第45話:命の在り処
伊勢が大慌てでレキのアパートに飛び込んできたのは翌日の昼だった。
昨夜の激戦の反動で寝込んでいたレキは床に伏せて鈴珠とクルスに看病されていた。彼女の様態に驚きながらも、構わず部屋に上がりこんだ伊勢は真っ先にテレビの電源を入れてニュース番組を映した。
映像は花尾駅前の科学博物館だった。
博物館の周りは多くの人だかりで沸いている。一般人はもとより、マスコミや警察関係者も多数取り巻いている。近くの自衛隊基地から派遣されてきたらしい装甲車もちらほら見受けられる。物々しい空気が液晶越しにも伝わってくる。
何よりレキの目を引いたのは、人だかりが一様に視線を向ける先――博物館屋上に乗っかった白い楕円形の物体だった。遠目にはアドバルーンか何かに見える。周囲の物騒な雰囲気からして、どうやらそんな無害なものではないようである。
鈴珠も目を剥きながら前のめりになってテレビに食い入っている。
「なんじゃ伊勢、あのでっかくて白いのは!」
「俺だってわけわかんねーから鈴珠さまたちのところに来たんすよ」
「たまご……なのか?」
語尾が疑問系になるのも当然である。レキが『たまご』と称した白い楕円形の物体は、博物館と同じくらいの大きさはあった。それが本当にたまごだとしたら、地球上では有り得ない、超巨大生物のものということになる。
冬の抜けるような青空の下、都会の街並みに巨大なたまご。
のどかな日常に溶け込んで怪異が鎮座する様子は、得体の知れぬ不安を二倍にも三倍にも増幅させた。
「スゲー嫌な予感がするんだよ。恐竜でも生まれてくるってのか。なあ、クルス」
狼狽する伊勢がクルスに尋ねる。
「かもしれん」
クルスが大真面目に頷いたので、伊勢は「マジかよ!」と頭を抱えて悲鳴を上げた。
――アタシは待ってるからネ。
ドミナの去り際の誘いをレキは思い出す。
このタイミングで恐竜のたまごとなれば、心当たりのある人物は一人しかいない。
「ドミナはあそこにいる」
レキは確信した。
軋む手足も省みず布団から出る。
「まだ寝ておらんといかんぞ」
「ドミナを止めなくてはいけません。あの子は、あの子は――」
――臆病で寂しがりやなのです。鈴珠さまと一緒で。
内側からくる鋭い痛みが、それ以上口に出すのを許さなかった。
怪我の痛みに抗いながらコートに袖を通し、裸足のまま靴を履こうとする。
「待て、コヨミ」
「私は行かねばならない」
「魔女を討つ前にやることがある。貴様も来い」
「やること?」
クルスも壁に吊るしてあった外套をまとう。
「フォルテを迎えにいく」
レキの固い意志はあっけなく砕けた。
レキと鈴珠とクルスは、一日かけて路美のフィオ宅まで赴いた。
母屋には寄らず、納屋の隠し階段から直接地下の魔法研究施設に足を運んだ。
施設には既に機材が運び込まれていて、作業の進行中だった。
部屋の真ん中に設置されている、大人一人がすっぽり納まる円筒形の水槽。
土台部分から伸びるケーブルは地面を這って、壁際のコンピューターに接続されている。排水用の太いチューブは床の下へと続いている。
水槽の前に立つ眼鏡の美女――フィオは心温かく三人を出迎えた。薄暗く、機械の駆動音が低く重く響く広間に、朗らかなそれは似つかわしくなかった。
「いらっしゃい、三人とも。コヨミさん、怪我はもう大丈夫なの?」
「今、へこたれるわけにはいきませんから」
サムライの心意気を感じるわ、とフィオは冗談めかした。
クルスは一心に水槽の中を見つめている。
「先生、復元シークエンスはどこまで?」
「最終段階よ。クルスさんのパソコンから転送されてきた記憶データの移行は完了しているわ。順調にいけば起動まで五時間かしら」
「二号機の性能は」
「予備のボディも前のものと一緒だから変わりないわよ」
レキも円筒形の水槽を見上げる。
冷たそうなガラスの水槽。
緑色の溶液が満たされたそれに、白い毛並みの猫が漂っていた。
人造魔導士『使い魔』は、基本的にボディの使い捨てを前提に運用する。
思考プログラムと記憶データさえ残っていれば、戦闘で破壊されても復元は容易い。予備のボディと思考プログラムはフィオが保管していて、記憶データもクルスが一ヶ月前にバックアップを取っていたため、復元は滞りなく実行に移せた。
復元されたフォルテの起動が完了するまで、三人はフィオ宅でくつろいでいた。
リビングのテーブルには半分になったアップルパイ、飲み干されたティーカップ。パイの甘ったるい匂いと紅茶の上品な香りがまだ部屋に残っている。
フィオは庭に洗濯物を干しにいっている。
鈴珠はアップルパイを満腹になるまで詰め込み、ソファに寄りかかって昼寝している。
レキはカーペットの上に直接膝を抱えて座り、物思いにふけっていた。
「次に生まれるフォルテは、十一月までの記憶しかないのだな」
「正確には十一月十九日だ」
独り言のつもりが、ガーデニング専門誌を退屈そうに読んでいたクルスが反応した。
十一月十九日というと、鈴珠神社でドミナと黒騎士と遭遇する前日である。
「そのフォルテは、以前のフォルテと同一なのか」
「『同一』の意味次第で答えは変わる。人造魔導士はボディごとに固体を識別している。型番という意味でなら以前のフォルテと、今生まれんとするフォルテは似て非なる存在だ」
「私は機械にとんと疎くて、お前の言っている意味がよくわからない」
レキは弱気に自嘲する。
「仮にフォルテのコピーを一度に複数作ったとして、それらはすべて私たちの知るフォルテなのだろうか。すべて同一の存在なのだろうか。彼の魂は何処に宿るんだ」
「さあな」
にべなく会話を断ち切ったクルスは、ソファを独り占めする鈴珠を端に押しやって、深くもたれる。ぎゅうぎゅうに押し込められた鈴珠は寝苦しそうに唸っていた。
「感情機能を抑制した戦闘用の量産型使い魔は、戦時中に実戦投入されていたらしい」
傷心した友人への最低限の義理を果たすつもりか、的外れなことを遅れて言ってきた。不器用なクルスならではだった。
――フォルテがよみがえるはずなのに、素直に喜べない。
――私の中の倫理が、彼の誕生を拒絶している。
――私は、新たに生まれる彼を祝福できるだろうか。
生物の『個』は何を条件に確立するのか。
思考か、記憶か、肉体か。はたまた、いずれも合致してか。記憶の一部と肉体の丸ごとを失ったフォルテはフォルテと呼ぶにふさわしい存在なのだろうか。そうでなければ、今生まれる彼は何者となるのか。
複雑に絡まってほどけなくなった感情に折り合いがつくまで、どうか時間よ進んでくれるな。丸い振子が往復する古めかしいゼンマイ式時計に、レキはそう念じていた。
振子は一定の調子で左右に振れ、分針時針も文字盤の上を周る。
路美の地は、冬でも熱い夕焼けがガラス窓を貫く。
みんな、地下へ降りてらっしゃい。
玄関のほうからフィオの声。
レキの心臓はいよいよ狂ったように早鐘を打ちはじめた。顔や脇下から汗をかいているのを目ざとく鈴珠に発見され、ハンカチをあてがわれた。
「怯えておるのか」
「スセリさんの望んだ死の超越が、魔法と科学の力で成し遂げられつつあります」
なるほど、と鈴珠は腕組みして思案する。うーん、と唸りながら首を幾度も捻らせる。神さまの思案は長い。
「神々には分霊という概念があってじゃな。神は無限に分けられるのじゃ。不死なる神や、死して黄泉から帰還した神だっておる。あー、つまりじゃの、えっとじゃな」
「神や使い魔の命など安いものだ。人間に比べればな」
まごついている鈴珠に痺れを切らしたクルスが続きを横取りしてしまった。
「クルスさんってば案外大雑把なの」
フィオに耳打ちされた。
彼女らとのやりとりでレキは落ち込んだ。
クルスやフィオ、鈴珠までもがフォルテを『代替可能の人工物』扱いしていた。一匹の白猫の死を悲痛なまでに悼んでいるのはレキだけだった。生命に対する価値観にズレが生じている彼女だけがこの場では異端、余所者だった。
地下の魔法研究施設に四人は再度到着する。
施設の様子は五時間前と変わらない。ケーブルやチューブが接続された円筒形の水槽があり、溶液の中に白猫が浸かっている。
「ただ今よりフォルテ二号機を起動します。コヨミさん、いい?」
まさか自分に同意を求められるとは思いもよらなかったので、レキはしどろもどろに「はっ、はい」と頷いた。
フィオからラップトップ型パソコンを託される。
おっかなびっくりそれを受け取る。
「心の準備ができたらエンターキーを押してちょうだい」
「えんたー……きー?」
「一番右端の、矢印が刻印されている大きなキーよ」
「これ……ですか?」
「それはシフト。焦らなくていいの。ゆっくり深呼吸して」
レキは赤面しながら控えめに呼吸を整えた。
厳かにエンターキーを押す。
ポンと電子音がし、画面に進捗バーが表示される。
緑色の溶液がチューブを介して水槽から排出されていく。溶液のかさが減るにしたがって進捗バーが左から右へ満ちていく。
皆、固唾を飲んで水槽を見守る。
最終作業は淡々と進む。
溶液がすべて排出されると、乾燥機能がうるさく作動して水槽の内側を乾かす。
乾燥も終わると、水槽の正面のガラスが上にスライドする。
立ち込める白い蒸気。
しばらくして蒸気が晴れる。
琥珀色の瞳を開いた白猫が水槽の前にいた。
「決して見まいと努めてきた、目覚めの光景だ」
フォルテの最初の台詞はそれだった。
「僕がここで起動したということはつまり『以前の僕』は志半ばで運命の歯車を止めてしまったんだね」
「そうだ。お前は敵と刺し違えた」
「鬼とシグマかい?」
「竜だ」
竜……。
フォルテは不可解そうにその二音を繰り返す。
「とりあえず、この場ではこういう挨拶が適切なのかな」
聞き慣れた、気取った口調で挨拶する。
「ただいま、みんな」
自然とこぼれた涙が何の感情によるものなのかレキにはわからなかった。
ただ、フォルテが死したときに流したそれとは明らかに違う涙だった。




