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 ○


 自分の仕事をやり遂げたとばかりに、ドアの前で力尽きている斥候さん。

 室内には穏やかな副室長の寝息。

 そしてコオラを啜るわたくし。

 炭酸のぱちりぱちりとはじける音が線香花火のごとく耳に響きます。

 漆黒の深淵から次々と浮かび上がる泡つぶは、まるで夜空を震わす流星群。その小さな宇宙を一つまるごと胃袋に収めるこの幸せは、わたくしのような小娘には過ぎた贅沢にさえ思えます。過分な贅沢は女の敵。コオラという名の幸せを、古来より収め続けた本場米国人のお腹は、ピツァやバーガーなどの惑星を抱いて、もはや大宇宙に近づきつつあります。

 ですから、わたくしが常にダイエットコオラを選ぶのは乙女の慎みというもの。ダイエットコオラ。ダイエットと名に冠するからには、飲めば飲むほど痩せられるに違いありません。こんなに甘いのに零カロリー、砂糖不使用でダイエットと、乙女心を掴んで離さない単語の大行進。

 しかし、これは一寸あり得ない理論です。世の中そんなに甘いはずがありません。コオラが甘い世の中は、乙女のお腹には辛いはずなのです。

 そうなるとこれは、人を惑わす薬物の類が混入しているのではないか――いえ、あのジャスコでも売っているものですから、さすがにそれは大袈裟だとしても、なにか体に良からぬ保健衛生的グレイゾーンのものが? と、わたくしなどはつい疑うのです。

 そこでわたくしは思わず、それは半ば衝動的にインターネットの電源を入れますと、「ダイエットコオラ 騙されてる」で検索。するとあの甘みはアスパルテームとアセスルファムという、汚れなき乙女の憎悪と憤怒の――

「きみも追いかけて来いよう……」

 コオラの海を深く潜っていたわたくしは、その声で我に返りました。

 隣にはいつの間にか室長が立っております。肩で息するその手には、首根を掴まれた男子生徒。

「どなたです? それは」

「田中光男だ」

 室長は分室の奥にある『施行室』のドアを開けて、中にぽいっと田中を放り投げました。

「駆けぬける少女ではなかったのですか?」

 室長はわたくしの質問に黙ってかぶりを振ると、入口のドアの前で倒れていた斥候さんを叩き起こしました。

「駆けぬける少女ではないじゃないか」

 室長は斥候さんにわたくしと同じ質問をします。

「嘘つき!」「夢を踏みにじられた!」「田中と少女では雲泥の差!」

 室長についていった男子三人も、斥候さんを非難します。斥候さんも負けじと反論。

「おれ暴走者が出たとしか言ってないっす。少女なんて言ってないっす」

 むうと唸る室長。そうだったやもしれんと三人。そうだったのだと斥候。

「ともあれ成果があったから良しとしよう。走ったから喉が渇いたなあ。お茶でもあるといいんだがなあ」

 なにやら殿方の視線をちらちらと感じましたので、わたくしも二リットル九十八円の烏龍茶を、紙コップに注いでやるくらいの女らしさは見せようと思いました。

「女性陣もたまには渡り廊下の取締りに協力してくれないかなあ」

 呆けた老人のひとりごとのごとく声を発した室長。突っ伏したまま動くことをやめた副室長とわたくしにおっしゃったのでしょう。それは、文句一つ言わずお茶を注ぐわたしに向けられた、明白なセクハラでした。

「ですが、この格好では……」

 藍地小桜文の裾をぴらりと広げて見せるわたくし。二部式着物というものは上下が分かれておりまして、着付けもいらず大変動きやすい和装なのですが、人を追うにはさすがに不向きです。着物の取り回しづらさは男性には伝わりにくいでしょうけれども、それくらいは察していただきたいのですが……。

「なら、洋服を着たらいいだろう」

「それはできません」

「なぜだい?」

「意地です」

 風紀を乱す服装をしているわけでもないのに、服装の変更を強制するのは横暴でありましょう。「意地なら仕方がない」と、納得する室長の顔はクサムラツカツクリを思わせました。蛇足ですが、クサムラツカツクリという鳥は草むらに塚を作ります。

 ――つと、ドアをノックする音がしたかと思うと、こちらの返事を待たずにドアが開きました。

「やあ」と、気さくに姿を現したのは風紀委員長さんでした。わたくしたち分室の活躍ぶりを、もう聞きつけたのかもしれません。

 風紀委員長の二年生、清掃部晴人ちりのぞきはるとさんは、次期生徒会長との噂も高い一角の人物です。

 権力に媚びる――わたくしはその手の立ち回りはしない人間なのですが、見ればたまたま特保のコオラがあったものですから、グラスに注いで清掃部さんに進上しました。特保のコオラは通常のコオラよりも三割ほども高級(一.五リットルで比較)なのです。

 清掃部さんは「ありがとう」と、爽やかに微笑みながらも、表情を困惑に変えて「でも、のんびりもしてられないんだよ」

「まあそう言わず一杯付き合っていってくださいよ。いま早速一人挙げたところなんです」

 室長は『施行室』の方を指して、機嫌良さそうに笑います。

「それは見てたんだけどさ……」

 なにやら浮かない表情の清掃部さん。

「たった今、例の少女が走って行ったんだよ。渡り廊下を」

 点になった室長の目はまるでオカメインコのよう。オカメインコが突然ばさばさと暴れだす症状は通称オカメパニックと呼ばれています。

「しまったあああああああ」と、室長は髪をばさばさ掻きむしって「斥候はなんで知らせん!」

「だって……そこでお休みになっていらっしゃいます」

 わたくしが指差すと、ドアの脇で呑気に烏龍茶を啜っていた斥候さんが、ぐふりと唐突に力尽きました。

「くそ! 斥候がいない隙をつかれるとは。田中は少女が放った陽動だったのか!」

 室長が怨声を上げると「部活に遅れそうだっただけだぞう」と『施行室』の中から声がしました。

「委員長すみません。俺としたことが少女の作戦にまんまと出し抜かれました」

「うーん。というかさ。僕、見てて思ったんだけど、その斥候さんが直接捕まえた方が早いんじゃないかなあ。わざわざみんなを呼びにくるんじゃなくて」

 なんたる盲点でありましょう。さすが清掃部さん。やはり秀でた頭脳の持ち主なのだと再認識せずにはおれません。

「あとさ。鹿野苑先輩さっき廊下走ったでしょう。駄目だよ。風紀委員が廊下走っちゃ」

 口を開いたまま固まる室長。パトカーもスピード違反をすれば白バイに怒られるのでしょうか。

「すみません。暴走者を捕まえようと思ってつい……」 

「いやいや、それは別に良いんだ。捕まえようとすれば熱くもなるよ」

 室長に頭を下げられ、かえって恐縮なさった清掃部さんは、一転して「けどねえ……」と、少し弱ったように頭を掻きました。

「校長がお冠なんだよ。少女が走ったところをちょうど見ていたらしくてね。本室の方に校長から呼出しがかかった」

 はあ、と頭を抱える清掃部さんと室長。わたくしもここはひとつ抱えておいた方が良い気がいたしましたので、抱えておくことにしました。

「一応、渡り廊下の取締りは分室の管轄だからさ、副室長と二人で校長室に行って、説明してきてくれないか。とは言っても、どうせ一方的に説教を聞くだけになるだろうけど……」

「わかりました」

「辛い役回りを任せてすまないとは思ってる」

「委員長は気にせんでください。こっちの仕事ですから」

 言い辛そうに話す清掃部さんを慮るように、室長は笑顔を見せました。

「では、校長室に行くぞ二城野くん! 聞いていただろう」

 室長の声が、先ほどから突っ伏したままの二城野副室長の後頭部に向けられると、呼応するように副室長の寝息が大きくなりました。

 ちっ! と舌打ちする室長。

「なんだこらやんのか」寝息を立てながら器用に言う副室長。

「あ、いえ、やらないです。すみません」

 室長はやにわに、わたくしの方に向きなおります。

「では、水無月くん行くぞ。二城野くんは体調が悪いから代理だ」

 なにゆえわたくしが!

 一年生のわたくしなどより他に適任者がいるのではと、周りを見回すと、いつの間にか皆さんは机に突っ伏されておりました。広がるのはまるで集団自決の後のような光景。ドアの脇で力尽きる斥候さんが、特に良い演出効果を引き出しております。

「室長、わたくしだってねむたい!」

 どうしていつもわたくしばかり。

 ――そういえば、ゆみちんはいずこへ?


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