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その日の夜に、不吉な予感の前兆はありました。
その違和感に襲われたのは、電灯を消して、床に潜り、今日の日にさようならをしようとしたときでした。
寝てしまうわたくしを寂しがるように、いつも聞こえてくる回し車の音。
でも残念ながら、その音はわたくしには心地よい子守歌のように耳に響いてしまって、その思惑もむなしく、わたくしを安眠をさせてしまう回し車の音。
その音が、今日は聞こえてこないのです。
跳ね起きて押し入れのケージに駆け寄ると、ハムハムは巣箱の中で静かにしておりました。
まさか。
と思った瞬間、行燈の薄明かりの中で尻尾をふりふりとさせるハムハム。
ほっとしたのもただいっときでした。
夜行性のハムハムが、この時間にこんなに大人しいはずがないのです。
互いの時間がすれ違う生活は、わたくしを悩ませたこともありました。
同棲を始めてまだ間もないころでした。夜な夜な期末試験の勉強をするわたくしを顧みずに、毎晩回し車に入り浸るハムハム。からからからからと、その音はわたくしの集中を乱しました。
『わたくしの時間なんてあなたは考えてくれない!』
自暴自棄になったわたくしは、夜の台所に飛び出して、キツめのコオラを飲みながら、行きずりのオオカマキリと一夜を共にしたのです。あんな腕のとげが多い男に身を任せるなんて、今考えればどうかしていました。ですがわたくしもまだ若かった。十一時には寝ました。
そんな喧嘩があった日でさえも、素知らぬ顔で回し続けていたハムハムが、今日は回していない。
雨の日も風の日も、雪の日でさえも、毎日ケージの中で回していたのに、今日は回していない。
通学路で毎日同じ時間にすれ違っていた人が、どうしたことかすれ違わなかった日のような、そんなもやもやとした感覚に襲われました。
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どんよりとした朝でした。登校時刻はいつもどおりの七時四十分です。昇降口でお気に入りの花柄スリッポンを脱ごうとしますと、下駄箱の奥、通路の方に人だかりが見えました。
――新聞部が愉快な号外でも?
近づいてみますと、皆さんの視線はなぜか一様に宙に向いています。視線の先の窓硝子には、大きな模造紙が張り付けられ、そこには毛筆の文字がのたくっておりました。
『 全校生徒 様
我々は、皆様ご存じ渡り廊下改革連合である。
ご存じでない方は、初めまして、渡り廊下改革連合といいます。
我々は、本校の傲慢なる渡り廊下に革命を起こすべく、生徒の声を代弁してきた者である。
我々はこれまで、渡り廊下に対する不満を学校に訴え、改革のために奔走し、時に行動を起こしてきた。
だが、学校側は我々の要求を、一切聞き入れる様子がない。
それどころか連中は、我々の存在を故意に隠蔽し、この学校から革命の機運を除き去ろうと企んでいる。我々の行動が問題になっているような気配さえ感じられない。これでは我々がいかに果敢に戦い続けようとも、虚しい一本の矢のままである。
そこで我々は、渡り廊下に改革の風を吹き込むためには強硬手段もやむなしと、今回判断せざるを得なかった。
明日、土曜日の放課後、午後一時。
我々は予告無しに渡り廊下を攻撃する。
この攻撃はかつてない規模で行われる。この行動を目にした生徒が、我々の志に共鳴し、我々の同士たるべく手を挙げてくれることを願う。
そしてこれは学校への宣戦布告であるとともに、善良なる一般生徒への避難警告でもある。
これまでも我々は、生徒の安全を第一に考え、周囲に人がいないことを必ず確認し、人身事故ゼロを目標に掲げて、地道に渡り廊下の破壊活動を行ってきた。いささか地道すぎたと、今となっては反省さえする次第である。
ときに渡り廊下対策室の諸君。放課後の張込み、毎日ご苦労なことである。放課後は常に君たちが渡り廊下の周辺にいたせいで、我々は攻撃ができないでいた。危ないだろう。まさに君たちの思うつぼだ。
だが、明日は容赦をしない。
校長の犬たる渡り廊下対策室の人間は、渡り廊下を少々走っただけの罪なき生徒を捕らえ、『施す』などと称して、己のストレスを解消する為に利用してきた。万死に値する。邪魔をしようものなら、我々はどさくさに紛れて、君たちに制裁を加えることも辞さないだろう。
渡り廊下改革連合 』
「渡り廊下改革連合ってなに?」「知らね」「誰?」「知らね」「勝手に代弁スンナ」「予告してるし」「でも渡り廊下をどうにかしてくれるならいいや」
そんな声が周囲を飛び交っています。
「これは大変なことになった!」
わたくしは心の中でひとりごちました。
わたくしの登校時間は早いほうです。今ならまだ人も多くありません。大ごとにならぬうちに引き剥がすなら今しかない気もします。どなたかの判断を仰ぎたいところですが、室長たちもまだ登校されていないでしょう。
どう行動すべきか逡巡していたところ、突如、黒子のような格好で現れた人型が一人。その黒子は担いできた椅子に上ると、舞台背景でも取り変えるように、いたく手際よくそれをひっぱがしていきました。




