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     ○


 わたくしは鉄地川原先生に丁重にお礼を言って、分室へと歩を進めました。

 化学室は南棟三階の東の端にありました。分室は西の端ですので、正反対の端っこにあたります。意外と近くだったことがなぜか不思議でした。

「ずいぶん遅かったな」

 分室にはすでに室長しかおりません。

 室長の目はわたくしの小脇に向いています。怪訝に思われるのも無理はないでしょう。

「なんだい、それは?」

「鉄地川原先生からいただいた鬼天竺鼠です」

「鬼天竺鼠?」

「俗名をカピバラと言います」

「ああ」と、室長が納得半分といった感じで頷きました。

 先生がコオラのお礼にとくださったのは、化学遊園地のマスコットでした。体高が三十センチほどもある縫包は、実物大の子カピバラのごとき迫力があります。

 室長は猜疑に満ちた目でそれを眺め回しますと「これでは壁は直せんなあ」と、おっしゃいました。「しかし、どうしてこいつは『火気厳禁』なのだ?」

 室長は縫包の背中に貼られていたお札をひらひらとさせます。それはわたくしも気になって、真っ先に鉄地川原先生にお尋ねしたところでした。

「先生は、燃えると火鼠にでもなるのではないか、とおっしゃってました。先生が赴任する前からあった物なので、誰が貼ったのかもわからないそうです」

 火鼠は伝説上の動物です。火鼠の毛で作った布は、いかなる火を以てしても燃えないと言われています。かぐや姫に火鼠の皮衣を持ってくるよう申しつけられた阿倍御主人あべのみむらじも、とうとう見つけることはできませんでした。

 カピバラも鼠なのだよ、と言って鉄地川原先生は一笑しました。


「ところで、まさか本当にこれだけではあるまい」

「ご安心を――」わたくしはパテと顔料一式の入った木箱を開いて、習った傷補修法を室長に説明いたしました。

「パテが固まるまで時間がかかりそうだな。今日はもう遅いから壁補修は明日にしよう」

「ですが、明日には校長が帰ってきてしまう可能性があるのでは?」

「いや。校長のブログに『厳島神社なう』と書いてあったから、まだ帰ってこんだろう」

 ――仮にも高校を預かる立場の者が、少々エンジョイしすぎでは?

 そんな疑問が思わず頭をもたげますが、校長が帰ってきても何一つ益がないような気もしますので、むしろわたくしは矛を収めました。もしかしたらこの学校に携わる全員が同じ思いであるから、誰も校長のロングバケイションを責めないのかもしれません。

「みなさんはまだ張込み中なのでしょうか?」

「ああ。今、駆けぬける少女を捕らえたと二城野くんから連絡があってな。待っていたところなのだ」

 わたくしが労いのコオラとお茶の準備にかかりますと、ほどなく皆さんは帰って参りました。外の空気がばたばたと部屋に流れ込み、皆さんは体育の後のように「疲れた疲れた」と、椅子にどかりと寄りかかります。

「みんなゴクロウゴクロウ。渡廊連の方は、何も動きはなかったか」

「駄目っす。骨折り損です。もしかしたら張込みがばれてるのかも知れない」

 末吉さんは室長にそう答えて、コオラを一気に傾けました。

「まあ壁が攻撃されなかったのだから、張込みも無駄ではあるまい」

 一足遅れて戻ってきたのは副室長とゆみちんでした。副室長の手には縄が握られ、その先には少女が繋がれております。まるで護送中の犯人のよう。

 副室長と少女は、互いにいがみ合うような視線を戦わせておりました。すでに一悶着があったのでしょう。小柄な少女が牙をむく様は、勇敢な小型犬のような風情があります。

「ゆみ、こいつ椅子に縛るの手伝ってくれ。今日は思い知らせてやる」

「はい」

 施行室の窓鍵を閉め終えたゆみちんが、抵抗する少女を椅子に押さえつけました。「てめえの目的は一体なんなんだよ……」と、ぶつぶつ愚痴りながら副室長は手足のベルトをきつく締めあげます。

「まあまあ、その前に一休みしたらどうだ」

 少々冷静さを欠く副室長とゆみちんを、室長は心配なされたのかもしれません。二人をなだめるようにしながら施行室から連れ出して、ドアを閉めました。

 わたくしは氷を入れた冷たい緑茶を、お二人に差し上げました。

「今日も校長はおりませんので、そんなに本気にならなくてもよろしいのでは?」

 わたくしが憚りながらも申し上げますと、「もう校長も渡り廊下も関係ねえ。アタシがアイツにムカついてんだ!」と、副室長。

 ああ、ここにも目的を見失った人間が一人。

「まあまあ落ち着きたまえ。今の熱暴走気味の君に任せては、過剰施行が心配だ。どれ、今日は俺が少女に施そう」

 副室長は、視線にありったけの不審を込めて、室長を見据えました。

「オマエ、自分が少女にシたいだけなんじゃねえの?」

 突拍子もないことを。馬鹿らしい。そうとでも言いたげに、室長は「いやいや」と、鼻で笑います。

「これは僕の慰労の気持ちでもあるのだよ。今日はみんな疲れただろうから、あとは僕に任せて帰ってほしいというね。だから、うん。ゴクロウだったね」

「なにが、僕だ。ふざけんな」

「今日は帰ろう? ね? あとは僕がやるからね?」

「嫌だ。オマエが帰れ」

「……」

 突然踵を返す室長。施行室の中に駆け込むと、すぐさまがちゃりと鍵を掛ける音がしました。疾風迅雷とはこのような様を言うのでしょう。その稲妻のごとき強引ぶり。わたくしどもはただ呆気にとられるのみでした。

「おいてめえ、ふざけんな! 殺すぞ!」

 副室長がドアを蹴飛ばしますが、反応がありません。副室長が殺すと言うのは嘘です。殺されたほうがまだましなことをたくさんします。室長は覚悟の上での狼藉なのでしょうか。

「大変だ、また少女に逃げられている!」

 室長が急にドアを開けましたので、ドアを蹴ろうとした副室長のそれが、室長を男性たらしめる部分をしたたかに打ちました。

 うずくまる室長を一瞥しつつ中に入りますと、やはり昨日と同じように窓は開き、部屋はもぬけの殻になっています。

「なんで逃げられるんだよ!」

 副室長は椅子を蹴飛ばしてから、室長を蹴飛ばします。

 椅子を見ますと、少女の手足を拘束していたベルトが綺麗に外されていました。プロでもこれほど鮮やかに脱出できるものでしょうか。なんのプロかはわかりません。室長は副室長に蹴られながら、顔を歪めて嬉しそうにしていました。

「おかしい……」窓を調べていたゆみちんが、指で作ったYの字をあごに当てて、ぼそりと呟きました。

「犯行は密室で行われました!」

 突然、声を張り上げるゆみちん。

 窓が開いている時点でもう密室ではないし、問題はそこでもない気がするのですが、そんな疑問もお構いなしにゆみちんは続けます。

「なぜならわたしは、ちゃんと窓の鍵を閉めたのです!」

 そうです。ゆみちんが窓の鍵を掛けるところは、わたくしも確かに見ています。

 ですがゆみちん。内側から掛けた鍵は内側から開けられてしまうのです。そして、学校には外側から施錠できる窓なんて、無い。

 わたくしはゆみちんをその辺に座らせて、冷たい緑茶を与えました。

隣で繰り広げられるは、倒錯した蹴りの世界。攻め手も受け手もどこか恍惚としています。

「んもう!」

 さすがのわたくしもこの状況に混乱を禁じ得ません。

 負けじとシルバーアロワナの顔真似で一人むっつりとしていたところ、にわかに副室長の脚が止まりました。

「おい、美月、ゆみ。ちょっと手伝え――」


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