真夜中の放課後
初投稿です。よろしければお読みください。
彼女は、ほとんど毎晩そこにいた。
街灯が薄く照らすだけの深夜の公立高校のグラウンド。23時も過ぎると周りに人気もなく、耳が痛くなるようなシンとした静寂と肌寒さがあるばかりだ。
ハァッハァッ、と熱い自らの呼吸を聞きながら優介は今日も閉じられた校門からグラウンドを覗く。サッカー部が拾い忘れでもしたのだろう、薄汚れたボールを蹴って転がす、細いシルエットを見つけると、彼は迷わず門をよじ登り、中に飛び降りた。
優介が着地した音が聞こえたのか、ボールに伏せられていた顔が優介の方を向き、薄く微笑む。
「ゆうくん、こんばんは」
「…こんばんは」
もう三月と言えど夜は肌寒いというのに、彼女はセーラー服に赤いマフラーだけを身につけた姿で、ゆるゆると笑う。
そんな彼女に優介は妙な気恥ずかしさを感じながらも、彼女の元に向かいゆっくりと歩き出した。
彼には今日、やらなくてはいけないことがあった。彼女に聞かなくてはいけないことがあったのだ。
優介が毎晩のように深夜の高校のグラウンドに忍び込んでいる少女を見つけたのは、つい、三ヶ月ほど前のことだった。
陸上部を引退して三ヶ月が経ち、無事に学校推薦で大学の合格も決めていた彼は、鈍っている身体を鍛え直すためにも比較的静かな夜のランニングを再開してすぐの頃であった。
なんとなく覗いた自分の高校のグラウンドに、自分の高校の制服を着た少女が大の字で寝っ転がっている姿に面食らったのだ。
具合でも悪いのかと慌てて門を飛び越えて声をかけた優介に、彼女は目をまん丸に見開いてクスクスと笑った。彼女は、可愛らしいえくぼを作りながら、夜の誰もいない学校で過ごすのが好きなのだと語った。昼間と違って静かな校舎を眺め、グラウンドで自由に過ごすのが好きらしい。
「夜の校舎って街灯に照らされて、まるで恐竜というか、大きな生き物が眠っているように見えるの」
そう、嬉しそうに。眠る校舎が好きなのだと言う彼女の言葉にピンとはこなかったものの、優介はいつの間にかそんな風変わりな彼女と毎日のように会い、一緒に過ごすようになっていったのだ。
それから彼女と優介の不思議な交流が始まった。
優介は日課のランニングの途中、必ずグラウンドを覗くようになった。それは彼女が絶世の美女だとか、ものすごくタイプだとかそういうことでは決してなかったのだけど。もしかすると彼女の少し大人びた雰囲気に惹かれたからかもしれない。
彼女は名前を香澄と名乗った。それ以降、「スミ」、「ゆうくん」と呼び合う関係が続いている。
深夜のグラウンドで過ごす時間は基本的にはベンチに座ってぽつりぽつりとくだらないことを語り合って過ごす。その日起きた出来事やら、野良猫の集会場を見つけたこととか、お隣さんのハムスターが子供を産んだとか、そんなたわいもない話。しかし、香澄はそんなたわいもないことも、本当に嬉しそうに相槌を売ってくれる。そんなたわいもない話も香澄と共有すると不思議と腑に落ちるというか、お腹に溜まっていくような感覚を覚えていた。多分、香澄とぽつぽつと話す時間がまた一つ小さな思い出になって自分のお腹に溜まっていってるんじゃないかだろうか。だからこそ今日、優介には聞かなくてはならないことがあったのだ。
いつも通り、ベンチに隣り合わせに座り、香澄はサッカーボールを手にふと、優介に笑いかける。
「卒業式、明日だっけ」
「うん」
「そっか、おめでとう!」
笑う香澄に、優介もつられて笑いながら、ふと口にした。
「スミってさ、本当にここの生徒なの?」
「…え?」
「いや、ここの制服着てるから探してみたんだ。スミのこと」
お互い、名前以外の情報はろくに持っていなかった。特に優介は香澄の学年すら知らず、以前連絡先を聞いた時も適当にはぐらかされたという経験もあり、卒業を前にしらみ潰しに探してみることにしたのだ。手がかりは「香澄」という名前と彼女の姿だけ。
しかし、香澄は見つからなかった。それはなんとなく優介も予想していたことだった。そもそも三ヶ月も校内で彼女の姿を探そうとしなかったのは、なんとなくタブーのように感じていたからだ。真夜中のグラウンドに現れる彼女と昼間に会えてしまうのは、少しもったいないように思えたし、優介自身もお互い気の向くままに会い、一緒に過ごすぬるま湯のような関係も嫌いじゃなかったのだ。
しかし、優介にはもう時間がなかった。
「明日、卒業すれば、俺は大学生になる。だから、その前に香澄がどこの子か知りたかった。最後ぐらい、お互い学生として会ってみたいって思ったんだ。
勝手なことしてごめん。でもさ、明日。ちゃんと俺の卒業式きてもらえるかな?」
香澄は不登校なんじゃないか。それが優介の出した結論だった。だけど、それでも優介は最後ぐらい明るい中で香澄に会いたかった。それは優介の我儘なのかもしれないけれど。最早、彼の大事な思い出の一部となってしまった香澄と卒業式に会いたいのだ。そしてそこから、この不思議な関係を時間帯関係なく会える友達に進められたらと思ったのだ。
香澄は顔を伏せたまま黙り込んでしまっている。薄暗いグラウンドでは彼女の顔は見えない。不登校の子に辛いお願いをしているのはわかっていて、優介はどうしても譲れなかった。
「ちゃんと式に出なくてもいいよ、その後ちょっと会えるだけでもいいから」
「…出れないよ」
「…え?」
「…出れるわけないじゃん!」
バッと勢いよく顔を上げて、優介を睨みつけた香澄の顔は怒っている鬼のような、だのに今にも泣き出しそうな。ひどく複雑な顔をしていた。初めて見た顔だった。
「どうせゆうくんも私が頭おかしいって思ってんでしょ!」
「え、いやそうじゃなくて」
「そうじゃないなら何!? どうせ笑い者にするんでしょ!?」
「いや、そんなつもりもないよ」
「嘘だ!!」
香澄はその目からボロっと大きな涙を流すと優介が何かを言う間もなく、グラウンドを走り去っていった。赤いマフラーが暗闇に溶けていく。
すぐに追いかければ追いついたのに、優介は金縛りにあったようにそこから動くことはできなかった。少なからず距離は縮まっていたと思っていたのに、彼女にあそこまで拒絶されたのがショックだった。頭を抱え、優介はため息をつく。
暗いグラウンドに眠りのついた校舎が静かに佇んでいた。
香澄は一目散に家に飛び込んだ後、そっと靴を脱ぎ階段を音も立てずに上がる。いつもの慣れた行為の筈だったが、今日は涙と鼻水のせいで音を立てないのが難しい。今にも大声で泣き出してしまいそうな気持ちを押さえ込んで、小さく嗚咽しながら彼女は自分の部屋に向かった。
丁度部屋に入ろうとしたタイミングで隣の部屋のドアが開き、香澄は固まる。
そこにいたのは睨むように香澄を見つめる妹の姿だった。
「…お姉ちゃんさ、制服なんか着て毎晩毎晩どこ行ってんの? 気づかないとでも思ってたの?」
涙は止まったが妹に顔を向けることはできなかった。
「いい加減にしてよ! ご近所とかにバレたらどうすんの!? お姉ちゃん、いい歳して恥ずかしくないわけ!? 25にもなって会社も辞めて、制服着て夜中に出かけるなんてどういうつもりなの!?」
妹の言葉を最後まで聞けず、香澄は部屋の中に飛び込んだ。部屋の外では妹がまだ何かを言っていたが、もう聞くことはできなかった。
香澄が行けなくなったのは昼間の学校ではない。昼間の会社だった。行き場もなくなり、家族にも煙たがれた香澄の唯一の居場所が、あの真夜中の放課後だったのに。
「ゆうくん…」
声に出して、思わず自嘲した。何を言ってるんだ。25にもなったおばさんが高校の制服を着て、現役の高校生に毎晩会っていたなんて本当に馬鹿げている。馬鹿げているのに、香澄はどうしてもまた溢れてきた涙を止めることができなかった。
ゆうくんに嫌われた。ゆうくんともう会えない。そう思うと大粒の涙が次から次へと溢れ出てきてどうしようもなくなり、香澄はそんな自分を思わず笑った。
気付いたら好きになっていた。25の私が、18の男の子を。
卒業式になんか行けるはずもない。というか、もう彼に会えることもないのではないだろうか。それでも彼を思うと涙が止まらない自分を笑いながら香澄はひたすらに泣いて、泣き続けた。
なんとなくゆるっと終わらせてしまったので、もしかするとモヤモヤされている方もいらっしゃるかと思い…申し訳ございません。
香澄が暴走する理由は優介の言ってることが学生じゃないという事実がバレてしまったように感じてしまったからでした。その勘違い部分をはっきりしたかったのに、上手く表現できず…精進いたします。