第3話:狐と桃と暦(後)
理科室に散らかったガラス片を片付けた後、鈴珠を無人の図書室にこっそり案内し、レキとモモは何事も無かったふうを装って化学の授業に臨んだ。昼休みのチャイムが鳴ると同時に弁当を持って図書室へ急行し、人目を盗んで鈴珠を校舎の屋上まで連れ出した。
校舎の屋上は昨夜からの降雪により厚い雪化粧が施されている。
「のう、レキ。ここはちと寒くないかの」
「さむいよう」
鈴珠が歯をかちかち鳴らしながら訴える。両腕を抱いて震えるモモの長いまつげやウェーブのかかった長い髪にも雪が積もっている。レキただ一人、心頭滅却を念じて仁王立ちを崩さなかった。
「仕方ありません。昼休みになると図書室にも生徒が来ますので。そもそも鈴珠さま、神さまは風邪を引かないのではなかったのですか」
「風邪は引かん。じゃが寒いものは寒いのじゃ」
雪をはらんだ風がときおり吹きすさぶたび、モモと鈴珠は揃って身を震わせる。三人は雪風の当たらない物陰に逃げ込み、雪の積もっていない箇所に腰を下ろして膝を抱えた。
「おぬしら、しばし待たれよ」
おもむろに鈴珠は両手を前に突き出す。
「炎!」
そして力強く呪文を唱えた。
鈴珠の呪文に呼応して、かざされた手のひらから宙を漂う小さな火の玉が出現した。火の玉はその熱を以って周囲をオレンジ色に照らし、積もっていた雪を瞬時にして溶かした。
「これは……鬼火!」
「狐火とも言うがの。神格は薄れてもワシだってまごうことなき神の一柱なのじゃよ」
「すごーい」
レキとモモの驚くさまに満足した鈴珠は自慢げに胸を張っていた。
「全盛の頃は江戸を焼き尽くす猛火もたやすく編み出せたのじゃがのう」
「江戸って、鈴珠さま確か大正生まれですよね」
調子に乗って欲張るものだから、あっさりとボロが出てしまった。
ともあれ、鈴珠の狐火のおかげでレキとモモは酷寒の中でどうにか暖を取れた。一同は熱で温まったコンクリートの地面に直接座って弁当箱を並べた。
「鈴珠さまは私と弁当を分け合いましょう」
「苦しゅうない」
「神さま、私の卵焼きも食べますか」
「うむ、苦しゅうないぞ」
モモの箸に挟まれた巻き卵に鈴珠は喰らいついた。
「モモ、もっと私のほうへ近寄れ。そこだと風が当たるだろう」
「ありがとう、レキちゃん。それにしても伊勢くんは大丈夫かなぁ」
「あいつは驚くほど頑丈だ。一週間もすれば退院するさ」
「今日もお見舞いに行ってあげようね。私昨日、真白神社で真白さまにお祈りしてきたんだよ。早く伊勢くんの怪我が治りますように、って」
満面の笑みをたたえるモモは、神社のお守りを指先に吊るしている。祈願に大切なのは物ではなく本人の想いの強さだ、とレキはあえて『学業成就』と書かれていることに言及しなかった。
「伊勢もモモが来るならさぞかし喜ぶだろう。あいつごときに神頼みなどもったいない気はするがな」
「そういえば今度、学校の近くにケーキ屋ができるんだよ。楽しみだなー」
空中に浮く狐火を囲って談笑しながら昼食をとる。その間、モモは鈴珠の耳としっぽを物珍しげにじっと眺めていた。気恥ずかしくなった鈴珠は彼女から目をそらして困ったふうに頬を掻いていた。
「私、神さまに会ったの初めてだよ。神さまって本当にいるんだね」
「なんじゃ、現代では人間と神さまはあまり関わらんのか」
眼下の町並みを眺める。
校舎を囲む住宅街には平たい一軒屋やアパートが無数に立ち並び、そこからだいぶ離れた繁華街では長方形のビルが競い合って背を伸ばしている。四角い建築物の群れは、歩いているときは賑やかに感じられても、丘の上に建つ校舎からだとやけに無機質で無感情に感じられた。
「鈴珠さまの狐火を目撃されたら大騒動になるでしょうね。モモは天ね――コホンッ。いや、えっと、その、おおらかで優しい子だから動じないのです」
「うむ、わかった。ならばワシもしっかり名乗らねばな」
事情を知った鈴珠はここぞとばかりに狐火の前に立ち、一時しのぎの後光を背負う。燃える炎を背にしたところで、狐の耳としっぽを生やした少女では威厳などまるでない。得意げな本人はちっとも気づいていない。
「心して聞くがよい。ワシの名は鈴珠。今より百年のいにしえに生まれし葛籠と狐を守護する神ぞ!」
歌舞伎さながら、腰を深く構えて一歩踏み込み、右手を前に突き出し大見得を切った。
「神さまは鈴珠さまっていう名前なのですか。私の名前は諏訪モモといいます。レキちゃんの一番のお友達です。どーぞモモと呼んでください」
モモは握った両手を頬に添え、ふんわりとした笑みを浮かべた。
「……なるほど。これは一癖ありそうな小娘じゃのう」
鈴珠はたじろぐ。
間延びした喋り方で、雲に腰かけてふわふわ浮いているかのような存在感を漂わせる少女、諏訪モモ。レキが咳払いで隠した言葉を鈴珠はその時点で理解した。