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     ○


 どこをどう走ったのか自分にもわかりません。何かから逃げるように走りましたが、何から逃げていたのかもわかりません。ただ気がついたら屋上にいました。

 人が誰もいないことにほっとしました。わたくしは貯水棟を囲むフェンスに背中を預けると、夕日を眺めながらひとりめそめそと涙を流しました。

 あの女は、ちょっとついでにと、レジかごに飴でも付け足すかの感覚で、人の痛いところを的確に突いていきました。

 あんなに茶髪で、山風信者で、お話も書けないような人間が、わたくしを馬鹿にしていいはずがないのに。

 あんなに籠球が得意で、彼氏がいて、餌を探すための電気受容器であるロレンチーニ器官を持つ魚類はサメとエイだけということも知らない人間が、わたくしを見下していいはずないのに。

 それなのに、なんでわたくしがあのような態度をとられなければいけないのでしょう。

 それがわたくしは悔しかったのです。

 少しづつ涙の制御が利くようになって、落ち着きをやや取り戻すと、わたくしは周囲に感じるささやかな気配が気になりました。カナリアのごとく空気を敏感に察するわたくしです。毒ガスをいち早く察知するカナリアは、その昔、炭鉱の毒ガス調査に重宝されたといいます。

 見回しても人はおりません。虫の息づかいさえ感知してしまうわたくしの、ただの気のせいだったのでしょうか。

 ですがあの気配は確かに霊長類のもの――。

 わたくしは気味が悪くなり、思わず「そこにいるのはわかってるぞ!」と叫びました。

 誰もいないはずの部屋で物音がしたときなどに使うと大変便利な台詞です。

「――わりい。のぞき見するつもりはなかったんだけどよ」

「うひゃあ」

 わたくしは腰が抜けそうになりました。まさか本当にいるとは思っていなかったからです。考えてみれば、その台詞を使って人が出てきたことは、今まで一度もありませんでした。

 ですが、見回してもやはり誰もおりません。声も何やら妙ちきりんな方向から聞こえた気がしますが、どこなのかがわかりません。

「上、上」

 見上げると、貯水棟の上から顔を出す人がありました。

「副室長!」

「オマエもこっち来ねえか。眺めいいぞ」

 と言われましても、貯水棟は高いフェンスに囲まれ、扉には鍵がかかっています。

「そこ、鍵壊れてっから」

 見ると確かに錠前は掛かっているように見えるだけで、機能はしていませんでした。壊れてるというよりは、打撃によって壊されたといった風です。犯人が誰かは敢えて考えないようにしました。

 貯水棟の裏にあるむきだしの鉄はしごを十段ほどのぼると、バッグを枕に寝そべる副室長がおりました。傍らにはくらげのお化けのような貯水槽がそびえたっています。

「いらっしゃ――あはは、なんだよそれ、可愛いな」

 副室長はわたくしの帯にぶら下がるカピバラを指して笑いました。

 カピバラをいちいち抱えて持ち歩くのも手間に思えたわたくしは、昨晩、縫包にナス環をお裁縫して、鞄などにぶら下げられるようにしておりました。そして今、鉄はしごを上るのに不都合だったカピバラは、そのナス環を利用してわたくしの帯にぶら下がっているのでした。

「それじゃ、美月にカピバラがくっついてるのか、カピバラに美月がくっついてるのかわかんねえな」副室長は冗談めかして笑います。わたくしの背がいくらちんまいとはいえ酷い言われようです。

「なんでそんなもん持ち歩いてんだよ」

「これは……その、危ないから……」


 ――水無月さんって言い訳っぽいんだよね。


 頭の中で、嫌な声が再生されました。

「危ない? ふーん」と、副室長は曖昧に鼻を鳴らしました。多分良くわかってない、そんな感じの返事です。副室長はわたくしからカピバラを取り外しますと、バンザイの格好で持ち上げて、そのまま睨み合っていました。

「まあ……美月がそう言うなら危ないんだろうな」

 わたくしは固まりました。

「だってほら、見てみろよ。こいつ目付きが怪しいぜ」

 副室長は縫包の目を、指でみよーんと引き延ばして見せました。副室長は笑いました。けれどわたくしは――

「おいおいおい、なんだどうした。泣く泣くな。よーしよーし」

 わたくしの目から勝手に、また涙が溢れていました。先ほどの悔しい思いが甦ったこともあります。副室長が無条件に信じてくれて嬉しかったこともあります。そしてもう一つ、そんな副室長にまで嘘をついてしまった、素直じゃない自分への嫌悪があります。

「泣いてた理由、訊いてもいいか」と、副室長はわたくしの頭を撫でました。副室長の暖かい手に、わたくしは喉を撫でられた猫のように屈服してしまって、泣いていた理由を全て白状させられました。

 ゆみちんの落とし穴を馬鹿にされたこと。

 目の前で渡り廊下にごみを捨てられたこと。

 核心を突かれて何も反論できなかったこと。


 ――そして、落ちこぼれ集団、と、なじられたこと。


 話しながら思い出してしまって、またぽろぽろと涙を落としました。

 真剣な表情で聞いていた副室長が、突然、ふふふと笑みを漏らしました。

「美月はまさか、あの対策室が選りすぐりのエリート集団だとでも思ってたのか?」

「エリート集団だなんては……思ってません。でも……」

「いやいや、どうみても馬鹿の集まりだろ」

 副室長は歯に衣着せぬ言いぶりで、わたくしが考えないように被せていたシートを剥ぎました。


 ――自分が若干駄目な娘であることくらい、本当はわかっていました。


 体育は何をやっても盆踊りになってしまいますし、勉強とて生物以外の理系教科は総じて駄目。文系教科にしても心の拠り所は国語のみで、英語などは未だに「に・ぐ・へ・と」と心の中で呟かないとnightを綴れない体たらくです。そんなわたくしがthroughスルーという単語に初めて直面したときの衝撃など、誰にわかるでしょうか。とへろうぐふ。through the nightスルーザナイトともなれば、もはやとへろうぐふざにぐへとです。いったいどこの国の言葉だというのか。

「『お前らは落ちこぼれの集まりだ!』なんて直接言ってくる奴は普通いねえけどな。でもたまにいるんだな、そのミサってヤツみたいなのが。なんならそいつ、アタシがシめてやろうか?」

「暴力は……いけません」

「心的なやつならいいか?」

「駄目です」

 副室長はちぇっ、と本気で残念がりました。

「まあよ。ぶっちゃけちまえば渡り廊下対策室なんて、風紀委員会内の、体の良い厄介払いだよ」

 副室長は次々とシートを剥いでいきます。


「――アタシらは、面倒事を押し付けられた落ちこぼれ集団ってとこさ」


渡り廊下対策は、皆が避ける面倒な仕事です。あんな渡り廊下を良く思う生徒は誰もいませんし、渡り廊下対策室はそんなものを守ろうとする体制側の組織です。校長の犬。そんな風に揶揄する人だっています。皆が嫌がる仕事。皆から嫌われる仕事。それを「仕事に貴賤はないから」という大義名分をもって、そこ――南棟最上階の端っこにある分室――に追いやられたのが、わたくしども落ちこぼれ集団です。


「――誰も口にしなくても、メンツ見ればわかっちまうよな」


 普段の対策室の様子を見て、優秀な集団だと思う人は誰もいないでしょう。

 わたくしどもは「渡り廊下対策室員選出会議」で推薦されたメンバーでした。

 でもそれは名目に過ぎません。本当は推薦という名の厄介払い。教室内で暗黙のうちに押しやられていく下位カーストのようなもの。わたくしも端から見れば、いつも着物を着て、書き物ばかりして、妙に動物や虫に詳しい変な娘にしか見えないでしょう。運動だって勉強だってできません。

 でもわたくしは、自分が厄介払いされたなどという事実は信じたくありませんでした。認めたくありませんでした。自分は違う――自分は特別なんだ――と、思っていたし、思いたかった。

「……副室長は容赦ないですね」

「ん。落ちこぼれなんかじゃねえ、って言ってほしかったのか? 今更、そんな嘘くせえ薬塗ってごまかしても仕方ねえじゃねえか。それに馬鹿が悪いって言ってるわけでもねえよ」

「馬鹿って言った」

「もういいだろ。アタシだって馬鹿の一員だ」

 それは違う、とわたくしは思いました。

「まあなんだ、そのミサってヤツはバスケが上手いし、男にもてるのかもしれねえ。でも、美月だってお話を書けるし、なんちゃら器官を持つ魚がサメとエイだけだって知ってる。優越なんてねえよ。それに世の中、好きなことを一点突破で極める人間の方が強いもんだ。いただろ、ただの魚好きの素人タレントだと思ってたら、いつの間にか海洋大学の教授にまでなっちまったヤツ。だから美月も好きな動物の話を書き続ければいいんじゃねえか。オマエみたいなやつが案外シートンやファーブルみたいになるのかもしれねえぞ」

 読んだことねえけどな、と、副室長は笑いました。

 シートンの『わたしの知る野生動物』。ファーブルの『昆虫記』。一番下の左隅――わたくしの本棚で、小学校以来ずっと不動の位置を占めています。

 まるで乗り移ったかのように、うさぎのぎざちゃんの心を描くシートンの繊細さや、第一巻の書き出しにフンコロガシの話をもってくるファーブルの大胆さには、今でも心揺さぶられてしまいます。

 自分がそんな風になれるかもしれない――。

 恐れ多すぎて考えるのも憚られることです。でも夢には見たことがありました。

 そんな副室長の励ましは、わたくしを勇気づけるには十分でした。

 そして強まっていくのは――やはり副室長はわたくしたちと同じではないという思いです。

「副室長は……馬鹿なんかじゃないです」

「アタシだって馬鹿だよ」

「だって副室長は対策室に立候補したじゃありませんか。推薦ではないです」

「この前、打算だって言ったろ。アタシゃ馬鹿だし、こんな性格の嫌われもんだからな。だから自らから進んで対策室に立候補したのさ。馬鹿は馬鹿同士の方がおもしれぇしな」

台詞でも読むように言いながら、副室長が都合が悪そうに目を伏せるのをわたくしは見逃しませんでした。

「嘘です」

「嘘じゃねえよ」

「じゃあどうして、最近分室にいらっしゃらないのですか?」

 ――わたくしは、ずっと不思議に思っていた副室長の行動がありました。

「あのクソ女追いかけんの、もうメンドくせえんだよ」

 ――ブラックスワンでのお食事の日。少女出現の連絡を受けて学校に戻る室長を、副室長は追いかけていきました。

「元々寝てるだけだったんだしよ。アタシが居ても居なくても変わんねえだろ」

 ――寝てるだけのやる気のない副室長が、あの日好物のブラックチョコケーキを投げ出してまで室長のあとを追った理由。

「では……副室長は寝るだけの分室に、なにゆえ毎日欠かさず顔を出していたのです?」

「し、出席だけでもしておかねえと駄目だろ……」

「じゃあどうして、最近分室にいらっしゃらないのですか? あ、最初の質問に戻ってしまいましたね。同じ答えは駄目ですよ。答えに矛盾があったから戻ってしまったのですから」

「……体調わりぃんだよ」

――室長を追いかけた理由が、あの日同じように室長を追いかけていったゆみちんと同じだったとしたら。

「副室長は嘘をついてます」

「嘘じゃねえよ! るせぇなもうほっとけよ!」 


 ――『鹿野苑、オマエ、あの女に惚れたんだろ』


 その質問に室長の目が泳いだ次の日、副室長は分室に来なくなりました。

「もしかしたら副室長は室長のことが――」

「やめろ!」

 副室長の鋭い声がわたくしの喉を貫きました。

「それ以上言いやがったら、たとえ美月でも容赦しねえぞ」

 わたくしはそれ以上言うのをやめました。

「……鹿野苑の馬鹿もよ。馬鹿なんだから馬鹿なりに適当にやりゃいいのによ。ったく馬鹿馬鹿しいったらねぇよ。あの馬鹿は」

 乱舞する馬と鹿。人を好きになる形にも色々あるのかもしれません。

「……アイツはどうしていつも真剣なんだろうな。清掃部に面倒事押しつけられてるだけってわからねえのかな」

 屋上の扉が開く音がしたからでしょうか、副室長は話を断ち切るように立ち上がると、貯水棟の縁に移動しました。腰をかけて足をぶらぶらさせています。カピバラを抱きかかえて、一緒に夕日を眺めているようでした。わたくしも肩を並べて、一緒に足をぶらぶらさせました。吹奏楽部員がトランペットを練習する音がどこかで鳴っていました。

 副室長を応援します。そう簡単に言えたなら、こんな沈黙に苦しむこともなかったでしょう。

 去年から風紀委員を続けているお二人にどんな物語があるのか――わたくしは知る由もありません。ですが、副室長は室長がいるから対策室に立候補したのは、明らかなように思えました。副室長が秘めていたそんな不器用な想い。どうして応援せずにいられましょうか。

 ですが、わたくしには――

「あ、美月ちゃんやっとみっけた! やったあ、ふくしつちょーもいる!」

 屋上をきょろきょろしていたゆみちんが、やっとこちらに気づいたようでした。

 笑顔でこちらに近づくと、「いいなーそこ。美月ちゃんずるい。わたしも行きたい」と、フェンスをがちゃがちゃさせて「しつちょー! 美月ちゃん発見です。ふくしつちょーも」

 副室長の気配が不自然に変化した気がしました。

 あんな話の後だからわたくしが勝手にそう思っただけなのかもしれません。

 視線の先に現れる室長。

 室長はこちらの姿を認めると、何も言わずぐいぐいとフェンスをよじ登ってきました。鍵が開いてることを今は伝えていけないような迫力がありました。

「水無月くん、良かった。探したのだぞ」

「ご心配かけてすみません」

「いや、元気そうで良かった良かった」

 視界の隅で、そそくさと逃げる副室長――

「待て!」

 張り上げられた声に、副室長が反応しました。

「二城野くん、どうして無断で分室を休んでいる!」

「……うるせぇな、なんでオマエにいちいち断る必要あるんだよ。死ね」

 ああ、なんと不器用な副室長の愛。

「し、室長なんですから、一応俺に断ってくれても――」

「うるせえ。馬鹿に断る必要はねえって憲法にも書いてあんだろ!」

 え、そうなの? と、不安げにわたくしに訊ねる室長。

 確か憲法は、馬鹿の人権も平等に尊重してくれていたはずです。

「まて、まず俺は馬鹿じゃない」と、室長は冷静に否定しました。

「うるせえ」と、副室長が振り回したスポーツバッグが室長を強かに打ちました。「馬鹿!」「阿呆!」「から揚げ愛好会!」罵声とともに、副室長は室長にやたらめったらバッグを叩きつけます。激しい愛の形でした。それを防ぐこともなくじっと耐える室長は、どこか嬉しそうでした。わたくしには理解できない、積み重ねられた関係を感じました。

「――せめて携帯にくらいでてくれ。心配するだろう」

 バッグの手を止め、肩で息をする副室長に、室長がぼそり。

 副室長は「……ごめん」とだけ言って、また貯水棟の縁に戻って行きました。

 室長は何も言わずに、その隣に腰をかけました。

 丁度、貯水棟のはしごを上り切ったゆみちんが「美月ちゃん心配したんだよー」と言いながら、わたくしに目をくれず、まっすぐ室長の隣に座りました。

 だから、わたくしもその隣に腰を下ろしました。

 ――雌の方が派手な装いを示す動物社会は人間だけである。

 そう書いたのは『利己的な遺伝子』のリチャード・ドーキンスだったでしょうか。世のほとんどの動物は、雄が雌を巡って争う社会のため、雄は派手になり、雌は地味にならざるを得ないのだと言います。ところが人間は――。

 雌が雄を巡って争う社会が、ここにも発生してしまうのでしょうか。

 争いの先にいるのは地味な雄。そして彼が見つめているのは。

 見下ろすと、そこには渡り廊下を縦横無尽に駆けぬける少女の姿がありました。末吉さんをはじめ四人の分室員が翻弄されています。

「いいのかよ、あれ。ほっといて」と、副室長。

「今日はあいつらに任せよう」と、室長。

「あはー」と、突然吹き出すゆみちん。

 わたくしたちも眼下の光景に笑ってしまいました。

 少女と分室員の追いかけっこに合わせて、先ほどのトランペットが『クシコスの郵便馬車』を演奏し始めたからです。

 その光景はまるで小学校の運動会のようでした。

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