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晴天が広がり渡るは、翌日の放課後。
わたくしは鉄地川原先生よりいただいたパテを、渡り廊下の壁にぺたぺたと塗り込めておりました。
張込み班、遊撃班、少女対策班、雑務班――室長が提示しました役割のうち、雑務班壁補修係を買って出るのがわたくしにとって筋のように思われました。運動能力に優れたところがないわたくしは、恥を忍んで雑務に徹するのみです。輝く汗は運動能力が優れた方にこそ相応しい。
五月の渡り廊下は汗ばむほどの陽気でありました。
傍らで目を細める鬼天竺鼠の縫包も、ひなたぼっこを楽しんでいるかのようです。
――なぜここにカピバラがおるのか。
放課後の渡り廊下は体育館で部活動を励まれる方々が往来しており、その人々の目が総じてそう訴えているのがわかりました。
カピバラの残虐性を説く必要がありましょう。
カピバラは大変食欲が旺盛な草食動物で、一日三キロ以上もの草を口に運ぶといいます。何たる畜生。そんなことだから図体ばかりが馬鹿でかくなるのです。
それはさておき、その異常な食欲が時に攻撃性を生みだします。普段は温厚なカピバラも、食べ物となれば話は別。ある動物園では、カピバラの餌を遊び半分で強奪していたクモザルが噛み殺されるという悲しい事故も起きました。
齧歯類は総じて鋭い前歯を持っています。それを使って積極的に攻撃することはありませんが、自己防衛のために前歯で攻撃をすることはあります。窮鼠猫を噛む――それは鬼天竺鼠も例外ではありません。ご覧ください。あの下品で大きな口に輝く前歯。ハムスタアを噛み殺すのも容易だと言わんばかりの前歯。
たとえ縫包という偶像の姿とはいえ、そんな生物をハムハムと一緒に部屋に置いておくわけには参りませんでした。
今、ハムハムはとても大切な時なのです。
ハムハムをむやみに恐怖に晒して、一秒でも寿命を縮めることがあってはなりません。
ハムハムの安らぎを妨げるものは、全て排除しなくてはなりません。
そのためならばわたくし、カピバラを学校に持っていくことも辞さない覚悟。
玄関で「居間に置いていったら?」と無粋なことを言う母を振り切って、わたくしは鬼天竺鼠を抱え、家を後にしてきたのです。
そのようなわたくしのハムハムへの献身。渡り廊下を行く人に訊ねられたならば、いつでも語り聞かせる準備はできているのですが、皆さんはカピバラの傍らにあるわたくしの小桜文の姿を認めるにつけ、不思議と納得された顔をして通り過ぎてゆくのでした。
しかし、道行く人の困惑はそこでは終わりません。
次に人々の目を捕らえるのは、わたくしの隣で落とし穴を掘るゆるふわピンクの女子高生です。
わたくしと共に雑務班に任命されたゆみちんは、壁補修業務ほったらかしで落とし穴を掘っていました。少女を最初に捕獲した時以来、役目を終えて封印されていた落とし穴が、今、ゆみちんの手によって蘇ろうとしています。
「ねえねえ美月ちゃん。少女が好きそうな食べ物ってなにかなあ」
ゆみちんは穴を掘り掘り、わたくしに訊ねました。
――少女が好きそうな食べ物をゆみちんが訊く意味。
わたくしの頭に、昨日の嫉妬に満ちたゆみちんの目が過ぎりました。
「食べ物に一服盛るつもりですか?」
あははと、わたくしは冗談めかして、結構本気で訊ねました。
ゆみちんも「まさかあ」と笑いましたので、ひとまずほっとするわたくし。友人が毒を盛ろうとしているなどと、少しでも疑った自分を嫌悪いたしました。
「うんとね。戦争の時ってね、敵が手に取りそうなものをわざと残しておいて、そこに爆弾を仕掛けておくんだって」
ゆるふわ愛されピンクが満面の笑顔で言いました。
「へえー……」と、お茶を濁すわたくし。今後ゆみちんの質問に答える際は、発言に注意せねばなりません。何かあったとき殺人幇助を疑われるのは避ける必要があります。
「そんな知識、どこで入手したのです?」
一般的な女子高生はあまりブービートラップの知識を発信しないはずです。
「昨日の帰りに図書館で本を借りたんだあ。図書館の『調査相談』っていう人に訊いたら、この本がいいって教えてくれたの」
もし事件になれば、図書館職員のところにも警察は行くのでしょうか。世の中には教えて良いことと悪いことがあるのを知るべきでしょう。
『サバイバルに使える罠』
『簡単にできる爆発』
ゆみちんが嬉しそうに見せてくれた本には、そう書かれておりました。
図書館職員の手によってすでに通報されている可能性も考えねばならないところですが、ゆみちんは「泥棒ネズミを罠に掛けたいんですって訊いたんだ……」と、静かに口角を上げて見せました。
ゆみちんは休み時間もずっとあの本を読んでいたのでしょう。本日は珍しくわたくしの所に話しに来ませんでした。昨日のこともあり少々心配していたのですが、ゆみちんの笑顔が見られて、わたくしはひとまず安心いたしました。今も、ふふ、ふふふ、と不規則なリズムで笑いながら、楽しそうに穴を掘っています。
わたくしは一刻も早く次の傷を補修しなければならなかったので、できるだけ物音を立てないようにその場を離れました。
鬼天竺鼠を引きずりながら十メートルほど歩くと、落ちているコオラのペットボトルを発見しました。例の石付きのものです。壁を見るとやはり傷もありました。
室長は今日も数カ所壁が攻撃されていたとおっしゃっていました。どの場所にも、このペットボトルが転がっていたのも昨日までと同じとのこと。このペットボトルと渡廊連が無関係とはもはや言えないでしょう。なにゆえコオラばかりが。コオラを愛するわたくしに対する挑戦でしょうか。
ペットボトルを拾い上げてみると、少し先にもペットボトルが落ちているのが視界に入りました。
――もしやあちらも攻撃されているのでは。
わたくしは小走りで駆けつけましたが、壁に攻撃された様子はありませんでした。よく見ればペットボトルにも石は付いておりません。ただのごみのようです。
そのとき、今度はコオラの缶が落ちているのに気がつきました。
――缶ではありますが渡廊連と何か関係があるのでは。
わたくしの鋭い勘がざわざわと災いして、調べずにはおれませんでしたが、やはりただのごみのようでした。
刹那、少し先に氷菓子の袋が落ちているのを見つけました。ごみでした。ポテチの袋もごみでした。
そして気がつけば、両手いっぱいにごみを抱えるわたくしがいました。
「んもう!」
わたくしはアジアアロワナの顔真似でひとりむっつりとします。シルバーアロワナよりもむっつりとすることで、絶滅危惧種に追い込まれたアジアアロワナの怒りを表現しているのです。
このごみの数はいったいどういうことでしょう。
以前は老舗旅館の秘湯へ続くがごとき気高さを湛えていた渡り廊下が、今では壁に穴が空き、ごみが散乱する退廃ぶり。これも渡廊連の仕業なのでしょうか?
ほとばしるやってらんねえという思い。
さっさと本業の壁補修作業に戻ろうとしていましたところ、ゴミを抱えるわたくしに話しかけてきたのは、総指揮兼少女対策班の室長でした。
「水無月くんゴクロウさん。ゴミ拾いとは感心感心」
ごみ拾いを率先して行うことで誰かに評価されようなどという浅ましい気持ちは、わたくしにはケシツブムクゲキノコムシほどもありません。そのような行為は陰でひっそりと行い、ただ御仏の前でのみ徳を積むべきと考えています。ですがこうして見つかってしまった以上、不本意ながらも評価されてしまうのでしょう。これも仏の御心なのかもしれません。
「ごみが少々見かねる状況でありましたので、これから全部拾おうと思っていたところなのです」
わたくしがごく当然のことを言い放ちますと、室長は更に感心したご様子でした。
「だけど掃除は環境委員会の管轄だから水無月くんはそこまでせんでいいよ。こっちは渡廊連対策が最優先だ」
別に誰の管轄とか、そういう問題ではないのです。御仏のみがわたくしの徳を知っていれば良いのだと室長にも知ってほしい。
「このごみも渡廊連の仕業なのでしょうか?」
「いやこれは違う。ごらん」
そう言って室長が指した先には、体育館からやってくる運動部の男子がおりました。彼は歩きながらペットボトルを飲み干し、ぷはーとしたかと思うと、ためらうことなくそれを渡り廊下に投げ捨てました。
「校長が毎日掃除してたからな。今まで目立たなかっただけだなのだ」
校長はまだ広島から帰ってきておりません。校長の有休はまだ三十六日も残ってると、カツラ先生が嬉しそうに言っておりました。
「校長は暇さえあれば渡り廊下を眺めてるから、ごみがあると気になるらしい」
室長はどこか嘲るように笑いました。あの校長が自ら掃除というのは少々意外な気がします。それも渡り廊下への愛がなせるわざなのでしょう。
「そういえば、またこれが破壊された壁のそばに落ちていたのです」
わたくしは先ほど拾った石付きペットボトルを室長にお渡ししました。
まだあったか、と室長は自分の無力を嘆くように、ため息をつきます。
わたくしはこの奇妙なペットボトルについて、一寸考えていたことがありました。
「これはもしかしたらペットボトルロケットではないでしょうか? どこかから飛ばして壁にぶつけているとか」
「それは俺も考えたのだがな」と、室長はペットボトルを目の高さに持ち上げて「ペットボトルロケットというのはこんな形では飛ばんらしい。タンクや羽やなんやを付けねばならんから原形は留めんのだと」
まあ攻撃方法はどうでもいいのだがな、と室長はあまり気にしていないようでした。確かに、問題はいかにして犯人を現行犯で捕まえるかです。ですが、今日も放課後になってから壁が攻撃されたような様子はありません。
「やはり、わたくしどもがいると渡廊連は動かないのでしょうか」
「敵も相当用心してるらしいな」
「わたくしどもが帰った後にやられたらどうしようもないですねぇ」
「いや。俺もそれが心配で朝イチで渡り廊下を見回ったのだが、夜に何かされている様子はなかった。意外と紳士的な連中なのかもしれん。我々が放課後に張込みさえしていれば、日中――八時から十五時の間しか行動しないと見ていい」
だったら日中にも張込みをすれば良いのでは、とわたくしは思いましたが、すぐにそんなのは冗談じゃないと思いましたので、口にするのをやめました。室長も同じ思いだから、気づいていながらあえて言わない気がしてなりません。
渡廊連も渡廊連で、本気で破壊するならば夜にやった方が効率が良いでしょう。ですが、夜にやらない理由はわたくしにも思い当たります。ねむたいから。それしか考えられません。コアラは一日二十時間も寝ますし、水無月美月も十時間は寝るといいます。睡眠は力です。
「破壊されて騒ぐ人間を目の前で見たい類の、愉快犯なのかもしれんな」と、室長は言いました。そうなのでしょうか。
「俺がもっと積極的に加賀津の周辺を嗅ぎ回れればよいのだが、少女が来襲する可能性もあるだろう? 二城野くんがいない以上、俺が少女対策班に回るしかない」
「そういえば……副室長と連絡はつきましたか?」
「いや、学校には来ているらしいのだが」
副室長は今日は珍しく分室に姿を見せませんでした。分室ではいつも顔を突っ伏して瞑想されていることが多い副室長ですが、今まで休んだことはありません。休むという連絡もなく、携帯も繋がらないとのこと。
昨日の帰り際の副室長の姿が思い出されました。かなりお疲れのように見えました。もしかしたら昨日から具合が悪かったのかもしれません。大変心配なのですが、携帯電話を持たない主義のわたくしには、連絡を取る手段がありません。
「二城野くんがいれば少女の方は任せられるのだが、なにぶんいないものだから俺が仕方なく少女対策班に回るしかないのだ。なにせ少女が現れたときに室長も副室長もいないとなれば責任問題になるだろう。だから仕方なく俺は少女対策班に回ったのだが、本来渡廊連の対策をしなければならないことを忘れているわけではない。仕方なくなのだ」
室長は訊いてもいないことを唐突に語り出しました。仕方なくという部分で妙にアクセントが強くなり、台詞のような言い回しからは用意された説明臭さが感じられました。
「ああ、二城野くんがいてくれれば、少女の方は任せられるのに。やむを得ないやむを得ない」
室長は台詞を一方的に読み終えると、即座に踵を返しました。反論させる隙などお前に与えるかという確固たる意志を感じます。そして「早く少女来ないかなあ」と、本音と失言を漏らしながらスキップで去って行きました。