第6話:転校生クルス
アパートに帰って鈴珠を葛籠に寝かせ、古典の課題を片付けるため勉強机に向かおうとしたら、充電器に刺さっている携帯電話に不在着信が一件表示されていた。
ディスプレイに表示されているのは『伊勢正』の三文字。
不器用な指さばきでキーを操作し、折り返し電話をかける。
院内の通話可能な場所まで移動していたのであろう。少々長い時間待った後、通話が始まった。
「どうした伊勢。渡した課題に不備でもあったか」
「いやいやいやご冗談を。あの紙袋、あれから指一本触れてないもの」
「やれやれ」
仕方ない奴だ、とかぶりを振る。
こほんっ。
受話器の向こうで伊勢があらたまったふうに咳払いする。
「見舞い、ありがとな。まっ、それが言いたかっただけ」
「わざわざ礼をするだなんて、伊勢にしては殊勝な心がけだ」
「チビッコ神さまにもよろしくな」
怪我が大したことなくてレキは安心した。骨折が嘘だと知ったときは呆れ果てたものの、伊勢は年端もいかぬ頃からの幼馴染。意図せず高校まで同じになってしまったのだから、そのえにしは腐れ縁と馬鹿にできるものではない。実際、レキは入学当初、初対面の生徒たちの中に彼の姿を見出して、心細さから救われていた。
――ワシはチビッコではないぞー。
葛籠が乱暴に揺れる。
鈴珠が眠ったまま手足をじたばたさせて抗議していた。
翌朝。
「おおーい、レキちゃーん」
朝焼けを背に通学路を歩いていると、脱力を誘う間延びした声がレキを呼んだ。
コートを着て黄色い長靴を履いたモモがレキめがけて走ってくる。
「おーい、おおーい。おお……おっ? おわわわ、ととと止まんないよー!」
晴れ間が差していたモモの表情は、レキへ接近するにしたがって徐々に曇っていく。理由はすぐにわかった。凍った地面を滑るモモはブレーキをかけられない状態であった。
両手をペンギンみたいに羽ばたかせ、足も空回り。モモは最高速度を維持したまま凍結した歩道を滑走し、レキの正面に突進を仕掛けてきた。
ぽわんっ。
彼女を抱きとめると、ぬいぐるみを抱きしめるのと似た感触がレキの胸に伝わった。ふわふわの長い髪が舞い上がってレキの頬をくすぐる。その威力は衝撃と言うにはあまりにも弱すぎた。
「と、止まったー」
「モモ、危ないから冬場は無闇に走らないほうがいい。雪がなくても凍結している場合があるからな」
「うん、ありがとー。やっぱりレキちゃんは私の王子さまだね」
小柄なモモを長身のレキが抱きとめる光景は『王子さまとお姫さま』のたとえが最も似合っていた。
照れくさくなったレキはさりげなく彼女を遠ざけた。
校門をくぐって校舎に入り、湿った廊下を歩いて教室に入る。
ホームルーム一時間前に登校する勤勉な生徒は少なく教室はまだまばらで、三人の女子が暖房の前で談笑しているのと黒板に落書きして遊ぶ男子二人しかいない。後の何人かは部活動の朝練習に励んでいるため、机にカバンが置かれているだけ。
「いつもはレキちゃんが一番乗りなのに、今日は私といっしょだね」
「家族が一人増えたからな」
「鈴珠さま、今日も寂しくて学校に来ちゃうかな?」
「案ずるな。もうその心配もない」
レキの予想が正しければ、鈴珠は今頃アパート一階にあるアズマの部屋でこたつに潜り、テレビを観ながらせんべいでも食べているところ。少しぬるめの緑茶を偉そうに所望してアズマを苦笑いさせるところまでありありと想像できた。
「そういえば、今日は転校生が来る日だったね」
「ああ。この時期に転校生とは珍しい」
「どんな人が来るのかなー。わくわくするねー。私、どんな人でもぜったい友達になるよ」
見目麗しいモモと近づけるなんて転校生も幸福だ――と口にするのは恥ずかしく、レキは胸の内に留めておいた。
「男の子かな? 女の子かな?」
ホームルームのチャイムが近づくにつれ教室は徐々に活気付いてくる。ひそやかな話し声が慎ましく聞こえていた教室も、今は若者たちの喧騒が飛び交っていた。
鳴り響くチャイムと共に担任の先生がやってきて教壇に立つと、教室は水を打ったように静まり返った。
普段はこうもたやすく静まらない。暖房の前にかじりつく連中を先生が追い立ててようやく静かになるのが普段の光景だ。生徒たちが静かになった理由は、先生の後ろに続いて噂の転校生が教室に入ってきたからであった。
それもただの転校生ではない。
生まれつきの金髪で、眼は澄み渡る空の青。
転校生の少年は外国人とのハーフだった。
「ほっ、本物の王子さまだよー」
モモが興奮気味に耳打ちする。
他の生徒たちもざわめきだす。落ち着き払っているのは皆の前に立っている転校生一人だけである。
先生からチョークを受け取った転校生は黒板に自分の名前を書いた。
「クルスだ」
感情を殺した冷たい声だった。
クルスと名乗った転校生の少年は両手を擦り合わせてチョークの粉を払う。
自己紹介はあっけなく終わってしまった。
クラスメイトたちが呆気にとられる中、クルスは堂々と教室の真ん中をつっきって、先生に指示された窓際の席に座った。つまるところレキの隣である。
レキは親しみを籠めた笑みをクルスに向ける。
「私の名は加賀暦。皆からはレキと呼ばれている。隣人のよしみだ、今後ともよろしく、クルス」
「……」
クルスは差し出された手を握らず、レキをじっと見つめている。
「どうした」
「貴様、サムライか」
彼の唐突な発言にレキは目をしばたたく。
――侍? 私が? 何故?
自分を指差すレキにクルスは当然とばかりに頷く。
「その『マゲ』にその堅苦しい物言い。本部の資料と相違ない。隠さずとも貴様らの存在は俺も聞き及んでいる。よもやこのような場所でサムライとまみえるとはな」
「いや待て。私の髪型はマゲではなくポニーテールのつもりなのだが」
「よかったね、レキちゃん。王子さまの座は奪われちゃいそうでも、おサムライさんになれるよ!」
「……私はちっとも嬉しくないぞ」
――王子さまの次はサムライ呼ばわりとはな。
可愛らしさのかけらもないあだ名を初対面の転校生からもらったレキは、自分の扱われ方を再認識してがっくりと肩を落とした。
休み時間に入るたび、クルスはクラスメイトたちの質問攻めの波にもまれていた。とりわけ女子からの人気がすさまじく、金色の髪が微風に揺れたり青色の瞳と目が合ったりするだけで黄色い声が沸き起こった。同性からの人気が高いレキであっても本物の『王子さま』には敵わなかった。
「どこの国から来ただと? の、ノルウェーだ。身長は160センチだ。そんなくだらんことを訊いてどうするつもりだ。好きなアーティスト? あんな俗物まみれの歌謡など凡人どもの娯楽。ジャズなら多少は嗜んでいる……貴様ら、いい加減俺にまとわりつくな」
クルスの小柄な身体は周囲を取り巻くクラスメイトに埋め尽くされていた。
「なんだかんだでいい人そうだね」
「ああ、律儀なやつだ」
昼休みになるとクルスは忽然と姿を消した。
「あっ、クルスくんあんなところにいる」
屋上に続く階段を上るクルスを偶然見かけたレキとモモは彼の後をつけた。後ろめたい理由がないのにこっそり尾行するのは、とげとげしい彼の性格を考慮した故であった。
階段を上り、校舎の屋上。
今朝から空は雲ひとつない晴天。
積もっていた雪は昼間にうちにことごとく解け、屋上は苔と泥で汚れたコンクリートの地面がむき出しになっている。
クルスはレキたちが昨日暖を取った場所まで近づき、膝をついてコンクリートに直接手を触れる。
「魔法の残滓が漂っている。『黒猫』のものか」
給水塔の上でひなたぼっこをしていた白猫が彼の足元へ軽やかに飛び降りる。
「違うね。これは土着の神々が古来用いている秘儀。力は微弱でも人間や使い魔の扱う類ではないよ」
「解せん。神が何故こんなところに」
「気まぐれな神さまがいたずらでもしにきたのではないかな?」
「知ったふうな口振りだな、フォルテ」
クルスの話し相手はその猫、気品ある白猫フォルテだった。
「僕より彼女らに尋ねたほうがきっと早い」
「どうやらそのようだ」
ぎろり。
クルスに睨まれ、レキとモモはすくみあがった。
鈴珠のことを話し聞かせると『あて』が外れたクルスは舌打ちした。
「貴様らの邪魔でとんだ無駄足を踏んだ。『黒猫』め、こそこそと俺たちから隠れて」
「人探しか?」
「貴様もサムライのはしくれなら察知しているだろう。この町に起きている異変を」
「だっ、だから私はサムライではない!」
今朝の出来事を思い出したレキは再び赤面した。
「もしかして『鬼』の噂のことかな」
「話す義理などない」
クルスは二人と一匹を置き去りにし、階下へと続く鉄扉を開けてその場から立ち去ってしまった。
次いでフォルテも踵を返す。
「クルスの学校生活も順調だとわかったし、僕もお暇させもらおう」
「順調……なのか?」
「順風満帆さ。早くも友達を二人も作れたのだから」
――今のやり取りを目にしたうえで、本気で言ってるのか?
友達と言われて喜ぶモモのかたわら、レキは首を傾げていた。
「猫さんはクルスくんの飼い猫なの?」
「『使い魔』が正確なところだね。もっとも、彼の両親が亡くなってからはほとんど保護者の役を演じさせてもらっているよ。おっと、あまりぺらぺらしゃべってはまたクルスがへそを曲げてしまう」
「フォルテ、一昨日はありがとう」
「お安いご用さ」
フォルテは金網の破れ目をくぐって屋上の端に立つ。
「運命の歯車はやがて激しく廻りはじめる。激流に揉まれる木の葉のごとく、キミたちをたやすく翻弄するほどに。レキ、キミのひたむきなまなざしはその加速にも揺るがずにいられるかい?」
レキの返事を待たずして、フォルテは側面に設置された排水管の上を器用に伝って地上に降りていった。