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 ブラックスワンから校舎に向かうには、学校の北側にある裏門を通った方が近道です。わたくしが無意識のうちに、これが本当の裏口入学――などと独創的ユウモアを炸裂させておりましたところ、渡り廊下と校舎の繋ぎ目辺りで、なにやら難しそうにしている室長と末吉さんのお姿を確認しました。

「どうなされたのですか?」

 声をかけると、末吉さんだけがこちらを振り向きました。室長はしゃがみこんだまま渡り廊下の壁をじいっと観察しておられます。

「見てよこれ」と、末吉さんは室長が眺めている辺りを指差しました。

 その檜板の壁には、何かを叩きつけてできた一円玉大の穴があり、そこを中心に裂けたようにひび割れが入っています。

 傍らに転がる五〇〇ミリリットルサイズのペットボトルが、わたくしの興味を引きました。そのコオラのペットボトルは、底の部分が細工されていて、ゴルフボール大の石が針金によってくくりつけられています。

 ――これで壁を破壊したのでしょうか?

 試しにペットボトルについた石の部分を壁に当ててみますと、壁の傷の形にぴたりとはまりました。凶器はこれで間違いないようです。

「なんなんでしょうねこれは」

「わからん」と答える室長は、考え事で心ここにあらずといった様相。

 わたくしはそのペットボトルをこん棒のように振り回してみました。いくら石がくっついているとはいえ、これで檜の板が貫けるとは思えません。それに壁を壊すのが目的なら、わざわざこんな物を作るより、野球部にバットでも借りたほうが早いと思われるのです。

「いったい誰がこんなことを……」と言ったところで、室長が何を憂いているのかわたくしはわかってしまった気がしました。

「まさか少女が?」

「いや……」と、曖昧に答えた室長は、やけに深刻な顔をしていました。

 少女がこのような破壊行為を働いたとは考えたくありません。いくら校長を憎んでいるとはいえ、このようなわんぱくを働くような子には見えませんでした。真面目で明るい、ちゃんと挨拶もできる子だったのです。非暴力主義の愛すべき渡り廊下テロリストだったはずなのです。もしやこの前のショックで、少女がやんちゃになってしまったのでは――。

 思案顔でペットボトルを拾い上げた室長は、無言で校舎へ歩いていきました。


 施行室の扉の前に立っただけで、中の張りつめた空気が伝わります。

「もう走らないって言っただろが。いっつも邪魔しやがって!」

 耳に飛び込むのは副室長の一喝。室長が慌てて扉を開きますと、竹刀をばっちんばっちんと床に振り下ろす副室長がおりました。一振り一振りに珈琲を邪魔された怒りがこもっています。その迫力に室内の空気が震えます。

 ゆみちんも無言で少女の猿ぐつわを締め上げていました。あんなに無表情なゆみちんは、わたくし初めて拝見するかもしれません。

「いいぞ、ゆみ。もっとやれ」

「はい」

 すっかり意気投合といった様子のお二人。

 副室長もああまで激昂するくらいなら、室長のお言葉に甘えてブラックスワンに残っていればよろしかったのに――と、少し疑問にも思いますが、そんな意見はできません。なにせ竹刀は嫌です。

しかし少女も相変わらずの気の強さで、竹刀にも負けずぷいっとしておりました。

「渡り廊下をぶっ壊したのも、どうせオマエなんだろう」と、副室長が竹刀を突きつけたところで、止めに入ったのは室長でした。

「そのくらいにしておきなさい」

 室長はいたわるような優しい目を少女に向けました。その仏像のような笑顔は、穏やか過ぎるあまり、どこか畏怖を感じさせるところがあります。

 そして、その効果は絶大でした。

 瞬間、少女の顔がみるみる恐怖に歪んでいきました。

 例えるなら、悪事がばれて職員室に呼び出されたとき待ち構えていた体育教師がなぜか薄ら微笑んでいたときの恐怖。これから怒りを噴出できることに喜びを見出しているような、いたぶりの快楽に打ち震え思わずそれが溢れでてしまったような微笑。

 そのような笑みが、単純な怒りの表情よりも人に恐怖を与えることを、室長はしっかりと心得ておられました。

 怒髪が天を衝いていた副室長でさえも、その様子を見てあっさり室長に席を譲り、「さすがだな」と、室長の肩をぽんと叩きました。ゆみちんも全てを悟ったようで、すでに少女の靴を脱がしにかかっていました。

「室長、もうそこまでしなくても良いではありませんか」

 気の毒になったわたくしは、少女の猿ぐつわを外しながら室長を非難しました。

 もう十分ではありませんか。少女はすでに、生きたまま食われる昆虫のごとくぴくぴくと痙攣しているのです。

「え? あ。う、うん」

 室長はなんのことかわからないといった風に、悪びれることもなくとぼけてみせました。これぞ真の悪党の振る舞いでしょう。

 猿ぐつわを外された少女が自白したのはすぐでした。

 少女は昨日、夕食に作った海藻サラダのことで、カツラ先生と喧嘩をしたことを話しました。父のことを思って父の分だけわかめたっぷりにしてあげたのに、なぜか機嫌を悪くしたそうです。

 少女の気持ちはわかりますが、同情は使い道を誤るとかえって人を傷つけます。心、体、どこかに劣等感を持つ人は、むしろ他人と同じように扱われることを望み、同情されることを嫌います。劣等感を隠そうと強がる人に、安易な哀れみを向け本質を突いてはならないのです。

 ――渡り廊下を走れば、父が校長に怒られていい気味だと思った。

 それが少女の主張でした。

 わたくしは、もしまた室長が少女に施さんとした時、もうお止めする自信がありませんでした。わたくしどもを巻き込むのは心底やめていただきたい。

「だから校長室の前で、わざわざかんしゃく玉を鳴らしてから走ったのか。この前のように校長が気づかなければ意味が無いものな」

 室長はかんしゃく玉の詰まった小袋を机に置きました。ゆみちんが少女を椅子に拘束した際、少女のポケットから発見した物でした。

「だが残念だったな。校長は今日は休みだ」

 少女が歯軋りするのがわかります。

 昨日黄金週間が明けたにもかかわらず、校長は有休を取得して連休を延長しておりました。他校の生徒である少女は、そんなこと知る由もありません。

「しかし……かんしゃく玉なんて、そんな手の込んだことまで?」

「うむ。だがそのおかげで少女をすぐに発見できたらしい。だから四人でも簡単に捕らえられたのだ」

 先日は捕らえるのに八人がかりでも苦労した駆けぬける少女。それが今日はあっさりと捕まっていたのは不思議でしたが、そのようなことならば納得です。

 わたくしは目の前にあったかんしゃく玉を一つ取り上げました。カラフルな小石のような風貌をしていて、鮮やかな原色が子ども心をくすぐります。ですが、このように可愛らしくても火薬の一種ですから、取り扱いには気をつけなければなりません。ちょっとした衝撃で大きな音を立てて爆発してしまうのです。

 ……しかし、こんな物騒なものを所持していたのならば、もしかして――

「やはり、壁を壊したのも少女なのですか?」

 わたくしはあの石付きペットボトルを見せながら少女に問うと、彼女はぶんぶん首を横に振ってみせました。

「てめえシラきってんじゃねえぞ!」

 副室長は、脱がせた少女の靴を室長の方に突き出しました。ですが、少女は怯えた様子をしながらも頑なに首を振り続けます。

「これは本当にやっていないのでは?」

「ああもうしらねえしらねえ。こんなもん完全に保護者の責任だろ。だけどよぉ、さすがに器物損壊はまずいなあ。誰かカツラに電話しろよ。あと警察」

 警察と聞いて、少女の顔からさあっと血の気がひきました。「施し」とは別の質の恐怖が彼女を襲っています。――これは本当に洒落にならない――。少女はぶんぶんと首を振って、必死に無実を訴えていました。

「待て」

 室長の声で、カツラ先生と警察に連絡しようとしたゆみちんの動きが止まりました。

「壁を壊したのは少女ではない」

「オマエ、なんかさ。妙にこいつのことかばうよな。気持ちわりぃ」

「いや、そうではないのだ」

 室長はそう言って、室員全員を施行室の外に出るように促しました。施行室の中には椅子に拘束された少女だけが取り残されます。

「こうなったら隠しておくわけにもいくまい」

 室長は、室員全員を集めて座らせると、意を決したように口を切りました。

「先日、清掃部委員長から聞いたのだが、最近校内に不穏な気配があるのだそうだ。校長に不満を持った連中が密かに結集して、なにか良からぬことを企んでいる、とな。

 まだ噂の段階であったし、変に動揺させるのも悪いと思って黙っていたのだが……。その連中の仕業という可能性がでてきた以上、皆にも話しておいた方が良いのだろう」

「校長に不満? 当然じゃねえか。どんどんやってもらおうぜ」

「それは困る。校長があの渡り廊下を盲愛しているのは、この学校の生徒なら誰もが知るところだろう? 校長への不満を示すには、校長の象徴ともいえる渡り廊下で何かをしてくる可能性が高いのだ。だから清掃部委員長も、渡り廊下対策室長である俺だけには話してくださった」

「では室長は、壁の穴はそのかたたちの仕業だと?」

「まだわからん。だが少女を犯人と決めつけるのは早計だということだ。個人的な意見を言わせてもらえば、あの少女がそんなことをするとは思えんのだ」

 室長は深いため息を吐かれました。

 それにはわたくしも同意見でした。部室の殿方からも「もし少女がやったのだとしても、その連中のせいにしてしまおう」と、少女を擁護する意見があがりました。副室長とゆみちんは面白くなさそうです。

「ともかく、岬少女のことは俺に任せてくれ。あと、今の話はここだけの話で頼む。噂が広まって校長の耳に入ると面倒だ」

 そう言い残して、室長は一人で施行室に戻ってゆきました。

「ともかく」を便利に使われた感はありましたが、少女に施さんとする室長をとめる者は、もはや誰もおりませんでした。このわたくしですらです。少女がこんな誤解をされてしまったのも、元をただせば彼女の自業自得です。一度くらいしっかり施されてみるのも彼女のためなのでしょう。

「なにやらめんどくせえことになったなあ」と、副室長が嘆息されました。

 わたくしは施行室から慌てて持ってきてしまったペットボトルを、当てもなく眺めました。

 沸々と湧き上がる怒りをわたくしは禁じ得ません。コオラはあんなに素晴らしい飲みものなのに、そのペットボトルを破壊行為に利用するなど、決して許されてはならぬことです。これをきっかけに国連がコオラを危険飲料と認定して、発売禁止などという事態に発展するのをわたくしは恐れます。そのようなことになれば本場米国が黙っていないでしょう。そして聞こえてくるのは第三次世界大戦の足音――。

「少女がいない! 逃げられた」

 突然、室長が足音を荒げて施行室から飛び出してきました。

 まさか、と施行室に駆け込んで見ると、確かに椅子の上にあった少女の姿はありません。開け放たれた窓からは風が虚しく舞い込んでおりました。

 わたくしどもがいない隙に、椅子の拘束を外して窓から逃げたのでしょう。窓から顔を出してみますと、隣の部屋の窓が開け放しになっているのがわかりました。こちらのベランダから隣の部屋のベランダまでは、容易に飛び移れる程度の距離です。

「別にいいんじゃねえ。どうせ校長もいねえし」

 蝿を撃ち落とすテッポウウオのごとく的確に、皆に冷や水を浴びせる副室長の一言。

 冷静に考えると、確かにどうでも良かったのです。校長いないですし。

 少女に施せなかった室長だけが悔しい思いをしているだけでしょう。ですが、意外に室長もそれほどでもなさそうです。

 むしろ、ゆみちんだけが腑に落ちなさそうに首を捻っておりました。

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