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     ○


 室長とカツラ先生の命を受け、わたくしは一階の音楽室へ向かって階段をくだります。


『化学の鉄地川原てっちかわはら先生に、壁の穴をごまかす良い方法がないか訊いてきてくれ』


 ――それが室長のお言葉でした。

 それならば美術や工学などの先生に尋ねるべきでは、と、わたくしは意見の一つもしたくなりましたが、鉄地川原先生と親交が深いらしいカツラ先生が、鉄地川原先生は困った者の味方で、ごまかすことに長け、口も堅くて大変信用できるのだ、と絶賛するのでした。

 訊けば、鉄地川原先生は吹奏楽部の顧問であるとのこと。わたくしは音楽室に向かいながらも、狐につままれた気分で首を傾げるのでした。


 ――化学の先生なのに吹奏楽部?


 案の定、わたくしを待ち受けていたのは吹奏楽部の門前払いでした。

「なんで化学の先生が吹奏楽部にいると思ったの?」と、半笑いのトロンボオンにど正論をかまされ、わたくしはぐうの音もでません。

 ――世の中には水泳が得意な国語教師や、絵画に通じた数学教師がいるかもしれない。彼女にそのような柔軟な発想が無いことが、むしろわたくしを悲しくさせました。既成の概念で凝り固まった視野の狭い定規では、この広い世界は測れないのです。あれではきっとトロンボオンも良い音は出るまい。そう思うのですが、吹奏楽部は県大会で毎年金賞なのでした。


 ともあれ、わたくしはカツラ先生に文句の一つも言おうと、階段をのぼりました。二階までのぼったところで、階上より何やら微かに甘い香りがしましたので「あら、お料理部かしら」と、わたくしはうさぎのように鼻をぴくぴくとさせたのです。

 風紀委員としての職責でありましょうか。わたくしはその匂いが、薬品によるテロである可能性を捨てきれず、階段を駆け上がったのです。

 それは心配性であるわたくしの杞憂かもしれませんでした。原因が単に、お料理部がケエキなどを焼く匂いだったということになり、徒労に終わる可能性も高いでしょう。ですが結果として平和であるのなら、その徒労もやぶさかではありません。そして「心配を掛けてごめんなさい」「いえ、そそっかしいわたくしが悪いのです」といった風に話が進み、心配をかけたお詫びにと、出されたケエキの切れ端をつまみながら笑い話にでもなれば、わたくしも本望というものです。


 気がつくと、わたくしはいつの間にか四階の廊下を歩んでおりました。南棟に四階なんてあったでしょうか。妙に暗い廊下。匂いの発生元はすぐにわかりました。

 その部屋には「化学室」と札が掲げられております。おかしい。家庭科室じゃない。

 そしてその札の下に書かれた文字を見て、わたくしは少々驚いたのでした。

(水槽学部部室)

 すいそうがくぶ。……鉄地川原先生がいらっしゃるのはここに違いありません。

 かの著名な魚類学者も、吹奏楽部を水槽学部と間違えて入部したと聞いたことがあります。わたくしが美月ちゃんさんと呼ばれる未来もあるのかもしれません。

 横開きの戸が開く音は廃屋を思わせました。水槽学部の名に恥じず、水槽が沢山ならんでいます。それは八個かもしれないし三個なのかもしれませんでした。とても暗い。水槽では臓の華のような魚たちがまるで深海のメリイクリスマスのようにぐにゃりと歪むとにび色の匂いがぎらぎらと光り「ワックスがけのお知らせ?」が定期的に実施されていました。

 あっ、痛い。

 隣の机に急に蹴飛ばされ、仲間の椅子が笑いながら無理矢理わたくしを抱きました。風船? 暗い。体が石像のようでしたので、部屋の奥が妙に白いと思ったら、それは遠くの能面でした。山のようなスティームパンクに埋もれていて、まるで能面のようでした。暗い。能面は明るい。だから蟲は能面に集まるのかもしれません。でもあれは本当に能面でしょうか? 枝の中からナナフシでも探すように、わたくしは目を凝らしますと、その瞬間、能面がにやりと歪んで。

 ――きゅう。

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