前日譚:レキと鈴珠の馴れ初め(3/4)
それから一時間、鈴珠は神社から離れようとしなかった。
針葉樹の幹に背を預け、雪に霞む八十年後の花尾を惚けた顔で眺めていた。
八十年の時が流れれば、慈しんでくれた親も、友情を誓った友も、契りを交わした伴侶もいなくなっているだろう。住み慣れていた故郷もまた。
彼女は時の流れから孤立していた。
変わり果てた世界を見る鈴珠の背中に、レキは胸を締めつけられた。
「連れて帰るのか」
ミニバンの前で、アズマが車のキーを指先で回している。
「犬猫を飼うのとはワケが違うんだぞ。もちろん、キツネともな」
「このまま捨て置けません」
「ウチのアパートはペット禁止なんだがな……って、おいおい、冗談だよ」
眉を寄せるレキ相手に、アズマは両手を挙げて降参のポーズを取った。
咳払いしてから再度彼女の意思を問う。
「葛籠に封印されていたってことは、それなりにいわくつきの神さまなのを意味している。幼い外見に同情したら痛い目見るぜ。わかっているのか」
「己が身に災いが降りかかるからといって、知らんふりをするのは我慢なりません」
自分が強情で無鉄砲な人間だと知っているアズマだからこそ、レキはあえて強く言い切った。彼も彼女のそんな返事を予想していたらしく、狐の神さまをミニバンに乗せるのを許可した。
「鈴珠さま、家主の許可を得ました。行きましょう」
「どこへじゃ」
「私が暮らす場所へ」
「ワシの住まいはここじゃ」
鈴珠が背後の神社に視線を投げる。
「この朽ち果てた社じゃ」
針葉樹の下で膝を抱いて座る。
膝と胸の隙間に顔を埋める。
「この神社と同様、置き去りにされたワシもやがて朽ち果てる運命」
「鈴珠さま」
自棄になる鈴珠を叱る口調でレキが呼ぶ。
「ここは寒いです。暖かいところで空腹を満たしましょう」
「……うむ」
もう少してこずるかと思いきや、鈴珠は案外素直に従った。
腹の辺りをしきりにさすっている。神さまでも空腹には敵わないらしかった。
うずくまる鈴珠を起こすとき、レキは初めて彼女に直接触れた。
握ったその手は人間の女の子と同じで、小さくて柔らかかった。冷たくかじかんで赤みがかっていたのが痛々しかった。
ひじきの煮つけに切り干し大根。すぐにでも食べられそうなものはこれくらいである。おり悪く、冷蔵庫には幼い少女が好みそうなものは残っていなかった。その二つと一緒にレキは味噌を出し、ガスコンロに火を入れた。
「狭苦しい部屋じゃのう。ふむ、整理整頓が行き届いておるな。レキは確か、車を運転しておったあのアズマとかいう男の書生じゃったか」
「まあ、似たようなものです」
「女の身一つで下宿とはの」
「鈴珠さまの時代に比べれば、男も女もそう大差はありません」
レキはうどんを茹でる。
右から左から、上から下から。鈴珠はテレビをいろんな角度から覗き込んでいる。
「箱の中に小人がおるぞ。いや、妖精か。おぬしが飼っておるのか」
不思議そうに画面をノックしている。
「ラジオと映写を組み合わせたようなものです」
「文明開化も甚だしいのう」
うどんが茹で上がるまで、鈴珠は床に寝そべってテレビに食い入っていた。よほど興味深いのだろう、尻から生える狐のしっぽがぴょこぴょこ自由に振れていた。
出来上がったうどんをリビングのテーブルに持っていく。
レキの予想以上に鈴珠はそれを前にして興奮していた。
「油揚げ! これは油揚げじゃな!」
立ち昇る熱々の湯気に混じる味噌の香りが食欲をそそる煮込みうどん。慰めとばかりに色を添えるほうれん草、そして細かく刻まれた油揚げ。鈴珠はうどん本体よりも、そのおまけのほうに狂喜していた。割り箸を割って彼女は、うどんよりまず真っ先にそれに喰らいついた。
「八十年後の世界にも油揚げは残っておったのじゃな」
飛び散る汁で服を汚すのも厭わない豪快な食べっぷりにレキは感心する。うどんの茶色に濁った汁はみるみるかさを下げていった。
レキは「なるほど」と頭上の電球を光らせる。
「狐だから油揚げが好きなのか」
「ワシを獣扱いするでない。神さまじゃぞ」
鈴珠は無我夢中で味噌煮込みうどんをすすっていた。ひじきと切り干し大根も、ときおり箸でつまんで。
「ううーん、幸せじゃー」
満腹感に身を任せた彼女は、レキの膝を枕にして眠りについてしまった。
頭の髪、獣の耳が太ももの上で動き、レキはこそばゆかった。
「世話になった。感謝するぞ、レキ」
玄関のドア一枚を隔てた先は真っ暗闇だった。
雪を降らす分厚い雲が空を塞ぎ、一筋の星明りすら許さない。街路灯の拙い明かりが、人家のほのかな明かりが心細さを掻き立てる。
部屋から漏れる光の外――酷寒の冬の闇に鈴珠が足を踏み出そうとする。
「鈴珠さま」
レキは反射的に彼女を呼び止めていた。
振り返った鈴珠にレキは言う。
「あなたの居場所が見つかるまで、私と共に暮らしませんか」
きょとんとまばたきを繰り返していた鈴珠は、肩越しにふっと笑みを浮かべる。
「やさしいのじゃな、おぬしは」
その大人びた笑い方は、おてんばそうな彼女に不釣合いで、レキの不安をかえって煽る結果となってしまった。
「さっきも言ったじゃろ。ワシの居場所はあそこじゃとな」
光の溜まる場所から狐耳の少女が消える。
まっさらな雪を踏みしめる足跡は二個一対、過不足なく、闇の彼方に続いていった。




