第38話:それぞれのまごころ
あくる日、レキとクルスはフィオに別れを告げて路美町を発った。
破裂寸前まで膨らんだクルスのリュックサックには、フィオが用意してくれたアップルパイがぎっしり詰められていた。帰りのバスに乗っているときも、彼はリュックサックを後生大事にかかえていた。
「加賀スセリか。過ぎた力に翻弄され、禍我に魂を喰われた哀れな奴だ」
クルスは水筒の紅茶をすする。フィオが淹れてくれたのと同じ、ハーブの上品な香りがレキの鼻腔をくすぐる。
「東目命とかいう神の言い分は正しい。神が信仰を得るために人間を生かしているのだとすれば、俺たちに『万能の切り札』は配られない」
かといって、俺も運命とやらに頭を下げるつもりはないがな。
最後にそう付け加えて、クルスは水筒のふたを閉めた。
スセリと似た境遇の彼に、彼女の悲壮な死は響くものがあったのかもしれない。クルスの冷めきった面持ちからそう読み取れたレキはあえて黙ったままでいた。
レキの胸元で禍津薙は眠っている。
魅入ったが最後、邪神の扇は持ち主に破滅をもたらす。それでもレキはこの呪われしアーティファクトを御し、大切な人を護らねばならない。真白大神の勅命だからではない。レキの心の炎を静かに燃やすのは、鈴珠への一途な想いであった。
高速道路を走るバスの窓から緑豊かな自然が眺められる。あと二時間はこの退屈な景色に付き合わねばならない。高速道路を下りれば、風景は雑多な都会の街に様変わりする。
「場合によっては私も、スセリさんやシグマの二の舞を踏んでいたのかもな」
「馬鹿正直な貴様に限って、万が一にもそれはあるまい」
「珍しいな。クルスが他人を認めるだなんて」
ほくそ笑むクルスに対しレキも相応の受け答えをした。
「『燦然たる光』は私の内にあるのだろうか」
スセリの言葉が真ならば、鈴珠が安らげる止まり木になりたい。
過去の世界から帰ってきてから、レキの願望は以前よりも強まっていた。
「コヨミはあの化け狐を娶るのか」
「お前まで私をからかうか……」
「言葉の綾だ。奴が神格復活、それ以外の選択をするのも許容できるのか、と尋ねたに過ぎん」
「『それ以外の選択』だって?」
「俺の憶測だが、奴がコヨミと生涯寄り添う道を選んだとしても、真白大神は貴様らを咎めないだろうな」
真白大神は、鈴珠が安息の日々を得られるならば手段を選ばない節がある。人間の復讐から護るための封印然り、お守り役のレキに邪神のアーティファクトを授けた件しかり。畢竟、娘の幸福を保障する存在ならば、転生珠だろうが禍津薙だろうが人間だろうが構わないのだろう――クルスの憶測はそういった根拠に基づいていた。
そして、クルスの極めて個人的かつ直感的な根拠がもう一つあった。
「俺の父さんは、大魔導士に足る素質がない俺に自由な生き様を選ばせてくれた」
苦い過去をすり潰すかのように歯軋りする。
「泥沼をもがく俺に手を差し伸べた父さんを、俺は恨んだことすらあった」
消極的な親の愛情は、自尊心の強いクルスからすれば見捨てられたも同然だったに違いない。そして、鈴珠ならば多少は落ち込むものの、おそらく彼よりかは素直に消極的愛情を受け入れるであろうこともレキは察しがついた。
「だからといってクルス、それを己の使命を放棄する言い訳にしてはならない」
「生まれながらに押し付けられた役目など使命でもなんでもない。ただの苦役だ」
自棄気味にクルスは吐き捨てる。彼の生い立ちを顧みたレキは反駁をためらった。
「使命とは、抗えぬほどの強い衝動で自覚するものだ」
「抗えぬほどの……強い衝動……」
クルスが力強く放った言葉を反芻する。
「俺が両親の復讐を誓ったように。コヨミが俺を救おうと誓ったように」
鈴珠からは、神になろうという積極的な意志は感じられない。むしろ神としての立場から逃げ出す弱音ばかりが先行している。両親に見捨てられまいと足掻いていたというクルスとは対照的に、彼女は親から愛情をもらう権利すら諦めかけている。
――過ちを清算し、神として人々に崇められる、贖罪の巡礼を往くか。
――すべてを投げ打ち、人間の営みに身をゆだねる、逃避の旅路を歩むか。
――いずれとも違う、新たな可能性の道を拓くか。
どの選択が鈴珠の幸福につながるのか。
レキの認識の中で可能性の枝が成長し、無数に分かれる。頑なだった信念がここにきて揺らいでしまった。
しわだらけの年老いた自分と、相変わらず少女の容貌をした鈴珠が昼下がりの軒先で和やかに語らう――そんな可能性の一つの未来を一瞬、幻視してしまった。独りよがりで腑抜けた願望だ、とレキはその情景を頭から追いやった。
助言を求めて隣を向く。
クルスは窓枠に肘をついて寝入ってしまっていた。
花尾駅のバスターミナルに到着する。
長距離バスを降りるや、鈴珠とフォルテがレキたちを出迎えてくれた。
バスのステップを降りてきたレキにすかさず鈴珠が抱きついてくる。勢い余って狐の耳までこすりつけてくる。一日会わなかっただけだというのに、獣特有の硬い毛触りが懐かしかった。
「待ちわびたぞ。何処へ行っておったのじゃ」
「禍津薙の対処法を探しに」
予期したとおり、鈴珠の表情が翳った。服を掴む手の握力も弱まった。
禍津薙が魔力を満たし、今にも禍我が復活しかねない状態にあること。
真白大神と交信し、八十年前に犯した鈴珠の罪を教えられたこと。
どちらも包み隠さず鈴珠に打ち明けた。
鈴珠はレキから一歩、距離をおく。うなだれたまま黙りこくっている。嗚咽を漏らすまいと固く口を結び、すぼめた肩を震わせ、集中する三人の視線に必死に耐えている。
「すまぬ。皆すまぬ」
すぼめた口から小さな言葉が一つ、こぼれた。
「ワシは嘘をついておった。レキに恨まれるのを、レキに嫌われるのを恐れて。すまぬ。レキの先祖を邪悪な道に陥れた挙句、おぬしらまでをも巻き添えにして」
歯を食いしばり、着物の袖で目元を隠す。呼吸は荒く、歯の隙間を往復する息の音まで聞こえる。肩も呼吸に合わせて激しく上下している。
駅を行き交う通行人たちは、むせび泣く狐耳の少女に好奇の目をやってからすれ違う。鈴珠のすすり泣く声は休日の雑踏にかき消され、レキとクルスとフォルテにしか届いていなかった。
「ワシが……ワシがスセリを殺してしまったのじゃ。レキ……ワシを……ワシを見捨てんでくれ。ワシにはレキしかおらんのじゃ……」
泣きはらした目元は痛々しいほどむくれ、涙でぐちゃぐちゃに汚れていた。
「鈴珠さま」
「うっ、うむ」
嗚咽を飲み込む際の相づちが返事の限界だった。
「これからはもう、隠し事はなしですよ」
腰を屈めたレキは、鈴珠と目線を水平に合わせる。
痛みを伴う罰を覚悟して、きつく目をつむる鈴珠。
そんな彼女にレキは絹のハンカチをあてがった。
ハンカチで顔面を擦り、涙を拭う。別段鈴珠は抵抗せず、レキのまごころをあるがままに受け入れていた。
強張っていた肩の力が徐々に抜けていく。
涙や鼻水をあらかた拭き終えると、先ほどよりかはいくらか見れた顔つきになっていた。
「ワシは嘘をついておったのじゃぞ」
「人間だって神さまだって、嘘の一つくらいつきますよ」
何気ない口調を装ってレキは聞き流す。
「私も鈴珠さまにお願いがあります。見捨てられたと早合点して、私のもとからいなくならないでください」
「……しかし」
「鈴珠さまのためなら、私は真白さまや禍我にだって立ち向かえますよ」
涙を引っ込めた鈴珠は、レキが発した言葉の意味を少しずつ理解しはじめる。
すべて理解し終えると「うむっ」と力いっぱい頷いた。
細めた目から涙の粒が弾けた。
「人騒がせな神だ。いちいち手を焼かせてくれる」
とんだ茶番だったな、とクルスは踵を返す。
「クルス、おぬしの両親が死したのはワシの愚かさゆえでもある。許しを乞うつもりはない。白猫どのにも――」
「俺の両親は」
鈴珠の謝罪の半ばに、クルスの声が強引に割り込む。
「俺の両親は『力ある者の責務』に殉じたまでだ。化け狐ごとき、父さんや母さんの生死を左右できるはずがない。思い上がるな」
そのままクルスは皆を置いてさっさと駅の構内に入ってしまった。
「意訳するなら『鈴珠の責任じゃないから落ち込むな』かな」
好意を素直に表せない主が愛おしいのか、フォルテは口元を手で塞いで笑いをこらえていた。
「僕だってクルスと一緒さ。キミの犯した罪は、悪意によるものではなかった。ただただ幸いだよ。次は僕らがキミたちにお返しをする番だね」
小さく手を振ってから、フォルテは足早にクルスを追いかけていった。
駅の待合室でレキたちは帰りの電車を待っている。
次の電車が到着するまでだいぶ時間があるため、待合室にはまだレキたち四人しかいない。ガラスの壁で仕切られた静かな小部屋で、天井に備え付けられたエアコンだけがごうごうと唸っていた。
「レキはスセリとまみえたのか」
鈴珠がつぶやく。
「邪神も粋なはからいをしてくれるの。そうか、死してもなおワシを案じておったのか。愛い奴よ。ワシを憎んでしかるべきじゃというのに」
鈴珠の目に涙がたまっていく。
「スセリさんを手にかけたお父上、真白さまを鈴珠さまは――」
「みなまで言うな。禍我の降臨を阻止するために止むを得なかったのじゃ。ワシの落ち度を棚に上げて父上に恨み申し上げるなど、お門違いも甚だしいわい」
真白親子のわだかまり。
神になる道からの逃避。
いずれもスセリの死に因るものだとしたら、レキはむなしくてたまらなかった。
――去りし者たちのために生ける己を破滅に追いやってはならない。
フォルテの戒めを噛みしめる。
「鈴珠さま。私はスセリさんの代わりになれたでしょうか」
レキの問いかけの意味がわからないのか、鈴珠は「はて」と訝しがる。
「おかしなことを言うの。おぬしはおぬし、スセリはスセリじゃ」
「どちらがより大切ですか」
「くどい奴じゃの……同じくらいじゃよ。そんなに顔面を近づけるでない、暑苦しい」
鈴珠の両肩を掴んでいた手を離したレキは咳払いをし、つい取り乱してしまった恥ずかしさをごまかした。




