第43話:いにしえの巨竜
ドミナは腕を後ろに回して背を反らし、蒼き月を仰ぐ。
「転生珠さえあれば、アタシはもう眠り姫ではなくなるの。レキのソバにもずっといられるのよ」
「魔女ドミナ。貴様を殺す」
「待つんだ、クルス」
外套の下から短刀を抜こうとするクルスをフォルテが止め、視線で促す。
フォルテが促す先――剣を構えた黒騎士が深く腰を沈め、攻撃の機を狙っていた。
黒き甲冑をまといし彼の者は、異界の魔王に仕える騎士。すなわち、数多の戦場を渡り歩き、敵なる魔族どもを征伐してきた生粋の武人である。シグマとの戦闘ごっこなどとは比較にもならぬ死線を潜り抜けてきている。鬼をも調伏する恐るべき太刀筋は四人の記憶に強く焼きついている。学校上がりの魔導士風情が、万が一にも太刀打ちできる相手ではなかった。
クルスは苦々しげに舌打ちし、短刀を懐にしまった。
得物の一つも持たぬドミナは、細い指に緋色の髪を絡めてかき上げる。張り詰める空気も意に介さない。
「ドミナ。お前の病を治すのに、なにも転生珠を横取りする必要はないだろう?」
「そうカシラ。狐の神さまにも訊いてみたら?」
意外な返しにレキは当惑する。
魔女の言うとおり、鈴珠は顔面を青ざめさせてうつむいていた。
「すまぬレキ。あやつのために転生珠を用いるのは許されぬのじゃ」
ふっと地上に影が差す。
豊かなしっぽを優雅にたなびかせて天空を泳ぐ真白大神が、蒼き満月を覆い隠していた。
大いなる氏神は本殿の屋根に降り立つ。
「真白の一族は生の航路を助く風。追い風、横風、向かい風。風向きを繰るまでが真白の領分。帆に触れるは絶対なる禁忌」
「摂理に反する力は世界秩序の保持にのみ用いらねばならない――神も魔導士もそれは同じというわけか」
「如何にも」
悔しくもレキは黙らざるを得なかった。
神の力で一個人を助けた報いがいかなるものかはレキも重々承知している。ここでまた神に頼ってドミナの病を取り除いては、鈴珠に八十年前の過ちを繰り返させるに等しい。
「どうして悩んでイルの? アナタたちに選択権なんてないのに。それとも狐の神さまがオヅと戦うのかしら?」
黒騎士は依然として剣を構えている。
転生珠を得た鈴珠ならば黒騎士すらも退けられるだろう。勝利とひきかえにどれだけの犠牲を払うかは別として。
フォルテはもはや諦めた様子でかぶりを振った。
「万事休す、かな。鈴珠のお父上は傍観を決め込むつもりらしいしね」
「余は人間同士の小競り合いに加担せぬ」
ただし、と真白大神は語気を強めて続ける。
「魔女の戯れが神々に害を及ぼすのであれば話は別。小娘一人なぞ、真白の力で容易く捻り潰してくれよう。しかし鈴珠よ。そうなれば、そちに神としての叡智がないと余は断ずる。意味はわかるな?」
父親の警告は、娘の鈴珠にはあまりにも残酷に響いた。
ゆっくりとした歩調で近寄ってきたドミナは、鈴珠が握る転生珠を力任せにもぎとった。
「やった、やったわ!」
黒騎士のもとまで小走りで駆け寄る。
神からアーティファクトを奪った緋色の少女を、黒騎士は無言のまま見下ろしている。甲冑の兜が頭を隠しているせいで感情は表に出てこない。幼き魔女ただひとりが、滑稽に見えてしまうくらい一人ではしゃいでいた。
「これでずっとずっとずっとオヅのそばにイられるわ。もちろんレキとだって」
ドミナはレキに手を差し伸べる。
「レキ、アタシたちとイッショにいきましょう」
月明かりに照らされて青白くなった魔女の手のひら。
レキはその手を拒んだ。
「ドミナ、もう一度言う。馬鹿な真似は止めろ」
「……そっか。レキもアタシのテキなんだ」
氷よりも凍てついた言葉にレキは震えた。
「結局レキもみんなとオナジなんだ」
この世のすべてに対する憎悪がその一言に含まれていた。
「せっかくだから試してみようカシラ。『あの子』が神さまよりも強いのかどうか」
挑発的に上唇を舐めたドミナは、魔力を集中させた右手を天高く掲げた。
強風がドミナを中心に吹きすさぶ。
地面に巨大な光の円が出現する。
「我が呼びかけに応えよ。我が命に応じよ。来たれ、契約の戦士。来たれ、いにしえの覇者」
ドミナの詠唱が続くにつれ、光の円に魔法の文様が光の線で描かれていく。
詠唱を阻止せんとクルスが雷撃を放つ。彼が手をかざした時点で黒騎士がすかさずドミナの盾となり、魔法防御が施されたガントレットで雷撃を弾き止めた。
制止も無視してクルスは短刀を抜き、肉弾戦に持ち込む。彼の奮闘もむなしく、黒騎士の剣さばきとガントレットによる防御で攻撃は容易くいなされる。最後はみぞおちに当て身を受けてたまらず怯んだ。
「来たれ、いにしえの巨竜!」
魔法円が完成したとき、そこから化け物の頭が出てきた。
「竜……だと」
恐れおののき震え、クルスが言った。
四足歩行。濃い緑、硬質の皮膚をした、爬虫類の化け物が全容を現した。
突進の一撃で家屋を倒壊させかねない、鈍重そうな巨体。その背中にひし形の板をずらり、二十枚以上も生やしているのが特徴的だった。地を擦るしっぽにもいくつものスパイクを生やしている。
ジュラ紀後期を生きた草食性の恐竜ステゴサウルス――ドミナと訪れた恐竜展でそいつの骨格モデルが展示されていたのをレキは憶えている。無論、生きている実物を目にしたのは初めてである。
「転生珠の魔力を借りれば、過去の世界に干渉した竜召喚すらカンタンなのよ」
「魔女よ、いよいよ禁忌に触れたな」
「アタシは転生珠で永遠の命を手に入れて、セカイを好きなように塗り替えるの。キライなものは全部消しちゃう。神さまだろうとアタシの邪魔はさせないから」
「愚か。まこと愚かなり」
「神が地球に住まうよりも遥か太古、原初の地上を我が物顔で支配していた竜の血族、その祖先。真白さま、アナタにこの子を退けられるカシラ」
牙を剥き、全身の毛を逆立たせる真白大神。激憤をあらわにする神を尻目にドミナは踵を返す。黒騎士と連れ添って夜の闇に消えていった。
――レキ、アタシは待ってるからネ。
最後にそう言い残して。
太古から現世に復活した恐竜がレキたちの前に立ちはだかる。
先制攻撃を繰り出したのは恐竜からだった。
恐竜は全身を横回転させ、しっぽについたスパイクの一撃を彼女らにぶつける。大振りな予備動作のおかげでその一撃は回避できた。楠は薙ぎ払われ、石畳は無残に剥かれ砕かれた。
背中に生えるひし形の板が発光する。
フォルテが人間形態から猫形態に変身する。
「うろたえないで。さあ、くるよ!」
フォルテが叫ぶ。
鈴珠が目をぎゅっとつむり、レキにしがみつく。
ぼしゅっぼしゅっぼしゅっ、と空気の抜ける音が立て続けにして、恐竜の背中からひし形の板が一斉に射出された。
上空に発射されたひし形の板が、空中で矛先をレキたちに向け、降り注ぐ。
着弾する間際、フォルテが光の壁で皆を護った。
ひし形のミサイルが光の壁に雨あられと飛来する。
着弾、爆発、衝撃の連続。平衡感覚を狂わせる断続的な振動と鼓膜を破らんとする爆音を、レキたちは光の壁の内側で必死に耐えていた。
狙いから外れたミサイルが本殿に着弾して破壊していく。楠がくぐもった声を漏らしながら次々と倒れていく。爆風で石畳が剥がれて宙を舞い、ばらばらと落下する。灰色の土煙が月光を遮る勢いで舞い上がっていた。
十数秒経ち、ミサイルの雨が止む。
全二十二発の爆撃をどうにか凌ぎきると、魔力を使い切ったフォルテは地面に倒れた。
土煙が晴れる。
瓦礫の地と化した境内に、四足歩行の恐竜が一匹、たたずんでいた。
ミサイル充填のためか、恐竜は動きをぴたりと止めている。背中からはひし形のミサイルが生えかけている。それを阻止しようとクルスが放った雷撃も鈴珠の風の刃も、硬質の皮膚に弾かれた。
「真白大神、貴様も力を貸せ。この期に及んで人間に加担しないなどと寝言は抜かすなよ」
「竜を復活させた愚かなる魔女め」
狐の神の細い目が大きく見開かれる。
追い風に乗ってカマイタチが飛翔する。数多飛ぶ風の刃は恐竜の頑強な装甲に浅い傷を彫り、生えかけていたひし形のミサイルを何枚か破壊して自爆させた。
ダメージを受けた恐竜がしっぽを垂直に立ち上げて反撃を繰り出す。しっぽのスパイクから発生した電撃が地を這ってクルスを吹き飛ばした。真白大神も電撃を直に浴びながらもかろうじて持ちこたえていた。
「父上、大丈夫ですか!」
「鈴珠よ、あの忌々しき竜を討つのだ」
真白大神は素早い跳躍で鈴珠の前に立ちはだかり、恐竜の電撃からかばう。狐の姿を借りた氏神は、ついにその場に横たわってしまった。
「ち、父上」
「子煩悩、か。東目命の戯言も正しかったな」
傷つき倒れた父の身体に鈴珠はすがりついた。
短刀を楠の幹に突き刺し、支えにしてクルスは弱々しく立ち上がる。
「神をも凌ぐ竜の中の竜、ダイナソア。俺もいよいよ……いや、まだだ。俺の心の炎はまだ消えない!」
彼の激情も、竜を討つまでには至らない。
ミサイルの生成と発射による永続的な遠隔攻撃と、スパイクから繰り出される物理と魔法の近接防御。それらは恐竜の攻守を完璧にしていた。
恐竜の背中から、ひし形のミサイルがみるみる生えてくる。攻撃に反応して強烈な電撃魔法を放ってくるせいで迂闊な手出しが許されない。
クルスもフォルテも魔力を使い果たし、真白大神も白い息を牙の隙間からぜえぜえ吐いている。
背中のミサイルが再生を終える。恐竜は背を屈め、射出の体勢をとった。
二十二枚のひし形の板が発光する。
次の爆撃を耐え切れる術を彼女らは持っていない。
「やらせるわけには!」
「白猫どの、無謀じゃぞ!」
レキの腕に抱かれていたフォルテが飛び出し、恐竜に突貫する。持ち前の身軽さで、電撃魔法を紙一重で回避しながら恐竜に肉薄すると、人間形態に変身した。
「フォルテ!」
「クルス、レキを頼むよ」
恐竜の皮膚に当てているクルスの手から、膨大な質量を含む光がほとばしった。
世界が白に染まり、音が消えた。




