自炊の出来る熊
帰宅し、昼飯の用意をする。といっても料理は全く得意じゃないので、茹でたパスタにレトルトのミートソースをかけて終わりだ。ミートソースは温めたりしない。パウチを切って、温いまんま熱々のパスタにかけて、フォークでガシガシ混ぜる。こういうパウチって殆どが二人前入っているが、一人前しか食べられない人はどうしているんだろう。小分けになっているやつを買うのか。
皿を洗った頃に、チャイムが鳴った。ドアを開けると、案の定そこにはヒグマの姿。
「よっ!」
「よっ! じゃあねぇよ。とりあえずはよ入れ。通報されるとやばい」
「それな?」
スカーフみたいにバスタオルを首に巻いてきたアレックスは、玄関で足を丁寧に拭いてから上がった。こういう地味な気遣いが出来るから、こいつを警察に通報しづらい。
俺はテレビの前のヨガマットに座った。筋トレ用のベンチに腰掛けて口を半開きにしているアレックスに訊ねる。
「そもそも、何で俺んちに来るんだ?」
そう。平然と友だち面してやって来てるが、そもそもヒグマが俺の家に来ていること自体がおかしい。
「本能よ」
「本能じゃねぇよ。本能なら山で暮らせよ」
「無理無理無理無理。めっちゃ虫いるじゃん」
「乙女か!」
「およそ乙女だよ!」
「およそつければ何でも誤魔化せると思うなよ? 世の中には四捨五入出来るものと出来ないものがあるんだ」
およそ乙女ってなんだよ。四割がた男なのか、四割がたオバサンなのか、四割がた女を捨ててるのかわかんねぇわ。
「はぁ? 四捨五入なめんなよ」
「なめてねーよ。なめてんのはそっちだろ」
「四捨五入の凄さ語って欲しいの?」
「長くなりそうだからやめろ」
「語る」はNGだ。関連語句に「おっさん」と「自慢話」と「クソ長い」が付いてくる。つーか四捨五入の凄さってなんだよ。4以下切り捨てて、5以上は上げるだけだろ。
アレックスは短くて固そうな毛が生えた頭を、爪でガシガシと掻いた。人間なら出血しそうだが、熊本人はノーダメージのようだ。
「あれ? 熊って後ろ足で頭掻くんじゃねーの?」
「小春君はヒグマの何を知っているというのか」
「あー……」
そういえばヒグマの生態とか全く知らねーわ。知っているからって、アレックスの何がわかるとも思えないが。そもそもこいつ、本当にヒグマなのか?
アレックスは重たい動きで立ち上がると、おもむろに冷蔵庫を開けて中を覗いた。
「おいおい、勝手に覗くなよ」
「何も入ってない。寂しい冷蔵庫ね」
「しんみりと言うな」
中身が寂しいのは事実なので、あんまり言い返せない。入ってるのは納豆とザーサイ、チューブ生姜と中華味の素くらいだ。あと牛乳。
「料理しないの?」
「しないっつーか、出来ないな」
「へぇ、意外。普段何食べてるの?」
「んー。冷凍ピラフにパスタソースのカルボナーラかけたり? 米は炊くから、お惣菜買ってきて食べたりするかな」
「そんなんだからヒグマに勝てないんじゃない?」
「ヒグマに勝てたら人類じゃねえよ」
どんだけいいもの食ったらヒグマに勝てるんだよ。あと、プロテイン飲んで筋トレしてるから、並みの男子大学生よりは強いはずだ。
アレックスはぱたりと冷蔵庫を閉じた。
「つーか、なんでそんなに人間界の事情に詳しいんだよ。ちゃんと熊らしい生活しろよ」
アレックスはどかりと床に座った。黒目しかない、どこに焦点が合っているのか分からない目で俺を見つめる。動物の目って、ガラス玉に似ているんだな。ふと、関係のないことを考えた。
「思考回路や感性って、使用する言語に影響を受けるって聞いたことある?」
「あれか。日本人は緑を表す色の言葉をたくさん持っているから、たくさんの緑色を識別できる、的な?」
「まあ、そんなんでいいよ。適当でいいのさ。で、僕は人間の言葉を使える。だから、体がヒグマでも、思考や感性は人間に近いのさ」
アレックスの言葉になんとなく納得しかけ、ふと思い出した。
「本能とか言ってるヒグマがいなかったか?」
「覚えてないなぁ」
「はぁ? 都合の悪いことだけ忘れんのか?」
「ヒグマにあんまり多くを求めんなよ。どれだけプリティーでクールでも、僕は所詮ヒグマよ」
「ヒグマ属性を都合よく使い過ぎだ」
「うるせー、噛むぞこら」
うがーと両手を上げて威嚇された。それは洒落にならないからやめろ。
人間臭いくせに、ちょいちょい熊っぽさを出してきやがるな。それも、要らないところで。
「逆に、小春君はなんでそんなに体を鍛えてるの? 一人暮らしの大学生にしては大きな部屋に住んでるなって思ったら、ほぼ筋トレ器具で埋まってるね?」
俺の部屋は、生活に必要な最低限のスペース以外は筋トレ器具に占領されている。最初はここまでやるつもりは無かったのだが、少しずつ増やしているうちにこんなことになってしまった。
うちの大学は田舎にある。理由は単純、土地代に払う金がなかったから。というわけで、トレーニングルームなんかも、予算がなく作られていない。だから、道具を使ってトレーニングしたければ、自分で揃えるしかない。その結果がこれだ。
「筋トレしているのは、筋肉があればたいていのことはなんとかなるからだ。この部屋の家賃も、テレビ番組の『筋肉チャンピオン〜小麦色の体育祭り〜』に出場して優勝したときの賞金から出してるんだ」
「へー、すっごい。すっごい臭そうな番組だ!」
「うるせーよ。控え室は確かにめちゃくちゃ臭かったよ!」
「きっと画面越しでも臭かったはず。ヒグマは鼻がいいからきっついわー」
「要らんところでヒグマっぽさを出してくるなと」
小器用に鼻を押さえているアレックスにチョップすると、ポコスと間抜けな音が鳴った。なんだこいつ、頭の中身は空っぽか。
「頭は叩いちゃダメ。ヒグマって頭が弱点だから」
「ほとんどの動物はそうだろ」
携帯電話を取り出して、パケット代が多少かかるのには目をつむり、ヒグマの弱点を検索してみる。「頭蓋骨がとても硬く、小さな口径の銃弾では死なないことがある。胸を狙うべし」と書いてあった。本当にこのヒグマは適当なことしか言わないな。
「しっかし、本当に何もないんだね。少しは自炊してみたら? おっかさんが泣いてるよ?」
「自炊できないくらいじゃ泣かねーよ」
「いやいや、息子の不摂生は、たいていの母親は悲しむでしょ」
「そんなもんか?」
言われてみれば、そんな気がしてきた。今まで手のこんだ料理を作って食わせてきたっていうのに、一人暮らしを始めた途端出来合いのものしか食ってないって、確かに母親からしたら悲しいことかもれないな。大学に入って以来、悪いことをしてきたんじゃないかって思えてくる。
「自炊、してみっかなー」
面倒くさいという気持ちと、やってみりゃ簡単に出来るだろという楽観を95%くらいの濃度で込めて、伸びをしながら言ってみた。
「いや、無理でしょ」
それが、一秒でばっさり切り捨てられる。
「いやいや、自炊すすめといて、いざやろうとしたら全否定かよ」
「いやいやいや、そもそも調味料も買ってない人が何を作れるの? 何を使えば何ができるのかわかってる? そもそも調理器具はあるの?」
「……無理だ。俺には自炊は無理だったんだ」
「筋肉だけじゃどうにもならないことも世の中にはあるのだよ、小春君」
「ぐっ」
俺は実に得意げに見下ろしてくるヒグマの前で、崩れ落ちた。瀕死の体勢から、アレックスに一矢報いんと言い返してみる。
「じゃあ、お前は自炊出来んのかよ」
「余裕」
「嘘、だろ」
ヒグマも自炊する時代になったというのか。奴らは生で鮭とドングリを齧るような生き物じゃなかったのか。俺の文化的生活力は、ヒグマ以下だっていうのか?
「ヒグマは……北海道の熊は、いつの間にそこまで進化したんだ?」
「愚かな人間が、スーパーの総菜をむさぼっている間に、ね」
「まあ、アレックスは日本語しゃべれるし、例外だろ。例外のはずだ。それで、本当に自炊出来るのか? 自然界にフライパンとか無いだろ?」
「その辺はまあ、腕の見せ所よ」
「いや、腕以前に道具無いだろ」
「いやいや、四捨五入すればけっこうある方だから」
「お前本当は四捨五入知らないだろ」
野生のヒグマが料理してるシーンとか、想像も出来ないわ。どんだけ賢いとしても、たき火に鮭放り込むのが限界だろう。
それでも自炊が出来る、料理が出来る、と言い張るアレックスに料理をさせてみることにした。本当に出来たら……そうだな。頭を下げて、料理を教えてもらうとするよ。
何はともあれ、ヒグマでも扱えそうな食材を用意しておかなければならないな。鮭の切り身と、鮭の切り身と、それと鮭の切り身でいいだろうか。スイカ畑にヒグマが出没するなんて話を聞いたことがあるが、まだスイカのシーズンじゃないしな。冷凍の切り身でいいだろう。
「それじゃあ、それなりに食材用意しておくから、楽しみにしておけよ」
「まあ美味しいもの作るから、ごはんは二合くらい炊いておきなよ。明後日また来るから」
「あれ? 明日は来ないのか? いやまあ、俺も用事あるからちょうど良かったんだけどさ」
「ヒグマにもヒグマなりの用事があるの」
「いやマジでお前普段どこで生活してんの?」
山で生活したくないヒグマとか、本当にどこで生活しているんだよ。動物園から脱走とか冗談じゃない。
「およそ」「およそは禁止な」
言葉を被せて、お得意の誤魔化しを潰す。
「そんじゃ、僕帰るんでよろしくー」
「あ、てめ誤魔化したな」
まだ外は明るいというのに、しれっと外に出ていった。その後ろ姿を見送ってから、ふと通報されやしないか心配になる。
別にアレックスがどうなろうと、本当は構わないんだけどな。買った鮭の切り身が無駄になっちゃいけないからな。うん。鮭の切り身のためにだな。
靴をつっかけ、外に出てヒグマの姿を探す。が、アレックスはどこにも見当たらなかった。どこに行ったんだ。
「まぁ、どこでもいいか」
ぽつりと呟いた声は、だだっ広い田舎の空にふわりと消えた。