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 ○


 なんだかどっと疲れたわたくしは、壁の補修作業に戻ることにしました。

 とりあえずパテを塗り込める作業だけでも終わらせねばなりません。パテが固まるまでには一時間近くかかります。その後にはやすりでならして、着色するという作業も待っています。

「んもう!」と、今度はブラックアロワナです。

 ここは質よりも速度を優先すべきでしょう。

 しゃがみ込んで壁と対峙するわたくし。ぽっかりと空いた一円玉大の穴を、縁の方からべたべたと手早くパテで埋めていきます。穴を中心に割れた檜はささくれ立って、中の生木がむき出しになっておりました。人で言うなら、皮膚が破れて肉が弾けた状態でしょうか。

 わたくしは、お話もろくに書けない未熟な三歳児であった時分に、ギザギザのアスファルトで転んだときの怪我を思い出しました。膝のお肉が見えて血が出ていました。それが自分の生のお肉を見た初めての瞬間のように思います。わたくしはその怪我を見て泣きました。それは痛みのためというよりも、グロテスクな裂傷を見た衝撃、自分の膝が大変グロいことになってしまったというショックのために泣いたような気がしました。

 母が軟膏を優しく塗りながら大丈夫大丈夫と言ってくれましたので、幸いなことに今は跡も残っておりません。ですが、わたくしはあの時の鮮烈な朱色を思い出してしまい、パテを塗る手から握力が抜けてしまったのでした。

 ――思えばこの渡り廊下も気の毒なものです。

 木材の中では高級素材として扱われる檜。床の大理石も同様です。その世界のいわゆるエリートであった彼らは、生まれながら輝ける将来が約束されていたはずです。それは、老舗旅館の風呂桶かもしれませんし、国会議事堂の床石かもしれません。彼らにはそんな風になる可能性だってあったはずなのです。

 ところが何を間違ったのか、たどり着いた先は場末の私立高校。しかも風吹き雨打ちつける渡り廊下。彼らにとって不本意極まりない就職先のように見えます。もしかしたらちょっと出来が悪かったりしたから、こんなところに回されてしまったのかもしれません。挙句の果てにはペットボトルで傷つけられ、ごみが投げ捨てられるというこの現実。


 ――檜の世界にも同窓会はあるのでしょうか。


 十年ぶりの檜の森の同窓会。彼は加工されて以来、皆と顔を合わせるのは初めてでした。いつも斜め前で姿勢よく立っていたあの子はどうなっているだろうか――。まだ独身の彼はついそんな思いを馳せながら歩きます。

 そしてたどり着いた会場。隣には、昔森でも隣だったアイツが椅子に根を生やしていました。空気が読めなくて少し煙たがられていたアイツです。しかし、そんなわだかまりも今は昔。「やあやあ久しぶり」と、上機嫌で植物栄養剤を注ぎあいながら、二人は再会を喜びました。

 ですが、そんな楽しい時間もつかの間でした。訊かれたるは恐れていた質問。

「――僕は今、伊豆の旅館で風呂の床板をしてるんだ。一泊三万円のところさ。君は?」

 彼は、ああうんと言葉を濁しながら、自信のない声で「屋外系かな」とだけ答えました。「へえ、露天かい? どこどこ?」と強引に訊いてくるかつての友。空気の読めないアイツをあしらうのは容易でないと彼も十分知っています。ついに押し切られ、絞り出した声で答える「渡り廊下」の一言。するとアイツは気まずそうに目を伏せて「ああ……渡り廊下ね。今伸びてるよね」などとよくわからないフォローをした挙句、残酷にもただちに話題を変えました。

 彼はやりきれなさでふと視線を外すと、遠くの席にいるあの子が視界に入りました。相変わらず姿勢の良いあの子。隣には、風の噂で首相官邸の風呂板になったと聞いた同期の出世頭がいました。首相官邸の風呂板と楽しそうに話す彼女は、そのとても美しい瞳を彼に向けておりました――。


 ……檜の瞳とはなんでしょうか。

 暇に飽かしてつまらないことを考えてしまいました。

 姿勢が良いだけの女にはなるまい――。そんなことを思いながら、わたくしは軟膏をつけるようにして壁の傷にパテを塗っていきました。そして固まったのを確認すると、丁寧に紙やすりをかけて、色も塗ってあげました。あくまでついでですが、落ちていたごみも全部拾い集めました。

 傷は全部で十二カ所。ごみ袋は目一杯。

 わたくしは腰に手を当て胸を張り、渡り廊下を見渡しました。

 そして、大丈夫大丈夫、と、なんとなくつぶやいてみるのでした。


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