あと一歩の階段を。
梅雨も明け、世間では暑い暑いと愚痴を垂れる人々が増え、学生は夏の休暇に入る時期。そんな7月もあと数日で終わろうとしていた、とある日。
太陽が眩しい。こんな天気なら日の当たらない木陰に座って読書でもしたくなるのだけど、残念ながらその願いは叶わなさそうだ。今は野球場の一塁側スタンドに立っている。
「ストラーイク!」
球審の声が、球場をこだまする。
高校野球は青春の代名詞と言っても過言ではない。毎日毎日、晴れの日も雨の日も練習を重ね、真剣勝負の試合に備える。現代では彼ら以外滅多に見ることができない丸刈り頭の高校球児から発せられる大きなかけ声。真っ黒に日焼けした肌を伝う爽やかな汗。時には土や泥にまみれながらも、ひたむきに白球を追い続ける姿は、まさに青春。
目の前で展開されているのは、その高校野球の県大会決勝だ。今年は我らが県立西高校の野球部が十数年ぶりに決勝進出したとあって、関係者は大盛り上がり。地元でも、もしかすると甲子園出場が叶うのではないか、という淡い期待が広がっていた。
「そぉーれっ!」
『かっとばせー!うっ!ちー!だっ!』
応援団もいつになく大規模なものになっていた。生徒はもちろん、保護者や地元の人々など、少なくとも100人はいるだろう。決して強豪とは呼べない西高の応援に人がこれだけ集まるとは思わなかった。おかげで今日はとても忙しい。
僕は西高校ボランティア部の部長を務めている。部員は僕を含めて10人。部員は皆、基本的にどのような活動でも前向きに取り組んでくれるので部長としては嬉しい限り。
今日ここに立っているのも、ボランティア部の活動の一環、ということになっている。特設応援団の活動をサポートすることが主な任務だ。
炎天下の活動では必須の水やお茶を準備したり、応援用の小道具や応援歌の歌詞カードを配ったり、応援のタイミングをそろえるためのプラカードを挙げる役など、小間使いばりの働きぶりである。
『ワァァァァ!』
3番バッターの内田がフォアボールを選択。これで塁が全て埋まった。
『いいぞ!いいぞ!うっ!ちー!だー!』
「今日の応援は本当に力が入ってますね。……力が入りすぎてて、近くにいると耳と頭が痛くなるほどに」
こう言って苦笑いをこぼすのは2年の柏木君だ。彼には次期部長候補の筆頭として副部長をやってもらっている。僕よりだいぶ有能で人望もあると確信している。それを本人に言ってみたところで「部長には敵いません」とさらっと世辞を返してくれるのだから、なおさら。
「さもありなん。39年ぶりの甲子園出場が懸かっているからね」
きっと彼が部長なら、来年はもっと良い活動をしてくれると思う。
「満塁のチャンスだー!いけー!」
どこからともなく応援の言葉が飛ぶ。
試合は6回まで進んだものの、お互い一歩も譲らずにいる。スコアボードには0がいくつも並んでいた。
熱い場面ではあるのだが、休みもなしにずっと外を駆け回っていたことを思い出し、一休みして水分を補給するためにスタンド下の通路に向かう。
するとそこには新入生の三条君が、壁に寄りかかる形でちょこんと座っていた。
「あ、部長。すみません、今すぐ戻ります」
「いや、いいよ。僕も少し休もうと思ってここに来たんだから、おかまいなく」
僕はタンクに入った水を紙コップに注いで、彼女の隣に腰をかけた。
彼女は少し強ばった動きで、自らのコップの中の水を一気に飲みきる。
「お疲れさま。ボラ部に入って初めての大仕事はどう?」
「正直、大変です。せっかくの連休もつぶれてしまいましたし……」
「あはは。ごめん。こればかりは長年やってることだからどうしようもなくてね。ましてや今年は夢の甲子園行きにリーチときた」
『ワァァァァ!』
外から歓声が聞こえてくる。直前までの試合の流れからすると、どうやら西高が先制したようだ。
「僕が入学したての頃なんて、1回戦で敗退だったのに、今年はそれが嘘のように絶好調。今年の新入生にはちょっときついだろうな、とは思ってるんだけど、途中でやめるわけにもいかないから」
2年前の春はぼろ負けだった。26対0で5回コールド。応援する側も情けなくなるほどの負け方である。
「部長は、これで最後の活動になるんですよね」
彼女と目が合う。肌はあまり焼けていない。やっぱり日焼け止めを塗っているのだろうか。
「うーん。実質、今日で引退かな。この試合で勝って甲子園に行ったとしてもすぐに受験準備で忙しくなるから、あとの活動は次期部長にお任せすることになってる」
「そうですか……」
彼女はつぶやくと、あからさまにうつむいてしまった。
『いっけー!いけいけ!いけいけしょーご!』
会話が途切れる。聞こえるのは、すぐ近くから響いてくる応援の音のみ。
喉の乾きがひどくなってきた。
僕は今まで手をつけていなかったコップの中の水を、ようやく口にする。
「部長は、この部活動が好きですか?」
「突然の質問だね。嫌いなら、部長なんてやってないよ」
「じゃあ、部員のことは好きですか?」
「部員のみんなは好きというより、尊敬してるかな。みんな前向きだし、活動をやる前はお互いにいろんなことをしっかりと話して、活動は淡々とこなす。それは、そう簡単にできることではないんだ。だからすごいと思ってる」
「……れなら……」
再び会話が途切れる。うつむいたままの彼女は、空になった紙コップをにぎりしめていた。まるで何かに耐えるかのようなその素振りに、思わず心配になる。
「どうかした?もしかして、気分が悪い?」
すると彼女は突然顔を上げてこちらに向けた。目が充血しているのは僕の気のせいだろうか。
「いいえ!大丈夫です!それよりも……」
「それよりも?」
「この試合が終わったら、お話があります!」
力強い目でこちらに訴えかけてくる。
「今話しては……くれなさそうだね」
「お願いします。心の準備も必要なんです」
心の準備?そんなに大事なことなのだろうか。
「午後5時に、球場近くの喫茶マローネで待ってます」
これからやること、後片付けなどを考えても、午後5時なら大丈夫だろう。
「わかったよ。遅刻厳禁だよね?」
「当たり前です!」
そして彼女は駆け足で外に戻っていった。
「……ありがとうございます!待ってますからね!」
僕がここに来た時よりも、心なしか表情が明るくなっていた。まあ、暗い顔で活動しているよりはいいだろう。
彼女の言う話が気にならないわけではないが、それよりも今は、ボランティア部の部長としてやるべきことがある。
「さて、僕もしっかりやらなくては」
コップに残っていた水を一気に飲み干し、僕も活動に戻る。さあ、もうひとがんばりだ。
タイムスタンプを見る限り、2011年5月に書き始めたらしいのですがつい最近まで存在を忘れていました。この後、三条さんが起こすであろうこと、そしてその結果は、書くか書くまいか悩んでいます。
[14.10.24追記]三条さんの告白、書きました。 http://ncode.syosetu.com/n8102ci/