プロローグ
一人暮らしの1DK。アパートの角の部屋は、カーテンを開けると強烈な日差しが注いでくる。目の奥に刺さった光がそのまま脳天に直撃した、かのように頭痛を覚えた。寝不足の朝に浴びる朝日は本当にきっつい。
大学生活二年目の春。田舎にある大学に通うために始めた一人暮らし。部屋にあるのは、冷蔵庫と洗濯機と筋トレの器具ぐらい。それと、ただアンテナにつなげているだけの古い液晶テレビか。特に好きなテレビ番組があるわけじゃないが、芸能人に関する話題についていけるようになった。
なにも塗ってないトーストを齧り、牛乳を飲んで朝食を済ませた。味気ないが、朝食を作るの面倒さと比べたらこっちの方がマシだ。キッチンの流しで顔を洗い、まだ硬くないヒゲを剃る。歯を磨くと、途端にすることがなくなった。探せばあるんだろうが、そこまでする気力もない。まだ六月。大学もテストシーズンじゃないし、勉強もまだやらなくて大丈夫。
とりあえずテレビをつけた。
小さな液晶に切り取られた、小さな世界の中では、高々と黒煙が立ち上っていた。どこぞで家が放火されたらしい。犯人は既に逮捕されているらしい。消防士たちが懸命に炎と戦っている。
「おー、すげ」
独り言も、多くなった。テレビは当たり前のように、俺の独り言を無視する。ここにいるのは、小春 涼ただ一人。キャスターもリポーターも画面の奥のどっかにいる。
妻の不倫に怒り狂った旦那が、間男の股間を潰して、そいつの家ごと焼いたらしい。怖いですねえ、だなんて顔の長いコメンテーターの女が言った。
俺はあまり考えるのが得意じゃいない。けれど、こういうのって下らないな、くらいのことは思う。人生諦めが肝心だ。間男が女に手を出すとき、女が不倫したとき、旦那が凶行に走るとき。誰かがどこかで、自分の気持ちを諦めていればこんなことは起こらなかった。俺はちゃんと、顔の長いコメンテーターがどうでもいいことしか言わないのを諦めた。
次のニュースは、山菜狩りをしていた中年と老人の間くらいの男性が、ツキノワグマに襲われたという事件だ。そういえば、去年はドングリが不作だったから、熊が飢えているので注意とか四月のニュースで言っていなかったか。男性は生きてこそいるが、右腕骨折と、胸に大きな裂傷を負ったらしい。破傷風の二次感染も起こしているそうだ。
「こえーな。いや、でもなんだかなあ。まあ、生きていてラッキーか」
「そうね。あ、コーヒー飲む?」
「どうも」
すっと横からマグカップが差し出された。湯気の立っているコーヒーを一口すする。いつも通りのインスタントの味だ。香りはあんまり無い。
「しっかし、あのおっさん? 爺さん? どうして生き残ったんだろう」
不思議そうに問いかけてくる声に答える。
「体鍛えてたんじゃないか?」
「筋肉だけでなんとかなるもの?」
「筋肉舐めんな。筋肉があれば大抵のことはなんとかなるんだよ。まあ、ここ北海道のヒグマと違って、本州のツキノワグマは小っちゃいからな。人間に例えたら、プロレスラーと一般人くらい違う」
俺はコーヒーを啜りつつ、ぼんやりと考えていた。
俺って、一人暮らしのはずなんだよな。昨晩、部屋の鍵をかけたっけ……。ダメだ、何度思い返しても、部屋に鍵をかけた記憶が出てこねぇ……。
あー、コーヒーが美味しくねえ。いや、これはいつも通り。めっちゃ脇から冷たい汗が流れているのは、今日初めての経験。
どうして、一人暮らしの俺の部屋で、会話が成立するんだろうな。いやほんと、どうしてだろうな。頬にも冷たい汗が流れる。
「なあ、あんた、誰?」
「僕? 僕はおよそアレックス」
「いや誰だよ」
アレックスとか知らねえよ。なんで日本の男子大学生の家に、そんな外人ネームのやつが来てるんだよ。
俺は思い切って、アレックスとかいう奴の方を振り返った。
「あ」
「よう」
俺は口をあんぐりと開けたまま固まってしまった。全身から冷や汗がマッハで流れ落ちる。人間噴水、俺。
ひらひらと、旧友に対するような気軽さで手を振っているそいつは。
ヒグマだった。
人間なんぞ一撃で粉砕できるんじゃないかってくらいでかい、鋭利な爪が、肉球満載の手の先から飛び出している。体の全てが、分厚く堅牢。愛嬌のある顔も、トラバサミみたいな巨大な歯が生えてちゃ、恐怖しか湧いてこねえ。
心臓が一気に早鐘を打つ。呼吸が浅くなって、言葉が出てこない。
自動車ごと人間を叩き潰す、猛獣界の王者、ヒグマ。俺の部屋になんでいるんだ、くそ。
ヒグマはその恐ろしい口を開いた。死を覚悟して目を瞑る。
「へいへーい、ブラザー。ども、ヒグマのアレックスだよ」
と、実に軽い調子で挨拶に目を開いた。アレックスはフローリングに敷いたヨガマットの上で、のんびりとコーヒーカップを口元に運んでいた。
人生諦めが肝心だ。俺は大学がド田舎なのも諦めたし、コメンテーターの顔が長いのも、コメントが役に立たないのも諦めた。だから。
俺は、理解を諦めることにした。
我が家に珍客がやってきた。