最終話:明日へのきざはし
四月になると冬の寒さもだいぶなりを潜めてきた。
カーテンを開け放つ。
朝の日差しにレキは目を細める。
花尾の町を彩る満開の桜を、窓から眺められる。
薄桃色の花弁が春風に吹かれて舞っている。
また新しい一日が始まる。
それは、彼女が守り抜いた未来のひとかけら。
制服に着替えてアパートの玄関を出ると、アズマとフィオと鉢合わせた。
アズマは車椅子の老女を押している。
穏やかなまなざしをした車椅子の老女は、白髪の中に赤い髪をいくらか残している。
レキが三人にあいさつすると、老女はにこにこと笑みを浮かべてあいさつを返した。
老女は恐竜の玩具を膝の上に抱いている。
冬が去って暖かい気候になってからというもの、三人で散歩をするのが朝の日課になっていた。レキも彼らの散歩に付き合う日がときどきあった。
アズマがレキの首元に触れ、襟に引っかかったポニーテールを直す。結ってあった鈴の髪飾りが鳴る。レキははにかんで恥らった。
「新しいクラスにはなじめたか?」
「なじむも何も、伊勢もモモもクルスも同じクラスです」
「案外変わらんもんだな。春って出会いと別れの季節だろ」
「一学年上がっただけなんですから」
レキの日常は平凡そのもの。周りの人間たちが月日を経ていくうちに変わっていく中、自分一人取り残されていく疎外感に襲われて少しだけ切なかった。
「夕飯はフィオさんのシチューだ。学校終わったらさっさと帰ってこいよ」
朝食を食べたばかりだというのに腹が鳴った。
「わかりました。クルスにも伝えておきますね」
「いってらっしゃい、コヨミさん。クルスさんをよろしくね」
フィオがアズマの腕に自分の腕を絡める。二人は車椅子を押して歩きだした。
曲がり角に消えるまで、車椅子の老女は後ろを向いたままレキに手を振りつづけていた。レキも手を振り返していた。
この結末は罰ではなく祝福。
少なくともレキはそうであると信じていた。
「よしっ、次はあいつを起こす番だ」
腰にぐっと力を籠めて気合を入れた。
クルスの部屋のチャイムを鳴らす。
案の定、無反応だった。
「おはよう、親愛なる友人よ。彼はまだ寝ているよ」
アパートの屋根から飛び降りてきた白猫フォルテがそう告げる。なんとなくそんな予感がしていたレキは合鍵を差して強行突入した。
盛り上がったベッドの掛け布団から金色の髪がはみ出ている。
カーテンを開いて新鮮な光を呼び込む。
布団と金髪がもぞもぞと動き出した。
「なあ、フォルテ。クルスのやつ、最近たるみきっているぞ」
光の海から助け出してくれたときは頼もしかったのに。
凛々しかった彼と現在のだらしない彼を重ね合わせてレキは嘆息する。
「平和な日々に慣れつつあるのさ。幸い、キミのような甲斐甲斐しい女性もいるからね」
「へっ、変な言い方はやめろ!」
弁当箱が二つ入った手提げ袋を背中に隠す。
フォルテが茶化すとおり、寝起きで不機嫌気味なクルスを引っ張って登校するのがレキの新たな日課となりつつあった。困ったふうを装いつつも、まんざらでもないと密かな想いを胸に抱いていた。
「……後五分、眠らせてくれ」
布団の中から寝ぼけた声がした。
「勉強に追われる日々。俺たち高校生はつらいわ」
六時間目の古典が終わった。
精根尽きた伊勢は机に突っ伏す。机から落下したノートにはよだれの染みが広がっており、舟をこぎながら書かれためちゃくちゃな文字が罫線を貫いていた。
「そろそろ中間考査の時期だな」
「レキ、俺の話聞いてた?」
「聞いていたから思い出したんだ」
勉強、校則、恋愛、友人関係、部活動……伊勢は頭を抱え、自意識過剰甚だしい己の不遇を延々と嘆いていた。テストの日が近づくと必ず発症する病なのを幼馴染のレキは知っていたので、彼の気が済むまで適当に聞き流していた。
「なんかさ、試験勉強してばかりじゃね? 時間の流れって速いわ」
「今という瞬間はたった一度きり。一秒一秒を噛みしめねば」
「んな肩肘張って生きてられねーよ」
伊勢は薄いカバンとスポーツバッグをまとめて肩に引っかける。
「俺は部活で青春の汗を流してくるかね」
「待て」
「止めてくれよ。ただでさえ憂鬱なのにレキのお小言はもうこりごり――」
彼はそこで絶句する――レキに突然手を握られて。
「指を怪我しているぞ」
自分の指がレキの唇付近まで近づけられたところで、我に返った伊勢は彼女の手を振りほどいた。
「保健室でバンソーコー貼ってもらうっての! 余計なお世話だっつーの。じゃあな!」
逃げるように教室から脱出していった。せっかくの厚意をふいにされたレキは「幼馴染の分際で恥ずかしがるとは」と腹を立てていた。憤りつつも、自分の頬もうっすら赤みがかっているのには気づかなかった。
帰り支度を済ませたクルスとモモがレキの席に集まる。
「コヨミ、今日も神社に寄っていくのか」
「アズマさんにさっさと帰ってこいと言われているから、少し覗いてくるだけだがな」
「レキちゃん、最後に鈴珠さまと会ったのはいつなの?」
心配そうな顔をするモモにレキは苦笑を返す。
「知っているだろ。私が鈴珠神社に毎日足しげく通っていると」
「お参りするだけじゃなくて……ちゃんと鈴珠さまとお顔を合わせたのは?」
レキは天井を見上げながら記憶をさかのぼる。
「……ドミナを連れ帰った日が最後だな」
不老の魔女と復活した恐竜たち。
あの騒動から早くも四ヶ月が経っていた。光陰矢のごとし。ふと振り返ると、忘れまいと記したしるべは遥か彼方。
モモが心配がるほどレキは打ちのめされてはいない。鈴珠が己の使命に従って未来を選択したのを心から喜んでいた。
神さまと暮らす日々が本来いびつであることくらい、最初から自覚していた。
鈴珠との離別が平気だと言えば嘘になる。直接顔を合わせられたらどれだけ嬉しいか。
狐と葛籠の神さまが花尾の町を見守ってくれているのを日々感じる。物理的な距離は離れても二人の絆は今も繋がっている。だからレキはくじけずにいられた。
野球部やサッカー部の練習でグラウンドがにわかに賑やかになる。
「諏訪も神社に寄っていくのか?」
「クルスくんも行くんだよね?」
「ああ」
一秒未満の逡巡の後、モモは吹っ切れたような清々しい笑顔を二人に見せつけた。
「私はバイオリンのお稽古があるの。そろそろ執事さんがお迎えにくるから、ごめんね二人とも。今日はレキちゃんに譲るよ。ばいばい!」
そして教室を去っていった。
「コヨミは諏訪に何を譲られたんだ」
クルスは首を傾げている。レキは頬を掻きながらしらばくれていた。
神さまとの不思議な出会いも、友人たちと過ごすきらめく日々も、大いなる存在との決死の戦いも、生涯の一通過点。少女たちの未来は明日、あさって、その先まで続いている。
ポニーテールの少女と金髪の小柄な少年は並んで帰路に着く。
肩と肩がふれあう、気の置けない距離感。
神社へ赴く道すがら商店街で甘い油揚げを買った。自分たちだけフィオのごちそうを頂く手前、供え物の一つでも持参しないと拗ねられてしまう。地元の人たちに『鈴珠さま』と崇められていてもその実、食欲旺盛でわんぱくな少女であるのはレキたちだけの秘密だった。
「コヨミ、いつも弁当をつくってくれてありがとう」
「今更、礼をされても恥ずかしいな」
「今日もおいしかった。弁当箱はまた洗って返す」
クルスの単純な感謝の言葉がレキの体温を上昇させる。
「俺もいい加減、料理くらい覚えるべきか」
「いや、無理する必要はない……と思うぞ」
「なら言葉に甘えて世話になろう。コヨミの味付けは口に合う」
「どっ、どんどん甘えてくれ」
ときおり彼への接し方がぎこちなくなってしまうのをレキはもどかしがっていた。そのもどかしさはどうしてか心地よかった。
立派な鳥居が石段の向こうで頭を覗かせている。
「鈴珠さま、お腹をすかせていらっしゃるだろうな」
「ああ」
「クルス、私は先に行くぞ!」
レキの足が速まる。
息を弾ませ、神社への石段を一つ飛ばしで駆け上がる。
はやる想いが背中を押す。
きっと狐の神さまも、友人の来訪を葛籠の中で心待ちにしているから。
(了)




