第7話:鬼と魔導士の戦い
「今日、またフォルテと名乗る白猫と出会いました」
「そうか」
「クルスという北欧の少年と知り合いのようです」
「ほう」
「魔法がどうたら黒猫がどうたら話し合っていました」
「ふむ」
「鬼の噂とも関わりがあるらしく」
「なるほどのう」
「……」
「レキ、おかわりじゃ!」
鈴珠は空っぽになった茶碗をレキに差し出した。
――もしかすると私は鈴珠さまに話しかけるタイミングを誤っているのでは。
炊飯器から炊き込みご飯をよそいながらレキは思った。
もやしと油揚げの炒め物に油揚げと豆腐の味噌汁、極めつけは厚揚げの煮物。炊き込みご飯にももちろん油揚げが混ざっている。以上が本日の夕食の献立。茶碗を受け取った鈴珠は一心不乱にテーブル上のご馳走をむさぼっている。レキの話など聞く耳持たない。
夕食を終えてからも、レキが食器洗いと風呂掃除に汗を流しているというのに鈴珠はカーペットに寝転がってせんべいをかじりながらテレビに食い入っていた。
せんべいを歯で砕くたび、かけらがカーペットにこぼれ落ちる。堕落ここに極まれり。
「今の鈴珠さまを他の神さまがご覧になられたら、また封印されかねないですね」
「レキも心配性じゃのう。こんなところまで父上の眼は届かんわい」
さりげない脅しもまるで通用しなかった。
こんな体たらくでは神の威厳が地を掘り進んで落ちることはあっても、神々しさを取り戻すことなど到底不可能。レキの双肩に保護者としての責任問題が重圧としてのしかかった。
「鈴珠さまのお父上とはどのような方なのですか」
「ふふふ、驚くなかれ。我が父は」
鈴珠はもったいぶった含み笑いを浮かべる。
「かの氏神、真白なのじゃ!」
鈴珠の思惑通りレキは仰天した。
真白――真白大神といえば、地元で最も信仰を集めている偉大なる氏神である。
老人らはことあるごとに『真白さま』の名を口にし手を合わせてありがたがり、大晦日から正月にかけて真白大社は参拝者でごったがえす。レキも七五三や高校受験の合格祈願に真白大社に参った経験があった。
「もっとも、ここらに住む若い神の大半は父上が創られたんじゃがの」
「特別、というわけではないのですね」
「息子や娘なぞ八百万といるじゃろうな」
レキの驚くさまに満足した鈴珠はあっさり種を明かした。
――確かに、大事な一人娘なら八十年も葛籠に封印させたままでいるはずがない。
「あったかい部屋でくつろげて幸せじゃのう。そうじゃレキ、ワシは今日アズマにパソコンの使い方を習ったのじゃ。おぬしのパソコンを使ってもいいかの」
「……はい」
しっぽを左右に振りながら鈴珠はノートパソコンを開き、慣れた手つきで電源ボタンを押した。
レキは自嘲する。
鈴珠が幸せいっぱいの笑みを浮かべるたび、荒廃した神社とホコリまみれの葛籠が脳裏にちらついて、どうしても強く叱れなかった。
つまるところレキは親馬鹿の素質があった。
カーペットに寝そべったまま熟睡してしまった鈴珠を葛籠に寝かせ、コートを羽織ったレキは玄関の扉を慎重に開けた。
行き先は近所のコンビニエンスストア。目的は切らしてしまったしょうゆの補充。
この辺りの住宅街は徒歩でスーパーに行くには若干遠いうえに閉店も早く、若者はもっぱら近所のコンビニを利用している。雑貨や食材、調味料を豊富に仕入れているためレキも重宝していた。
買い物ついでに温かい缶コーヒーも買い、冷えた身体を内側から温める。
頭上には満天の星。澄み渡る冬銀河が心を洗う。
あまりに明るい夜だったから、通りすがった公園の中央にたたずむ『鬼』の姿さえもはっきりと視認できた。
硬直したレキの指先から空き缶とレジ袋が滑り落ちる。
空き缶が音を立てて墜落し、しょうゆのボトルと並んで道路を転がっていく。
公園のフェンスの丈を悠々と超える、棍棒を握った単眼の巨人。その巨体には無数の切り傷。赤黒い血が筋肉質の肌をなぞり地面に落ちる……寸前でふっと消えうせた。
鬼と対峙しているのは転校生クルス。
幾何学的な紋章が描かれた外套をまとい、白い二本の腕を隙間から伸ばしている。彼は必死の形相で息を切らし、憎しみを籠めた双眸で巨人を睨んでいる。
シーソーやブランコといった遊具やイチョウの木がめちゃくちゃに破壊されており、地面もところどころえぐれている。鬼と彼の熾烈な戦いを物語っていた。
「来い。次で決着をつける」
クルスの声に反応した鬼は棍棒を大きく振り上げ――クルスめがけて打ち下ろした。
叩きつけられた棍棒の衝撃により地面が吹き飛ぶ。強烈な風圧と地響きにレキは膝をつく。弾けた土が無数のつぶてとなって四方八方に飛び散りレキを痛めつけた。
舞い上がった土煙が収まると、棍棒による一撃をかわしたクルスが鬼の側面に回りこんでいた。単眼の鬼にとってその位置は完全に死角であった。
「雷!」
腕を構え、クルスが叫ぶ。
視界を覆う閃光と耳をつんざく雷鳴を伴って一筋の雷が右手からほとばしる。紫電一閃は鬼の左腕に突き刺さり、全身に電撃を拡散させた。間髪入れず左手からも稲妻を放ち、無数の枝に別れた雷は鬼の皮膚を這った。
猛烈な電撃が鬼を襲う。
だが、鬼は電撃を浴びているというのにびくともしない。
そればかりか、振り返りざまに棍棒を振り払った。
雷を操るのに集中していたクルスはなぎ払われた一撃をまともに喰らい、木の葉のごとく軽々と宙を舞って公園のフェンスに激突し、ずるりと地面に落ちた。
クルスが地に伏したまま動かなくなると、鬼は彼に背を向けてゆっくりと歩き公園を去った。
夜に静寂が舞い戻る。
「歯車は廻り、運命の糸を結ぶ者同士を手繰り寄せる」
鬼が何処かへと去った後、物言う白猫フォルテがいつもの芝居がかった台詞と共にレキの前に現れた。
フォルテはうつ伏せで倒れるクルスのそばに寄り添う。
苦悶の表情を浮かべ、歯を食いしばって上げるうめき声。わずかに露出している顔や腕は痛々しい擦り傷で赤く汚れている。
「満足したかい、クルス」
「……俺の心の炎はまだ消えていない」
彼の強がりを身体は受け入れず、クルスは無力にも身悶えるだけ。もはや風前の灯。
父さん、母さん、先生。
朦朧とするクルスは、うわごとを最後に言って気を失った。
「レキ。僕らの親愛なるハラカラよ。どうかこの哀れな少年を救ってくれないか」
「すぐに救急車を呼ぶ!」
「できればキミの家に匿ってもらえないかな。致命傷ではないから安心して欲しい。この程度の傷『魔導士』なら一晩越せば完治するよ。鬼もあの傷では逃げるので精いっぱいさ。しばらくは悪事も働けまい」
治療よりレキのもとに連れていくこと自体に意味があると言いたげな口振りであった。レキは不審がりながらも、事情に詳しいフォルテの言葉を信用した。
クルスを抱きかかえたとき、彼の体重が想像よりずっと軽いことに驚いた。体格もレキより一回り小柄であったため易々とアパートまで運べた。
「私は卑怯者だ。クルスが鬼と戦っているというのにこそこそ隠れていた」
「気に病む必要はない。気持ちは嬉しいが、キミが助太刀して血路が開けたかというとそれはまた別の話だ。戦闘経験こそ乏しくとも仮にも魔導士である彼ですらあの有様だったのだからね」
フォルテの言い分は理解できた。理解できても納得はできなかった。
「結果論ではない。意志の問題だ」
「その意志とやらを勇気に昇華させるのも蛮勇に貶めるのも、結局はキミの行動次第さ。視野狭窄の末に見出した正義を盲信し猪突猛進するのが果たして立派な行動なのか、冷静に見極めてごらん」
フォルテの言うとおり、仮にレキが助けに入ったところで何の役に立てたというのか。それはクルスのためではなく、安っぽい正義を振るう己に酔いしれるための行動でしかない。フォルテに咎められたことで冷静さを取り戻し、自己を俯瞰できるようになったレキは己の未熟さを恥じた。
「キミとクルスは似ているね」
そんなレキをフォルテは好意的に受け止めていた。