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     ○


「あぬあ!」

 悪夢を振り払うように、わたくしはがばりと跳ね起きました。

 額に汗が滲んでいるのがわかりました。拭おうとすると、頭に軽い痛みが走りました。

 わたくしはケエキを鼻に詰め込まれる夢を見ていたのです。体が石のようになって抵抗できないわたくしに、何者かがずっと詰めてくるのです。シフオンケエキです。今でも鼻の奥に甘い香りが残っているような気がして、わたくしは思わず鼻をくんくんとしました。

「お、大丈夫かい?」

 声の方を見ると、部屋の奥に白衣の男性がいることに気がつきました。そして自分が、全然知らない場所で寝ていたことにも気がつきました。わたくしを囲む沢山の椅子が、自分が寝せられていた仮設ベットなのだと気づくには少しかかりました。

「ここはどこなのです?」

「化学準備室だ。君は化学室の前で倒れていた」

「なにゆえそんなところで?」

「わからない。大方転倒して頭でも打ったのではないだろうか? ワックスがけをするからこの部屋には近づかないようにと、廊下に貼り出してあっただろう」

 男性はこちらに歩み寄ると、窓際にあった水槽のシロメダカに餌をあげました。窓際には沢山の水槽がありました。水槽は外から差し込む檸檬色の日差しを受けて、ぎらぎらと輝いています。

 白衣の男性はどこか狐のような顔立ちをしていました。歳のころは二十代後半といったところでしょうか。白衣なうえに眼鏡なので、きっと化学の先生なのでしょう。

 ――化学の先生? 

 何かがわたくしの記憶をくすぐった気がしました。でも良くわかりません。もやもやした気分で立ち上がると、体のあちこちが痛みました。転んだ際に痛めたのでしょうか。

 わたくしが、近くにあった薬品実験台に吸い寄せられるように近づいたのは、そこにほのかに甘い残り香があったからです。それは夢の中の匂いに似ているような気がしました。机の上には沢山の薬品瓶がありました。

「まだ無理をしない方が良い」

 いつの間にか先生が後ろにいて、わたくしを強引に机から引きはがすと、椅子に座らせました。先生は瓶を一つ取り上げて「これはまだ駄目だ」とか何とかぶつぶつ言いながら薬品保管庫に仕舞い、しっかりと鍵を掛けました。頭上では換気扇がごうごうと回っていて、机の上のガスマスクがわたくしを見つめていました。

「――ちょっと待っていなさい」

 先生は瓶に入った何かと何かを混ぜ合わせて、しゅわしゅわと泡立てています。実験でしょうか?

 わたくしは手持無沙汰で部屋を眺めました。

 先ほど先生がいらっしゃった奥の机には、何やら良くわからない器械がありました。化学の実験器機なのでしょう。メリイゴオラウンドのように上下するピストン。観覧車のように回転する歯車式。さながら遊園地のような趣があります。隣でもうもうと白煙を立ち上げるビイカアは、遊園地の中のお化け屋敷といったところでしょうか。そしてカピバラの縫包は、遊園地のマスコットキャラクタなのでした。

 ……カピバラ? 

 確かにカピバラの縫包ぬいぐるみです。体高三十センチほどもあるカピバラが、神棚のように装飾された場所に、やけに偉そうにご鎮座ましましております。

 化学室にカピバラ。珍妙な組み合わせとも思いましたが、広い世の中、化学室にカピバラがいることもあるのかもしれません。わたくしの定規もまだまだだなと反省するのでした。

 雑然とした化学準備室は、友達の家の玩具箱に似たところがありました。何が出てくるのかわからず、出てくるものが次々とわたくしを魅了するのです。隣の机にあった、何やらもじゃもじゃした繊維の塊も、例外なくわたくしの興味を引き付けました。

 黒と白の繊維が八対二くらいの割合で混じりあっています。

 あれはなんでしょう?

 近づいてみると、傍らに走り書きのメモがありました。

『要望。年齢的にそろそろ適度に白を混ぜてほしい。この前のミノキシジルは効き目がいまいち。できれば他の物を』

 メモの上に、紙止め代わりに置いてあった薬品瓶には、「プロペシア(岬先生用)」と記載されていました。

「見てはいけない」

いつの間にか先生が後ろにいて、わたくしを強引に机から引きはがすと、椅子に座らせました。先生は瓶とメモを取り上げて薬品保管庫に仕舞い、しっかりと鍵を掛けました。

 ――岬先生。

 ! 

 そうです。思い出しました。わたくしはカツラ先生に頼まれて、化学の鉄地川原先生を探していたのです。そしてここは化学室――。

「先生はもしや、鉄地川原先生でいらっしゃるのでは?」

「いかにも鉄地川原だが……」

 なるほど。ですからわたくしは化学室の前で倒れていたのでしょう。

 音楽室を出て階段を上ったところで記憶が途切れ、化学室の前までどうやって来たのかは思い出せません。恐らく意識を失いかけた中でも、わたくしの体中をほとばしる使命感が、ここまで足を運ばせたに違いありません。

「わたくしは先生に、渡り廊下の壁の穴をごまかす方法を教えてもらいに来たのです」

「渡り廊下の壁? なぜ私だ?」

「カツラ先生が、鉄地川原先生はごまかすのが大変お上手だから、と」

「カツラ先生が言う意味はわかるが、どうにも人聞きが悪い。カモフラージュとかリペアとか言ってほしいものだな」

 よしできた。先生はそう言って、先ほどしゅわしゅわとさせていた液体を、ビーカーに二つ分注ぎました。そのうちの一つをわたくしに差し出して「まあ飲みたまえ。迷惑をかけたお詫びだ。頭がスッキリするよ」

 お詫び――介抱していただいたのはわたくしだったはずとも思いましたが、そんな疑問は目の前の液体を見るにつけ、どこかに飛んで行ってしまいました。

 この色。この泡立ち。わたくしにわからないはずがありません。

「これはコオラではありませんか!」

「そのとおり。自家製コーラだ」

 コオラを自作できるとは、化学とはなんと素晴らしい学問なのでしょう。生物以外の理系教科の成績は、壱以上弐未満の間で彷徨っているわたくしです。化学を勉強しておけば良かったと、これほど痛感したことはありません。

「私はコーラが好きでね。最近自作コーラに凝りだしたんだ」

 急に、鉄地川原先生に親近感が湧きました。

 早速、お言葉に甘えて、一口ごくり。

 む。

「これは……黒いサイダアですね」

「君もそう思うか……。どうしても黒いサイダーにしかならないのだ。やはりコーラの実やコカの葉を入れないと駄目なんだろうか?」

 鉄地川原先生はがっくりと肩を落とされました。

「先生。現代のコオラには、コオラの実もコカの葉も必要がないと言われております」

 ここはわたくしの出番でありましょう。高級お寿司店で堂々とコオラを注文し、「コオラに魂を売った女」と母に蔑まれたほどのわたくしです。どや顔を禁じえません。

「コオラにおいて最も大切なのは香料なのです。何をお入れに?」

「うむ、私も香料が肝だと思ってはいたんだが、いったいなんの香料なのかがわからない。記載されていないんだ」

 鉄地川原先生はコオラのラベルを見ながら言いました。あれをレシピ代わりにしたのでしょう。

「それもそのはずです。コオラに入れる香料は企業秘密の重たるところ。米国コカ社のレシピは金庫に保管され、最高幹部以外見ることはできないのです」

 ほお、と興味深げに聞き入る先生。わたくしは周囲を見回し、人がいないのを確認しました。

「……ところがわたくしは、一八八五年に薬剤師ジョン・ペンバートンが発明したという、コカ社の秘密『香料7セブンエックス』のオリジナルレシピを盗み見てしまったのです」

「なんだと」

 わたくしは思わず声を潜めました。産業スパイの罪で、警察とコカ社から狙われる危険があるからです。「先生、お耳を拝借」と、念には念をいれました。

「……そのレシピには、『香料7x』はアルコール、オレンジ、レモン、ナツメグ、コリアンダー、ネロリ、シナモンであると記載されておりました。参考にされると良いでしょう」

「すごいな。一体どうやって盗み見たんだ?」

「インターネットにあるグウグルを駆使したのです。インターネットだから間違いありません」

 まさにハッキングというやつでしょう。意外と簡単でした、と余裕さえ漂わすわたくしを見て、なぜか先生の目の輝きが曇りました。「あれは、あんまり信用すると危険なものだよ」とだけ先生は言います。

「だが確かに、柑橘系の香料に秘密がありそうな気はするな。良いことを教えてくれた」

「コオラのことなら、なんでもわたくしに訊くと良いでしょう」

「あ、そうそう。そういえば渡り廊下の壁の穴だったな」

 先生は薬品棚の下を何やらごそごそしますと、取り出したそれを机の上に広げました。ビニールに包まれた白い粘土といった様相をしております。

「このパテは独自の即効成分が壁の傷をふさぐ画期的な商品だ。使い方は簡単。柔らかいうちによく練ってから傷を塞ぐ。しばらくすると固まるので、あとはやすりを掛けてならすだけ。これでもう高い修理代とはサヨウナラ。今なら特別にもう一つおつけしよう」

 鉄地川原先生がもう一つ、どん、と机に置きましたので、わたくしはおーと拍手しました。

「しかし、化学室には本当にいろいろな物があるのですね」

「このパテは下地につかうんだよ。柔らかいうちにこれで型を取って下地を作るんだ」

 実験で使う何かの下地でしょうか。 

「でも、これでは壁の色と違いすぎるのでは?」

 パテの色は白でした。これを檜の壁に詰めたら、かえって目立ってしまいます。

「ああ、すまない忘れていた」

 先生は再び薬品棚の下をごそごそしました。何か隠している物をとり出しているような雰囲気があります。出てきたのは一揃いのインク瓶でした。

「この顔料を適当に混ぜ合わせて、壁に近い色を作るといい」

「こんなにたくさんの色が!」

「頭皮に近い色を作るのに苦労してな。必要そうな色を手当たり次第購入したら、こんなに揃ってしまった」

「頭皮?」

「あ……いや……」先生が思わずといった風に目を逸らすと、視線の先には先ほどのもじゃもじゃした繊維の塊がありました。

「あ、そうだ。コオラのお礼にこれもあげよう――」

 先生は話をごまかすように、部屋の奥に逃げていきました。

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