第39話:凍てつく魔手に引かれ
毎晩、床に着く前、夜空を観察するのがレキの日課になっていた。
星粒の点を繋ぎ合わせて星座を描けるほど、レキは感受性が豊かでも乙女でもない。彼女の関心の対象はもっぱら円な月であった。
群雲に隠れた月が顔を現すたび、色の変化を注意深く観察していた。レキの期待を裏切る月は、いくら待てど薄い黄色をかたくなに維持していた。
蒼い月は、神が降臨する前兆であるという。
北欧の神々も現世に顕現する際、月を蒼に染めるという。
月が蒼に染まりし夜に真白大社へ赴け――龍穴でまみえた真白大神はレキに託宣を与えた。おそらくその晩に真白大神が顕現し、魔力が満ちた禍津薙、もしくは魔力を失った転生珠への対処を施すのだろうとレキたちは踏んでいた。
「真白大社の祭祀の一つに『蒼月祭』なるものがあるそうです。蒼月祭は夏に催されます。まさかその時期まで待たねばならないのでしょうか」
「待てば甘露の日和あり、じゃ」
葛籠の縁に顎をのせてレキと一緒に月を眺めていた鈴珠は、まぶたを擦りながら葛籠の中に頭を引っ込め「ワシは先に寝るぞ」とふたを閉めた。
時計の針三本が頂点で重なる。
レキは無力感とじれったさを我慢しながら布団にもぐった。
「れ、れれれれレキちゃん、私寒いよー」
気まぐれな木枯らしに髪をかき乱されたモモは、肩を抱いて震える。
「走っているうちに温まってくる」
「レキちゃんは平気なの? こんな寒い日に外で体育なんて」
「鍛えているからな」
「お昼休みになるとずっと竹刀振ってるよね。今度私も混ぜて欲しいなー」
「モモ、あれは遊びではない。精神修行の一環だ」
久しぶりに晴れ間が差して雪も解けたため、女子の体育は急きょ長距離走の測定となった。
校門の前に女子生徒たちは集っている。体育教師はバインダーとストップウォッチを携えて測定の準備をしている。
女子生徒たちは皆、身体を震えさせて「寒い」だの「外周五周とか絶対無理」だの口々に弱音を吐いている。縮こまるジャージ姿の集団で唯一レキだけ背筋を正して腕組みし、堂々たる仁王立ちを構えていた。
体育教師がホイッスルを鳴らす。甲高い笛の音に促され、女子生徒たちは一斉に駆けだした。
学校の敷地外周の歩道を女子生徒たちは走る。
一等賞の誉れを狙わんと、先頭争いをする血気盛んな運動部の一群。成績に響かない程度に頑張ろうと、各々のペースを維持して後ろに続く一群。その更に後ろ、おしゃべりを交えてのろのろと走る一群。そのまたはるか後ろには、目を回して息を切らす足取りの危ういモモと、彼女にペースを合わせるレキがいた。
「あとどのくらいー?」
「残り四周半だ。くじけるな。私がついている」
「れ、れれれレキちゃん。わ、わわわ私頑張るよー」
一周したら保健室に連れていこう。モモの身を案じながら横断歩道の前を通り過ぎたとき、見知った人影が横目にちらついたレキはつい足を止めてしまった。
緋色の髪が美しい少女が横断歩道の前に立っていた。
信号の色が青に変わるのを待ちながら肉まんをむさぼっている。
氷雪魔法の使い手、魔女ドミナであった。
「あら、レキじゃないの。ごきげんよう。こんなところでキグウね」
妖精が人間をまやかすかのように、レキの周りをぐるっとまわる。
ジャージ姿が可笑しく映ったのかくすくす笑う。
「愉快なカッコウね。おサムライさんの修行をしていたのかしら」
「体育の授業だ。ドミナはこの辺りに住んでいるのか」
学校の周辺は河川で二つに分断された郊外で、一軒屋やアパートが軒を連ねている。他にはハーフパイプが設置された公園や、煙突から蒸気を吐く製紙工場などなど。登下校の時間を除けばおおむね閑静な住宅地である。
北欧からの小さな使者は普段、日本でどういった暮らしをしているのか。レキはそれとなく話題を振ってみた。
「乱暴な手段は取っていないわ。ごシンパイなく」
その考えは容易く見透かされ、ドミナに軽い調子ではぐらかされた。
ドミナは、自身を魔女たらしめる緋色のローブを今日もまとっている。ローブの下は薄着らしい。ぶかぶかの袖からは華奢な腕がむき出しになっている。
「年末に近づくにつれて寒くなっていく。外を出歩くならくれぐれも防寒を……いや、ノルウェーの住人には野暮だったか」
「ちょっと駅まで行くツモリだったの。バス停はこっちで合ってるわよね」
「ああ、喫茶店前にある。しかし、治安のよい地域とはいえ子供一人で遠出するのは感心しないな」
「なら、オヅを召喚しちゃおうカシラ」
人差し指を掲げたところでレキが慌てふためくと、ドミナは「ジョウダンよ」と舌を出した。子供扱いされたのが癪に障ったのだ。冗談半分な口調にもかかわらず、二つの瞳は「本当にやっちゃうから」と言いたげにぎらついていた。
「立ちはだかる敵がいても、アタシの氷雪魔法でイチコロなんだから。アタシの魔力は異界の魔王すら一目置いているのよ」
「……くれぐれも刃傷沙汰だけは起こさないでくれ」
衣食住はもとより、ドミナの逸脱した善悪の基準もレキの心配事の一つであった。先ほどのあいまいな返答から、クルスとはまた違う意味で彼女も口が堅そうだとレキは感じた。
ドミナは食べ差しの肉まん最後の一口を飲み込む。
「レキ、アタシについてらっしゃい。いいトコロへ案内してあげる」
「あいにく私は授業中でな」
「コッチよ」
レキの事情などお構いなしにドミナは河川に沿って歩いていく。
ドミナに気取られぬよう、ちらりと横に視線を逸らす――ふらふらと走るモモは、もう校舎の角を曲がってしまっていた。
授業の真っ最中に学校を抜け出したら大騒動になる。かといってドミナを放っておくわけにもいかないため、仕方なく彼女の後を追うことにした。自他共に認める手練れの魔導士だろうが、レキからすれば大人ぶって背伸びしたがる年下の女の子に変わりはない。ここで彼女を無視して授業に戻るのはレキの矜持が許さなかった。
ぐずぐずしているうちにドミナは河川に架けられた橋を渡っていて「コッチよー」と手を振っていた。
魔女に追従しながら、レキは携帯電話を人差し指一本でたどたどしく操作し、クルス宛てのメールを打っていた。
――ドミナに捕まった。先生をどうにかごまかしてくれ。
――了解した。中抜けの件はこちらで対処する。問題ない。
頼もしい返事が受信ボックスに届いた。
――モモはどうしている?
――保健室で眠っている。俺と伊勢が付き添っているから問題ない。
胸をなでおろしたレキは携帯電話をジャージのポケットにしまった。魔導士や邪神に関わってから携帯電話を肌身離さず持ち歩いていたのが妙なところで役に立った。
ご機嫌なドミナは母国の言語で民謡を口ずさんでいる。
穏やかな調子の歌を堪能するうち、雄大なフィヨルドの緑と青が自然と浮かんできた。
「安らげる音色だ」
「アタシが寝付くまで、いつもお母さんがウタってくれたの」
「やさしい母親だったのだな」
「アタシが親の愛情を充分にもらっていたのをシって安心したかしら?」
意地悪く指摘されてレキはほとほと困り果てた。
花尾駅付近に建つ科学博物館にレキは連れてこられた。
半球形の建物の自動ドアをくぐってからもドミナの足取りは迷わない。むしろ待ちきれなくなったらしくどんどん歩くペースが速まっていく。お目当てのものが視界に入ると矢も盾もたまらず走り出してしまった。
広々としたフロアの中央に、巨大な爬虫類の化け物が大口を開けて二足で立っていた。
スポットライトを浴びる爬虫類の化け物――恐竜の再現モデルの足元まで駆け寄ったドミナは瞳を輝かせて「わぁ」と感嘆の息を漏らした。
『今月限定、特設恐竜展。現代によみがえったティラノサウルス!』
壁の垂れ幕にそんな文句がでかでかと書かれてあった。
二階建ての家屋に相当する巨体、鋼鉄のごとき硬質の皮膚、岩石すら噛み砕きかねない物々しきあぎと。ドミナはいにしえの地上の覇者、ティラノサウルスの雄々しきいでたちにすっかり魅了されていた。
他にも首の長い四足歩行の恐竜や骨格モデルが展示されている。ドミナはそれらを一旦全部見てまわってから、結局中央にそびえ立つティラノサウルスの足元まで戻ってきた。よくも飽きずに大顎の巨体をずっと仰いでいた。
平日昼間の館内に、入場者はレキとドミナしかいない。
「恐竜、好きなのだな」
「恐竜はニンゲンが生まれるまで地球を一億年以上も支配してきたのよ。地上最強の生物なんだから」
悪びれもせずバリケードをまたいだドミナは、台座によじ登ってティラノサウルスの固い皮膚に寄り添う。
「リザード、ドレイク、ワイバーン、ドラゴン、ヘルカイト……神に等しい実力の持ち主とうたわれる竜の血族たちでも、とりわけダイナソア――つまり恐竜が一番強大だって恐れられている。ティラノサウルスは恐竜たちの王様、最強の中のサイキョウなのよ」
誇らしげに知識をひけらかした。
「ねえレキ。真白大神とティラノサウルス、どっちがツヨイかしら?」
予想外の二択にレキは一瞬、戸惑う。
恐竜と神さまを比べるドミナの発想は実に独特だった。
「真白さまのほうがお強いだろうな」
「どうしてよ」
ドミナは頬を膨らませてレキの選択を非難する。
「真白さまは物理的な力とは一線を画す、神の奇跡を地上にもたらされるからな。伝説によると、真白さまは天上世界からこの地に下って『花尾』と名づけた国を興されたそうだ。真白さまは国を我々人間にお譲りになられてからも、花尾の地を見守ってくださっている」
「ティラノサウルスなら神サマだってペロリと一口よ」
感情むき出しの反論が実に子供らしくて、レキは内心ほっとしていた。なのでつい、彼女に勝ちを譲りたくなってしまった。
「ああ、力比べならティラノサウルスの圧勝だろう」
「でしょ?」
得意げに胸をそらしたドミナが「ふぁ」とあくびをする。
「レキ、アタシ眠くなってきたわ」
まぶたを擦りながらレキにしなだれかかる。
玩具の電池が切れたかのようにドミナの身体から力が抜けて、いきなり全体重を預けられたレキはよろめいてしまった。睡眠というよりも昏睡に近く、いくら肩を揺すっても呼びかけても目を覚まそうとしなかった。




