は首を傾げて、「馬鹿じゃないもーん」と言いながら張り紙をくるくる丸めます。

「じゃあ俺はちょっと清掃部委員長のところに行ってくる。相手が何人いるのかも、どうやって破壊工作をしてくるかもわからんとなれば、本室にも応援を頼まないとな。人手は多い方がいい」

「勝手にしろ。アタシゃ知らん」と、ふてくされて副室長。

「あ、渡り廊下にいる末吉たちも誰か呼んできてくれるかな。これから作戦会議するからって。渡廊連も今日は行動を起さないだろう。少女も今は好きにさせていい」

「室長、このわたしがいってきます!」ゆみちん。

「あとこの部屋、作戦会議の形を作っておいてもらえる?」

「特保のコオラも準備いたしましょう!」わたくし。


 部屋に残されたわたくしと副室長。

 憮然とする副室長に声を掛けがたく、わたくしは一人で机と椅子をふうふうと動かします。

 ――と、背後でも机が動く気配がごとり。

 振り向くと――

「……手伝うよ」

 背中を向けたまま、副室長は言いました。


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