序~1
渡り廊下を駆けぬける。
そんな狼藉が横行しています。
そもそもこの高校は、校舎から体育館へと続く渡り廊下が、二一二メートルもあるから悪いのです。
何処の建築士が設計したのかはわかりません。わたくしのような建築素人の女には、どうにも設計ミスの類にしか思われぬのですが、わたくしが入学したときにはもうあっちゃったんだから仕方がない。
ですが二一二メートルもあれば、駆けぬける者が発生するのはごく自然なことでした。
直線は人の野生を呼び覚まします。リードが外れたちわわ犬の如く、理性のたがが外れた方々が、渡り廊下を猛然と駆けぬけるのです。
しかしそれだけならば、風紀委員会単体でも十分取締まるに足るお話でした。
恨めしきはテレビ局と山風の存在です。山風と申しましても、『夜間、尾根から谷、谷から平野部へと吹き下ろす風』(国語辞典より)ではございません。歌って踊れて笑いもとれるアイドル集団『山風』のことです。
去年の秋ごろでしょうか。山風がゴールデンの冠番組で、視聴者参加型の小籠球遊戯を始めたのが事の始まりでした。
山風がやるものは全てが流行ります。山風が歩けば番組が当たる。山風が吹けばスポンサーが儲かる。なぜ山風はこんなに人気があるのかとファンに魅力を訊ねれば、「山風は別格なの!」と、酷く具体的な答えが返ってくるのです。
当然のように籠球が流行り出すと、各テレビ局が競うように籠球番組を放映するようになりました。大晦日などは全ての局が籠球の特番を組みました。あの恒例の歌合戦さえも紅白籠球歌合戦となり、籠球が放映される中、右下の小画面で歌合戦が繰り広げられました。テレ東でさえ籠球のアニメでした。
一〇代というのは、流行りに棹さし翻弄されるために存在しているような生物です。ともなれば、学校の体育館が籠球目的の生徒で溢れかえるのも時間の問題でした。
昼休みになれば皆、我先にと渡り廊下を駆けぬけます。数限りあるボールを確保しようと躍起になります。体育館は人で溢れ、場所はなくなり、足りないボールを奪い合う阿鼻叫喚の地獄絵図。ボールが少なすぎる、人は多すぎる、ともなれば「じゃあ人をゴールに入れてしまえばいいじゃない」という発想が生まれるのが、自然の成り行きというものでした。
皆がわっしょいわっしょいと人をゴールに入れるようになります。少し遠くからえいっといれると三点になります。あいやそいやの掛け声が沸き起こり、最終的にはなにやらT字型の御神体がゴールに突っ込まれます。
その熱気たるやなかなかのもの。一見の価値あり。その魅力を語れば、別に本が一冊書けてしまうのですが、そんな話は全てわたくしの創作に過ぎません。
だって、そんなわけないじゃありませんか。
でも、渡り廊下には二一二メートルの孤独が広がっていて、そこを駆けぬける生徒たちに手を焼いているのは本当なのです。
1
「水無月くん、水無月くん」と呼ぶ声がします。
妄想の中、心地よく舟を漕いでいたわたくしは、朦朧としながら我に返りました。
「会議中に寝られては困る」
「寝てるとは失礼な。少しうとうとしていただけですが」
会議と言っても、いつもたいしたことは議論されません。周囲を見れば、室員七人中わたくしを含めた五人が夢と現の境を彷徨っています。皆が睡眠をとるのなら、わたくしとてやむを得ず睡眠をとらせていただくのが真の協調性というもの。どうしてわたくしだけを責めることができましょう。
「寝るのならもう少し静かに寝てくれ。君はいびきがうるさいのだ」
風紀委員会の分室は南校舎最上階の三階にあり、春の陽気を楽しむには校内で最も素晴らしい場所といえます。ましてや、ポタアジュのような日射しがとろとろとふりそそぐ放課後とあれば、なおさら。
ですがわたくしは、そのような言い訳を誰にも口にせず、会議の進行側が聞き手を寝かさないための努力を怠っている責任も問わず、まるでわたくしだけの非であったかのように、謙虚に反省をするのです。
「皆も起きてくれ。昨日、例の少女にまた渡り廊下を走られてしまった。これで今年度に入ってすでに五回もやられている。まだ四月下旬にもかかわらずだ!」
声を荒げた室長は、ざんばら髪を振り乱しながら、どん、と机を叩きました。
「プロファイリング班はどうした! 身元はまだ割れないのか!」
気まずい沈黙が流れました。プロファイリングとはなんでしょう。
妖艶な黒髪をたくし上げ、静かに顔を起こしたのは二城野和ヰ子副室長でした。副室長は潤んだ目を擦りながら――
「だから学校にプロファイリング班なんていねえっていつも言ってんだろ。この阿呆インフルエンザが」
渡航禁止にすんぞこのやろう、と女性らしい気っぷの良さで言い放つと、「たぶん一年じゃねえの」と呟いて、再び机に突っ伏しました。
例の少女、通称『駆けぬける少女』が、渡り廊下界にセンセエショナルに登場したのは今年度に入ってからのことだそうです。よって、たぶん一年じゃねえの。見事な推理に思えました。
「うむ」と、室長もそのプロファイティングには納得されたご様子。ですが一方で、隠しきれない不満が滲みます。
「まだ名前すらわからんか……」
「あのお」と遠慮がちに手をあげたのは、隣に座っていた、わたくしと同じ一年生のゆみちんでした。ゆみちんはふんわりボブカットを揺らしながら一生懸命頷いて、室長の話を唯一真剣に聞いていました。
「少女が現れるのは決まって放課後の四時以降です。昨日は逃げられちゃいましたけど、デジカメが撮れました」
ゆみちんが少女の写真を掲げると、そこには鮮やかなオーロラブルーのスカートを颯爽と翻す少女が写っていました。この高校には制服がありませんので、渡り廊下を駆けぬけるときも、yの最大値を求めるときもみんな私服です。
少女の写真と聞いてむくりと起き上がったのは、やる気が皆無だったはずの室員たちでした。議論の声でにわかに活気づく室内。
――スカートからわずかに覗いているものが、パンツなのかスカートの裏地なのか。
心情的にはパンツだと思いたいが、スカートの裏地の可能性が極めて高いというのが多数派のようでした。
ゆみちんは続けます。
「少女には、放課後にしか駆けぬけられない理由がなにかあるのかもしれません。ですから放課後に残っている一年生を片っ端からあたってみましょう」
ゆみちんの発言で、やんやとあがる拍手喝采。
しかしその推理はわたくしもとうにできていたこと。わたくし生来の謙虚な性格――日本人の美徳たるそれに阻まれて、ただ発言が謹しまれていただけのことなのです。にもかかわらず、ゆみちんが必要以上にもて囃され、まるで自分にしかわからなかった推理であるかのように驕り高ぶり、ややもすれば傲慢の道に進んでしまう。それは彼女にとって不幸なことではあるまいか。わたくしが心配するのはそこなのです。
しかし、と室長は首を捻ります。
「その写真、本室の方にはもう提出したのか?」
「はい。もう見てもらいました」と、誇らしげにゆみちん。風紀委員会には本室と分室があり、こちらの分室――『渡り廊下対策室』は、風紀委員会三十人の中から推薦された八人で構成されております。
その選抜チームの指揮を執る室長が、ゆみちんの言葉に腕組みで唸って言いました。
「少女が一年生ならば、同じ一年生の風紀委員の誰かが知っていそうなものだろう。風紀委員は全学年全クラスから一名づつ選ばれているのだからな」
そのとおりです。実はわたくしもそこが引っかかっていたところでした。
反論できずに、あうう、と頭を抱え込むゆみちん。
あまり人様を悪く言うのは、わたくしなどには憚られてしまうのですが、軽率とでも言うのでしょうか、そんな性質をゆみちんは持っています。厄介事にひたすら余計な足を突っ込みたがる姿は、どこか素人探偵を思わせました。
ともあれ、少女が二年生か三年生である可能性は、わたくしもすでに考えてはおりました。
「でもそれ言ったら、風紀委員の二年や三年も知らないのはおかしいんじゃねえ?」
唐突に発言したのは、机に突っ伏したまま、ふごごと冷静を保っていた二城野副室長でした。
さすが分室一の切れ者、と、わたくしが称賛する副室長です。わたくしがいっとき考えていた「犯人は一年生でも二年生でも三年生でもない」説にたどり着くとは。しかしさすがの副室長も、その説の重大な欠点にまだ気がついていらっしゃらない。
それは――高校に四年生はない! ということです。そして五年生も。
「ではいったい何年生だと言うんだ……」
室長がうなだれたそのときでした。
「大変です! 渡り廊下に暴走者が現れました!」
分室のドアを勢いよく開けると同時に叫んだのは、渡り廊下を見張っていた斥候さんでした。柱時計を見上げれば、針は三時五十五分を指しています。
「今日も来たか!」
室長は前をはだけた学生服をマントのようにはためかせ、あっという間に部屋の外に消えていきました。男子三人もスカート裏地の真偽を確かめるべく後に続きます。
少し遅れて、桃色のゆるふわニットワンピースも勇ましく、ぽよんぽよんと跳ねていくゆみちん。あれは駆け足?




