あしながおじさん
私がまだ小さい頃、定期的に本を送ってくれていた人がいた。父を病気で亡くしてからふさぎ込みがちだった私にとっては何よりの贈り物だった。送り主の名は決まって母の名前だった。
「ねえ、お母さん、どうしていつもわざわざ本を送ってくれるの?直接渡してくれればいいのに」
「あら、お母さんはそんなことしていないわよ」
「でも、ほら…」
私は送られてきた包装紙に書かれた送り主のところを指して母に示した。
「きっと、“あしながおじさん”よ。それか、天国のお父さんが送ってくれているのかもね」
「あしながおじさん?」
“あしながおじさん”といえば、アメリカの作家、ジーン・ウェブスターの作品であるのだけれど、小さかった私はそんなことは知らない。だから、天国のお父さんが送ってくれているのだと思い込んでいた。
中学生になっても贈り物は続いていた。この頃にはさすがに天国のお父さんが送ってくれるはずはないことは解かっていた。そして、この頃から私の“あしながおじさん”の正体を突き止めてやろうと思う意識が高まった。
そんなある日、居間のテーブルに置きっ放しだった携帯電話が鳴っていた。マナーモードにしていたのだけれど、テーブルに伝わる振動にふと目を向けた。
“野間幸一”そう表示されていた。私は見なかった風を装ってバルコニーで洗濯物を干していた母に声を掛けた。
「お母さん、携帯鳴ってるよ」
母は慌てて戻って来ると、ディスプレイを確認するなり、携帯電話を手に取って再びバルコニーへ出て行った。会話している母はいつになく楽しげな表情だった。時折、私を気にするようにこちらに目を向けていた。洗濯物を干し終えて戻って来た母に私は尋ねた。
「だれ?」
「美紀ちゃんのお母さんから」
「ふーん…」
そんなはずはない。美紀の苗字は“高瀬”なのだから。怪しい…。まさか不倫でもしているのか…。あっ、母は一応、独身なのだから不倫とは言わないか。いずれにしても、母に男の影あり!
私が思うに、40歳を過ぎているとは言え、母は私に似て美人の部類に入ると思う。父が亡くなって5年。そろそろ新しい恋をしてもいいのではないかと私は思っていた。でも、まあ、そんなことはどうでもいい。母に好きな人が出来たのなら私は再婚しようがどうしようが特に反対はしない。それより、“あしながおじさん”が誰なのか?そのことの方が私には重要なのだから。
私が見当を付けている人が何人か居る。小さい時、母に“あしながおじさん”の事を尋ねたら知らない風だった。きっと、父の知り合いなのではないかと思う。母が知らないのであれば会社関係の人なのかも知れない。
私は父のお葬式に来てくれた人の名簿を見て会社関係の人をチェックした。ありがたいことにみんな住所を記入していた。まあ、当たり前なのだけれど。その人たち一人一人にお礼の言葉を装って探りの手紙を書いてみた。
『その節は大変お世話になりました。まだ小さかった私はきちんとお礼も言えませんでした。そんな私ももう中学生です。父が亡くなってから今までずっと本を送ってくれてありがとうございます。もうすぐ父の日です。亡くなった父の代わりに何かプレゼントをしたいと思っています。何か欲しいものがあれば教えて下さい。あまり高価なものはあげられませんが…』
と、いうような手紙だ。
返事が来た。
『気持ちは嬉しいけれど、残念ながら本を送っていたのは私ではありません…』
全員がそんな返事だった。当てが外れた。振り出しだ。
会社関係ではないのか…。そんなことを思いながらお葬式の名簿をめくっていた。ふと目を止めたページに見覚えのある名前が書かれていた。
“野間幸一”一般受付の名簿の中にその名前はあった。しかし、住所や連絡先は記入されていなかった。けれど、香典の金額は三万円とあった。
「そんなものを引っ張り出して何しているの?」
私は驚いて飛び上がりそうになった。今日は外出しているはずの母がいきなり声を掛けて来たからだ。
「あ、ああ、探し物をしていたら、見つけちゃって…。なんか懐かしくなって…。お父さんはどういう人とお付き合いしていたのかなあって…」
「そう、ちゃんと片付けておいてよ」
母は怪訝な表情を浮かべつつ、興味が無いような口ぶりでそう言うと、自分の寝室へ行った。私は思い切って聞いてみることにした。
「ねえ、お母さん。この“野間幸一”って、どんなひと?」
「どうして?」
「住所も何にも書いていないのにお香典は三万円も包んでくれているの。よほどお父さんと親しかったのかなあ?」
一瞬、母の顔色が変わった。
「お父さんの幼馴染だと聞いたわ」
「お母さん、この人の連絡先とか知ってる?」
「いいえ、知らないわ」
「そっか…」
「もういい?急ぐから出かけるわよ」
そう言うと母はそそくさと出掛けて行った。やっぱり怪しい…。
あの日以来、母は携帯電話を肌身離さず持ち歩いている。私に見られることを警戒しているようにも思う。不倫相手、もとい、うーん…。ここでは彼氏とでもいうべきか。いや、待てよ…。相手に配偶者が居るのだとすれば立派な不倫じゃないか!だから隠そうとしているのか?これはちょっと、“あしながおじさん”のことは置いといて、こっちを調べるべきか…。
そんなある日、千載一遇のチャンスがめぐって来た。外出先から帰って来た母が、携帯電話を脱衣室に置いたまま風呂に入った。まあ、普通はそうか。携帯持って風呂には入らないよね。もっと早く気が付けばよかった。
私はこっそり母の携帯電話をチェックした。着信履歴には“野間幸一”の名がずらりと並んでいる。美紀のお母さんの名前も申し訳程度には表示されていた。
「沙織?そこに居るの?何か用?」
まずい!気付かれたか…。私は母の携帯を元通りにしてそっと脱衣室を出た。
居間のソファに座ってテレビをつける。夜のニュース番組が放映されていた。母が出て来てテレビの画面に目を向けた。
「あら、ニュース番組を見ているなんて珍しいわね」
「私だってニュースくらい見るわよ。もう、中学生なんだから」
次の日、母が居ないのを見計らってあの番号に電話をかけてみた。
『はい、野間です。葉子ちゃん?家電からなんて珍しいね。もしかして、携帯、壊れたとか…。』
そこまで喋ると彼は急に黙ってしまった。
「葉子ちゃんじゃなくてごめんなさい。娘の沙織です」
『あ、ああ、そうだったの…。な、何か僕に用事があるのかな?』
「ズバリお聞きします。野間さんはご結婚されていますか?」
『い、いや、独身だけど…』
独身なんだ。良かった。これで母が不倫しているのではないことが確定だわ。
「母とはどれくらいお付き合いしているんですか?」
『うーん…。そうだなあ…。葉子ちゃんが、いや、お母さんが大学生のころからだから20年近いかな』
うわっ!そんなに?
「じゃあ、そろそろ結婚を考えてるとか?」
『そうなんだけどね。祐介、ああ、君のお父さんのこともあってなかなか踏ん切りがつかないみたいだね。葉子ちゃんはとても祐介を愛していたから』
「そうなんですか。ねえ、野間さん。今度、お母さんには内緒で会って貰えませんか?私も新しいお父さんが欲しいので野間さんのこと、応援しますよ」
『本当?それは心強い。じゃあ、今度の日曜日…』
日曜日、私は野間さんと会う約束をして電話を切った。差し出がましいかも知れないけれど、まずはお母さんを片付けよう。“あしながおじさん”はそれからゆっくり探せばいい。今の野間さんとの話では彼はお父さんとも親しいみたいだったから、もしかしたら、何か知っているかもしれない。
日曜日。出版社で仕事をしている母は取材があるのだと言って朝早くから出掛けて行った。いつもならダラダラしている私が早起きをしておめかしをしていたので母は「デートでもするの」と、からかったけれど、私が「そうよ」と答えたら目を丸くしていた。
私が電車を乗り継いで、待ち合わせの駅の改札口を出ると野間さんは既に待っていた。
「取り敢えず、いろいろ話がしたいからどこかのお店に入ろうか」
そう言って野間さんは駅前のカフェに連れて行ってくれた。野間さんはブレンドコーヒーを頼んだ。私はホットミルク注文した。窓際の席に向かい合って座ると、なんだかお父さんと一緒に居るような気恥しさに包まれた。
「これ。もう、こっそり送る必要もなくなったみたいだしね」
そう言って、野茂さんが差し出したのは私がよく知っている包装紙だった。
「えっ!これって…」
「今回はちょっと大人っぽい恋愛ものなんだけど、気に入ってもらえるかな」
包みを開けると、その中に入っていたのはスタンダールの『赤と黒』だった。違う!そうじゃなくて、なんで?
“あしながおじさん”は野間さんだった。野間さんは大学生の頃からずっと母のことが好きだったのだそうだ。でも、親友だったお父さんとお母さんが交際しているのを知って身を引いたらしい。けれど、お父さんの葬儀の時に久しぶりに再会して再び恋心に火がついたのだとか。
最近、ようやく恋人同士と言える関係になったのだけれど、母は私のこともあって、なかなか再婚に踏み切ることが出来ないでいるのだという。
私の“あしながおじさん”はこうして呆気なく見つかった。原作のお話しみたいなサクセスストーリーに憧れていたところも少なからずあったのだけれど、“あしながおじさん”が野間さんで良かったと私は思う。
結果的に“あしながおじさん”は私の“あしながおじさん”ではなくて、母にとっての“あしながおじさん”だったのかも知れない。
母は恥ずかしいし、お金もかかるからやめようと言ったのだけれど、野間さんは初婚なので、ちゃんと式を挙げたいのだと言った。
「じゃあ、三人だけの結婚式にすれば?」
「沙織ちゃん、それいいね!それなら葉子ちゃんもいいだろう?」
こうして私の提案が受け入れられた。
今、私の目の前にいる母はとてもきれいだ。母にそっくりだと言われる私がこんなに美人なんだもの。そりゃあ、当たり前ってものだ。控え目なドレスだけれど、母にはよく似合っていると思う。昨日までしていた指輪を今日はしていない。ゆうべ、そっと指輪を外して箱にしまう母の姿をみた。その時の母はとても穏やかな表情をしていた。今日からは野間さんの指輪をすることになる。そして、今、野間さんが母の指に指輪をはめた。
「お母さん、野間さん、おめでとう!」
私がそう言って祝福すると、母は私にブーケを手渡してくれた。
教会を出ると、桜の花びらが二人を、いや、きっと三人を祝福してくれているように舞っていた。